6―2 風邪
「――くしゅん」
「風邪か?」
鼻と口を手で覆い、くしゃみをした私に、隣を歩く誠が横から顔を覗き込むようにして、そう尋ねてくる。
「あはは……」
とりあえず、笑って誤魔化してみる。
まさか、思考のループにはまって、風呂上りに髪も乾かさずぼっとしてしまったとは、幼稚過ぎて誠には言えない。
ちなみに、今日の私の恰好は、赤と黒のチェック柄のワンピース。その丈は少し短めだ。
デートという事で思い切って足を出してみたが、現状の体調を考えると、失敗だったかもしれない、この服装は。
「体調悪いなら帰るか? 家に」
「大丈夫、大丈夫。風邪薬飲んできたから」
「やっぱり、風邪じゃねーか」
私の返しに、誠が呆れたように溜息を吐く。
そして突然、私の手を取り、踵を返す。
「え? ちょっと」
「予定変更」
誠に手を引かれ、私は、今来たばかりの道を強引に引き返させられる。
「誠―」
「デートなんていつでも出来るだろ? それより今は、楓の体が優先だ」
不満げに名前を呼んだ私を、誠の厳しくも優しい言葉が黙らせる。
そんな言われ方をされては、これ以上、駄々をこねるわけにはいかなかった。
家に着く頃には完全に私の体調は悪化しており、中でも特に、脱力感と全身を覆う熱はそろそろ限界近くに達していた。
もう隠す事は出来ないという諦めと、誠が体を支えてくれているという安心感が、精神力で抑え込んでいた症状を表に解放してしまったのだろう。
「大丈夫か?」
「うん」
私の体がよろけるという事で、先程まで繋がれていた手が今は、私の腰に回されていた。当然、お互いの体の密着度は先程までの比ではない。
そんな状況ではないと知りながら、その事を嬉しく思う自分がいた。
本当に、色々な意味で、誠には申し訳ない思いでいっぱいだ。
誠が門を開け、二人で我が家の敷地に入る。
そして、家の前まで行き、誠がチャイムに手を伸ばした。
ピンポーンという軽快な音の後、間もなくして機械から声が聞こえてくる。
『あら、誠君? どうしたの?』
「すみません。楓の具合が悪いみたいなんで、開けてもらいますか?」
『え? ホント? 分かった。今開けるわね』
あまり待つ事なく、扉が内側から開く。
「わ。ホント。ごめんなさいね、誠君」
「いえ、二階連れてきますね」
「うん。そうしてくれる?」
お姉ちゃんと誠の会話を、どこか遠くの方で聞きながら、私は誠にされるがまま、なすがままの状態だった。
玄関に座らされ、靴を脱がされる。
そして、再び立ち上がり、階段を登る。
自室の扉が開き、今度はベッドに座らされた。
「じゃあ、悪いけど、誠君、お願いね」
「え? ちょっと、着替えとか……」
「二人付き合ってるんだし、大丈夫でしょ」
「そんな……」
朦朧とし始めた視界の中、お姉ちゃんが部屋を出て行くのが見えた。
「えーっと、どうする?」
「誠が嫌じゃなければ」
私としてはお願いしたい。
「そう……。えーっと、パジャマは……」
立ち上がり、ふらふらと箪笥の前まで行き、パジャマの上下を手にし、元の位置に戻る。
「ん」
「えーっと、それだけ動けるなら、自分で着替えれるんじゃ……」
「ん」
なかなかパジャマを受け取ろうとしない誠に、私は催促の意味を込め、それを更に差し出す。
「はい。分かりました……」
正直、頭はぼっとするし体はふわふわしているが、着替えくらいは自分でも出来る。
しかし、こんな機会でもないと、着替えをしてもらうなんてシチュエーションは訪れようがないので、こんな時ぐらい、わがままを言っても許されるだろう。
パジャマが私の手から離れる。
意を決したような顔で、誠が私の事を見る。
「バンザイしてもらってもいい?」
誠の指示に従い、両手を挙げる。
「……」
一瞬の躊躇の後、誠の手が私の衣服に掛かる。
「少し腰浮かせて」
私が腰を浮かせた瞬間、するするとワンピースが私の体が離れていく。
服を脱がされている事もそうだが、この抱き着くような体勢も結構ヤバい。
「もういいよ」
お許しを得て、私はベッドの上にストンとお尻を落とした。
自分の部屋で、彼氏と二人きり、しかも下着姿。
なんだろう、この状況は?
自分でやらせておいて、凄く不味い状況な気がしてきた。
「はい。腕通して」
何かが吹っ切れたのか、落ち着いた様子で、誠が私に服を着せていく。
その様はまるで、我が子の着替えを手伝う父親のそれのようで、その眼差しは、意識しているこちらが申し訳なくなるほど穏やかだった。
その後、着替えを済ました(させられた)私は、誠によってベッドに寝かせられた。
「具合はどう?」
「別に。そもそも、そんなに悪くないし」
「そっか。ならいいけど」
そう言い、誠がベッドから離れる。
「あっ――」
思わず、声が漏れた。
「どこにも行かないよ」
誠が笑い、勉強机から引き出した椅子に腰を下ろす。
「まぁ、邪魔なら出てくけど」
「いじわる……」
ふん、と拗ねたように私は、布団を頭まで引き上げた。
布団を被った途端、顔がにやけてしまったのは、誠には内緒だ。
目を開けると、目の前にぼやけた天井が映った。
どうやら、いつの間にか寝てしまっていたようだ。
顔を右に向ける。
誠が座っているはずの椅子は空席で、室内に私以外に人の気配はなかった。
もう、帰っちゃったのかな……。
ベッドの上に体を起こす。
症状が出たてだったためか、少し眠っただけで体の方は大分楽になった。
喉、乾いたな……。
手を付き、ベッドから立ち上がる。
立ち上がった拍子に、僅かに体がふらついたが、すぐにそれにも慣れた。
まだ本調子とまではいかない体の状態で、何とか扉まで辿り着く。
――声が聞こえた。
若い男女が会話をする声。
どちらも、私のよく知る、よく聞く声だ。
「じゃあ、まだ話してないのね。楓に。あの事は」
「はい。会って早々、こういう事になったので」
あの事? 何の事だろう?
何やら、私に関する事らしい会話に、つい、いけないと分かりつつ、聞き耳を立ててしまう。
「余計なお世話かもしれないけど、こういう事は、早めに言っておいた方がいいわよ。時間が経てば経つ程、言うタイミングが見つからなくなるもの、だと思うから」
「そう、ですよね……」
二人の会話は肝心な所がボカされていて、よく分からなかった。
とにかく、誠に関する何かを、お姉ちゃんは知っているが私は知らない、と。そういう事らしい。
「うー……」
内容は分からないが、なんか悔しい。
私の彼氏なのに。
私の彼氏なのにっ。
大事な事なので、心の中で二回叫んでみた。
……特に何も起きなかった。
「それにしても、随分と急な話だったのね。お父様の転勤の話」
え?
お姉ちゃんの放った聞き捨てならない言葉に私は、トリップしかけていた自分の世界から、一瞬で現実世界に戻った。
転勤? 誠のお父さんが? じゃあ、誠は……。
「俺も、初めて話を聞いた時は驚きました。けど、仕事じゃ、しょうがないですよね」
「寂しくなるわね」
「そう、ですね。だからその前に、楓を父に紹介しておきたいんです。今度会えるのは、いつになるか分からないから……」
扉を離れ、覚束ない足取りでベッドに向かう。
頭の中はぐちゃぐちゃで、意識が、まるで自分の物のではないようにふわふわしていた。
全身から力が抜け、ベッドに倒れ込む。
誠がどこかに行っちゃう? そんなのヤダだ。絶対にヤダ。
けど、家族の問題に私は口を出せないし、もう決まってしまった事を今更取りやめさせるわけにはいかないだろう。
でも。けど。だけど。
「あー……」
目が回る。
いきなり動いた反動か、精神的ショックによるダメージか、私の意識は急速に自分の体から離れつつあった。
「誠……」
呟く声は微かに掠れ、私の意識は暗闇に消えた。




