16. ケ・レント
交渉はうまくいった。それでもリーシンが自分の隠れ家に戻れたのは、夜が更けてからになった。ネケナはもう寝ているかもしれない。そう思ってリーシンは軽くトントンと扉を叩いた。2回、4回、そして3回。
もし王女がおやすみになっていた場合は、もっと強く扉をたたかなければならない。仮に叩き起こすことになったとしても、今すぐに王女の身の安全を確認しなければならないからだ。少し待つと、閂を外す音がして扉が開いた。すぐ前にこちらを見つめる王女がいた。リーシンは隠れ家に入って扉を閉めると新妻を強く抱きしめた。
一人で怖くなかったか? 夕食は済ませたのか? それから明日は二人でどうするのか。聞くべきことも、話さなければならないこともある。閂すらまだかけていない。それなのにリーシンは新妻をただただ抱きしめ続けた。
カンテラの揺れる炎に照らされた部屋の中で、二人はベッドに腰掛け、パンを分け合いながらいくつもの話をした。彼女は、そしてリーシンもだが、夕食をまだ取っていなかったのだ。外で何をしていたかとか、これから向かうケ・レントは数百人規模の村だが、高級葡萄酒の産地で有名であり、比較的裕福な領地であることとか。
王女には粗末すぎる食事を終えると、後はもう寝るだけだ。とても粗末すぎるが、ベッドを王女に使ってもらい、リーシンは椅子に腰掛けて朝まで仮眠するつもりだった。
だが先に寝台に体を横たえたネケナが、リーシンにささやく。
「リーシン、こちらに来て私を守って」
リーシンは激しく動揺した。今日は陛下にも、王女殿下に弄ばれてばかりだ。そして今回もやはり、自らの欲望を抑えることができなかった。リーシンは新床に上がり、そして自らの新妻を抱きしめた。
「僕は君を敬愛し、忠義を尽くすつもりだった。こうして君を抱きしめるなんて不遜なことは、これまで考えたこともなかった。でもそれは自分に嘘をついていたんだ」
ネケナは何も言わずにリーシンを抱きしめ返してきた。
「そう、ずっと君を僕のものにしたいと、せめて心だけでも通わせることができないのかと、そういった思いを、自分でも気づかない心の奥底に閉じ込めていたんだ。それを君自身に暴かれてしまったんだね」
その隠していた欲望をリーシンに突き付けたのは陛下だったが、リーシンを選んだのは王女殿下なのだから、これで間違いないだろう。ネケナはリーシンの問には答えずに抱きついたままだ。
「ネケナ、君を愛しているよ。ずっと昔から君を愛しているよ、愛しの僕の王女殿下」
ここでネケナはリーシンの首に回していた手を緩め、顔をリーシンの目の前に移した。机の上で灯したままのカンテラが、闇の中の彼女の横顔を仄かに照らす。
「リーシン、あなたの気持ちはとても嬉しいわ。私もあなたの事をとても愛しているの」
ここで少しネケナの口調が変わる。
「正直な話、私はこの国の女王になるつもりだったわ。でもそれが叶わないのなら、あなたと人生を共にしたい、そうお父様にお話ししたの。でもね、リーシン」
王女の整った顔立ちがリーシンに迫る。
「今の私の頭の中はこれからのことだけでいっぱいなの。私の花婿様が、初夜で私をどうするつもりなのか、そのことしか今は考えられないの」
翌朝、リーシンとネケナは夜明け前に隠れ家を出て、王都の西門前の広場に来た。この西門からソサへの街道を1日歩いたところの大きな街に泊まり、そこから街道を離れてもう1日歩いてケ・レントの村に着く。そういう余裕を見た行程となっている。既に西門には王都を出ようとする人たちが座り込んで並んでいた。広場で一番目立つのは武装した10人弱の兵士たちだ。そのうち二人は馬を連れている。あれがヌングラ卿が手配してくれた騎士だろうか。
近づいて確認するとやはりそうだった。リーシンとネケナが近づくと、フードをおろしていてもわかるのだろう、全員が一斉に跪いた。なお跪く相手はリーシンではなくてネケナに対してである。あまり目立ちたくなかったので、リーシンは皆に立ちあがるようにお願いした。
騎士が二人も来てくれるとは思わなかった、そう話すと二人はまだ従騎士の身であり、指揮官となる騎士は今日のうちに仕事の引継ぎをし、明朝王都を出て一行を追いかけるとのことだった。おそらくケ・レントに着く前には合流できるだろう、との見通しだという。これだけの人数と3頭の馬を村の収入で賄いきれるのかわからない。彼らは王軍所属のままなので、あちらから給金がでてくれないだろうか。
そんなことを考えながらも、リーシンは彼らに礼を述べた。急務に対応できるのが王軍の本領とは言え、彼らも随分と急いで準備をしてくれたはずだ。リーシンの礼に彼らは再度一斉に跪き、声をそろえてに答えた。
『光栄でございます』
このケーカー特有の声をそろえる文化にも、リーシンはすっかり慣れた。なお、光栄なのはネケナ王女殿下を守護することである。夫であるリーシンはその代理人に過ぎない。
従騎士たちが跪いたり声をそろえたりしたのが、広場内ではさぞ目立ったのだろう。馬車を伴った商人がこちらにゆっくり近づいて来た。昨日交渉した酒問屋だ。わざわざ2頭立てにした馬車、荷台に積んだおそらくは空の酒樽と他いくつかの荷物。彼はケ・レントの葡萄酒を扱っているので、その領主となるリーシンの無茶な依頼を断ることができないのだ。
気に入ったのは荷台の一部に、簡易の幌が設けられていたことだ。これはリーシンが指示したことではない。ネケナが日や雨に当たらないようにと自分たちで考え、夜を徹して作業してくれたのだろう。この幌と荷台に並んだ酒樽があれば、万一の際に弓矢で狙うのも難しい、そういう効果も見込める。
見ると幌の中にはシーツも敷かれている。シーツが盛り上がっているのは、下に藁かなにか柔らかいものが敷いてあるのだろう。ネケナがあれに腰かければ、2日程度の旅であれば、王女殿下でも不自由せずに過ごせるはずだ。
この商人には今後も便宜を図ってやろう。リーシンはネケナを荷台に乗せる。高貴な新妻を他の男性の手に触れさせるわけにはいかない。
そこに一人の若い司祭服の男が遠慮がちに声をかけてきた。これはリーシンが、昨日ズヒンカ大司祭にお願いしたことだ。将来が楽しみな俊英の若手司祭を手配しよう、大司祭はそう請け負ってくれた。若い司祭の顔は気張っているが、眠気は隠しきれていない。彼も大慌てで旅と赴任の用意をしたに違いない。リーシンは彼と、大司祭と、そしてリーシンには珍しいことだが神への感謝の言葉を告げた。
これで旅立つ人員がそろった。周りを見ると、西門に並ぶ人の列は既に立っていた。夜明けにはわずかに早いが既に王都の門は開いたようである。リーシンたちは身分の特権を活かし、行列には並ばずに西門へと向かった。




