1―1 夢
高校に入ったら全てが変わる――本気でそう思っていた。
霧の中、突然視界が開けるように。夢から醒めるように。全てが変わる、そう思っていた。
そんな訳ないのに……。
「はぁー」
溜息を一つ。
溜息を一つすると幸せが一つ逃げると言うが、それなら高校入学以来俺は何度幸せを逃してきた事だろう。十や二十でない事だけは確かだ……。
「はぁー」
本日二度目の溜息。
止めよう止めようと思っているのだが、こればかりは仕方ない。生理現象……ではないが、似たようなものなのだから。
「行くか」
独り言。
これも高校入学を期に増えた事に一つだ。
長い長い坂を登り、校門を目指す。
なぜこんな学校を選んでしまったんだろう。
……理由は分かっている。あの人がいた学校だから。
〝いた〟。そう。あの人がこの学校にいたのは、今から十年以上前。今はそれこそ、縁もゆかりもないというのに……。いや、縁やゆかりはあるのか。卒業生っていう……。
だからどうした、という話だが……。
私立白詰学園。
県内ではそれなり有名な進学校で、大学への進学率も高い。部活も運動部を中心にそれなりに成績を残しており……。
それなり、それなり……。
良く言えばバランスの取れた、悪く言えば特に特徴もない学校。それが白詰学園。入るまで気にも留めてなかった事だが、入って――現実を突き付けられ、その事がやけに重く俺の肩にのし掛かってきた。
しょうもない理由で選んだ学校で、特に特徴のない学校で、俺は一体これから何を目標にやっていくのだろう。
進学? 部活? それとも他の何か?
俺には何もない。特技も、好きな事も、趣味さえ俺にはないのだ。そんな俺がこの学校でやれる事といえば……。
校門にもたれるように誰かが立っていた。その姿は、誰かを待っているようにも見えた。
思考を頭の中で繰り広げている内に、いつの間にか坂は終わりに近付いていた。
茶色くセミロングの髪が、やけにはっきり明るく見えた。
どこかで、見た気がする。
いや、同じ学校に通う生徒同士なんだから、見てはいるのだろう。どこか。学校の中とか。通学途中とか。
それに彼女はこう言っては何だが、特別目立つ容姿をしている。
茶色い髪もそうだが、顔つきもどこか日本人離れしており非常に整っている。スタイルもよく、服から伸びる手足はモデルのように長く細い。それでいて膨らむ所は……いや、これはセクハラか。とにかく容姿はとても優れている。そして、恰好は……チャラい。
シャツのボタンは上から二つほどが外され、リボンも緩く結ばれていた。スカートは短く、下手をすれば中が見えてしまうのではないかと心配になるくらいだ。制服を適度に着崩したその恰好は、良くも悪くも皆の目を引く事だろう。
「何?」
女生徒が俺を睨みつける。
視線が明後日の方向を向いていたため大丈夫かと思ったが、しっかりバレていたらしい。
「いや……悪い」
立ち止まり、呟くようにそう返す。
「何それ」
不機嫌そうに女生徒の目が俺から離れる。
変な奴と思われたのかもしれない。ま、実際、今の俺は間違いなく、変な奴なんだけど……。
女生徒の横を通り、校門を潜る。
視線を感じ、振り向くと、女生徒がこちらを窺うように見ていた。
「――ッ」
俺と目が合い、女生徒はすぐに目を逸らす。
何なんだ、一体。
首を傾げ、ふと空を見上げる。
見上げた空はどこまでも青く、また広かった。
何かが起こる、そんな気がした。
――正義の味方になりたかった。
とはいえ、憧れたのは、テレビの向こうの仮面を被ったヒーローや五人組の何とか戦隊ではなく、一度だけ会った年上のお姉さんに、だったが……。
小学三年か四年の時の事だった。その日、俺は友達と鬼ごっこをしていた。運動神経が当時からあまり良くなかった俺は、なかなか友達を捕まえられず、ずっと友達を追い掛けて走り回っていた。
走る、走る、走る。
「待ってよー」
友達の背中をやけに遠く、下手をすれば一生届かないんじゃないかとすら思えた。
息は弾み、呼吸は苦しく、足は重かった。
多分、石か何かだったと思う。何かに躓き、俺は激しく転倒した。
痛みで立ち上がれなかった。悔しくて立ち上がれなかった。涙が自然と目から溢れた。
泣き叫ぼうと上げた顔の前に、ふいに手が差し出された。
「大丈夫?」
声がした。優しい、柔らかな声だった。
視線を上げると、綺麗なお姉さんが立っていた。優しそうな顔で、俺を心配そうに見ていた。
俺はその人の手を取り、立ち上がる。
涙は、いつの間にかどこかに引っ込んでいた。
「あー、擦り向いちゃってるね」
お姉さんは苦笑いを浮かべ、俺の顔を見た。
「歩ける?」
こくりと頷く。
お姉さんに手を引かれ、水飲み場に連れていかれる。
そこで傷口を洗われた。
痛かったが、今度は泣かなかった。
最後にお姉さんは俺の傷口に、スカートのポケットから取り出した自分のハンカチを当てた。
「これでよし。家に帰ったらちゃんと消毒するんだよ」
そう言うとお姉さんは、俺に微笑み掛け、その場から去っていた。
「あ」
何か言わないと口を開く。だけど、俺の口から発せられたのは、ただの一音だけで。お姉さんを黙って見送る事しか出来なかった。
後に残されたのは、傷の痛みとお姉さんが当ててくれたハンカチだけ。
それから俺の人生の目標が決まった。
あのお姉さんのように誰かを助けたい。転んだ子供に手を差し伸べられるような、そんな正義の味方になりたい、と。
しかし、憧れたのは、飽くまでもあのお姉さんのような存在だったので、警察官や消防士になろうとはこれっぽっちも思わず、またそうなる努力もしてこなかった。
ただ困っている人には積極的に手を差し伸べ、助けるようにしてきた。
どこかで、そうしている内に、あのお姉さんといつか再会出来るような気になっていたのかもしれない。そんなはずないと気付いたのは中学に入ってからで、本当の意味でその事に気付いたのは高校に入ってからだった。
いつしかあのお姉さんと会った事は過去に変わり、本当にあのお姉さんが実在したのかどうかさえ俺の中で疑わしくなっていった。
唯一残されたハンカチだけが、あの出来事が現実に起きた事だと俺に教えてくれていた。そのハンカチの隅には、金色の糸で校章が刺繍されていた。
私立白詰学園の校章が。




