4―1 彼女
桂木梓は、私にとって憧れだった。
何でも卒なくこなし、勉強も運動も優秀な成績を収める姉は、私にしてみれば自慢の姉で、優しいお姉ちゃんが私は大好きだった。
――だった。
そう。いつの間にか私は、姉に対し、憧れや自慢とは程遠い、嫌な感情を持つようになっていた。
それでも、姉の背中を追う事だけはどうしても止められず、結局、高校は姉の母校である白詰学園に進学した。
そして、その進学した高校で、私はあいつと出会った。
「――楓」
名前を呼ばれ、意識が浮上する。
声のした方に視線を動かすと、クラスメイトで友人の、美幸の顔がそこにあった。私がぼっとしていたためか、その顔は呆れ顔だ。
「今、私の話、聞いてなかったでしょ?」
「え? あー。うん。全然聞いてなかった」
美幸相手に取り繕っても仕方ないので、正直にそう答える。
「うわぁ。ひどっ。そこは嘘でも悪びれなさいよ」
「で、何?」
「……」
自分の言葉を見事にスルーされた美幸が、私の事をジト目で睨む。
「この前のデートの話」
見つめ合う私達の横から、ダウナー系の声が話に割り込んでくる。
横を向く。こーちんが半分閉じたような目で、こちらを見ていた。うん。今日も何だか眠そうだ。
「あー。うん。行ったよ、デート」
「そうじゃなくって!」
バン、と私の机を叩き、美幸が体をこちらに乗り出す。
「どこに行って、何をしたかを聞きたいのよ、ウチらは」
興奮気味でそう話す美幸の横で、うんうん、とこーちんも頷く。
どうしてこの子達は、ここまで他人の恋路に興味津々なのだろう? 所詮は他人事。のろけなんて聞かされても楽しくないだろうに。……いや、別にのろけないけどさ。
「デートって言っても、そんな人様に話して面白いもんじゃないよ」
「それでも聞きたいの!」
うんうん。
「はぁー」
私は溜息を一つ吐くと、観念をし、一昨日のデートの様子をかいつまんで話した。
もちろん、私が必要以上にはしゃいでいた事は、二人には内緒だ。
「うわぁ。このリア充が」
「……」
話せと言われて話したら、この反応。ホント、やっていられない。
「なんか、落ち着いた感じ」
「そりゃ、そうでしょ。楓はその彼氏と別に、付き合いたてってわけじゃないんだから」
「……」
そういえば、私と誠は、付き合ってもう二か月が経とうとしているという体になっていた。
危ない危ない。自分で喋っておいて、今すっかり忘れていた。
「で?」
「〝で〟?」
質問の意味が分からず、私は小首を傾げる。
「実際のところ、楓達は今、どこまで行ってんの?」
「――ッ」
美幸の言葉の意味を正確に理解し、私の全身が仄かに熱くなる。
つまり……そういう事だ。
「手は繋いだわよ」
「知ってる。というか、それは見た」
そうだった。あの時、二人の目を誤魔化すという名目で、誠の手を二人の目の前で握ったのだった。我ながら、大胆な真似をしたものだ。
「そうじゃなくて! AやらBやらCやらよ」
古い。私も知識としてはその意味を知ってはいるが、誰かが口にしているのを聞いたのは初めてかもしれない。
「いいでしょ別に。私と誠が何してようが」
「え? それって……」
私の言葉に、二人の表情が困惑と期待の入り混じった、摩訶不思議なものに変わる。
「ご、ご想像にお任せします」
言ってしまった。とはいえ、今更、手を繋ぐ以上の事はまだ何もしていないとは、さすがに言えないし、二月付き合っていているという設定ではそれは通用しないだろう。
「ですって、奥様。聞きました?」
「ばっちり。凄い。楓、大人」
「……」
二人の友人から、それぞれの感情の篭った視線を向けられる中、私は一人、心の中で頭を抱えるのだった。
昼休み。私は誠を誘って、中庭に来ていた。
三脚あるベンチの一つに並んで腰を下ろす。私達の他にも中庭には数名の生徒がおり、その中には私達以外のカップルも見受けられ……。
「……」
カップルの女の子の方と視線が合い、にこりと微笑まれる。
「――ッ」
私は途端に恥ずかしくなり、慌てて彼女から視線を外した。
何だかよく分からないが、凄い。さすがだ。
「何? 知り合い?」
その様子を見て、誠が私にそう尋ねてくる。
「ううん。全然。全く」
私は笑顔で首を横に振る。
嘘ではない。彼女と私は全くの赤の他人だ。私は彼女の名前はおろか学年すら知らない。ただ一つだけ分かるのは、彼女が私より断然大人であるという事だ。
……もちろん、年齢の話ではない。
「ふーん。まぁ、いいや。それより、早く飯にしようぜ」
「うん」
誠には、今日二人分の弁当を用意してくる事を前以て知らせておいた。だから、今日誠は手ぶらで、彼の分の昼食は今私の手の中にある。
「はい」
「サンキュー」
青い布に包まれた弁当箱を誠に手渡す。
誠はその包みを、早速、嬉々として解きに掛かった。
やばっ。なんか、もの凄く緊張する。
誠の口に合わなかったらどうしようとか、そもそも付き合い出したからっていきなりこんな事をしてきて良かったのかとか、色々な思考が私の頭の中を駆け巡る。
「お」
「――ッ」
弁当の蓋を取り、誠が声を挙げた。
その反応は何? いい反応? それとも悪い反応?
「美味そう。食べていい?」
輝く瞳に見つめられ、私はこくりと頷いた。
誠が箸を持ち、まずは卵焼きにそれを伸ばす。
この前、美味しいと言ってくれていたので、卵焼きは大丈夫なはず。……多分。
「うん。美味い。最高」
誠の感想に、私はほっと胸を撫で下ろす。
まずは第一関門クリアといったところだろうか。
それから誠は幾つかのおかずとご飯を口に運び、その度に味の感想を私に告げてくれた。
……良かった。誠の口に合って。
「楓は食べないのか?」
「え? あ、うん。食べる。食べるよ。当たり前じゃない」
「?」
私の不自然な返答に、小首を傾げる誠。
こいつ。前から思っていたけど、平然とし過ぎ。まさか。こんな顔して、女性経験豊富、みたいな?
「あのさ」
「何?」
自分の弁当の包みを解きながら私は、秘かに気になっていた事を誠に尋ねる。
「誠は、その、誰かと付き合った事とかあるの?」
うわぁ。聞いちゃった。というか、こういう事って聞いていいの? 分かんねー。
「ないよ。楓が初めての彼女」
初めての彼女、初めての彼女、初めての彼女……。
誠の発した言葉が、私の中で反響を伴って何度もリピートされる。
やばっ。さっきとは別の意味で、心臓が爆発しそう。顔から火が出るかも。
「って、おい。どうした? 顔真っ赤だぞ」
「うるさい。見んな」
私は真っ赤に染まった顔を見られるのが恥ずかしくて、慌てて誠から顔を背けた。
何? 何なの? 私ばっかこんな調子で、ホント馬鹿みたい。
「楓は?」
「え?」
ふいに聞こえてきた質問に、私は思わず後ろを振り向く。
視線は私ではなく正面に。頬は照れているのか仄かに赤く、口は軽く一文字に結ばれている。
「……私も誠が初めての彼氏だけど」
そんな誠の様子に戸惑いながら、私は正直にそう答える。
その瞬間、私は見てしまった。誠の口元が微かに綻ぶのを。確かに、この目で、はっきりと。
「そっか。おんなじだな」
「うん」
何だろう? この感じ……。温かくて、こそばゆくて、嬉しくて、幸せで、恥ずかしい……。
もしかしてこれが、付き合うって事なのだろうか?




