第7話 初収録
一言で言えば、圧巻だった。時間があっという間に過ぎていく。琴音さんの歌を形容することの出来る語彙が、自分の中に見つからなかった。
「心に、ひとつかみの花がっ……!」
目の前にいるのは柊琴音という人間ではなく、Kotoneという名の楽器のように思える。さっきまでの軽やかな声とは違う、心を震わすような低い声。一人の人間がここまで周波数の異なる音を奏でることが出来るのか、とただただ驚く。
「咲いて、散って……!」
琴音さんは右手で作った拳を掲げて、目を見開いている。意図的にそうしているのではなく、無意識にそうなるのだろう。ノイズが入らないのかな、と素人ながらに心配になるけど、多少の雑音を許してでも表現したいものがあるのかもしれない。
(綺麗だな……)
心の中に声を漏らす。俺は歌のことは分からない。今まで全く音楽に興味を持ったことはなかったし、歌い手の動画なんてほとんど観たこともない。だから、いま自らの鼓膜を震わせている音符そのものに心が動かされることはない。
だけど……目の前で命を燃やす琴音さんは、間違いなく美しかった。周りが見えなくなるくらい、自分だけの世界に入り込めるくらいに集中している。文字通りに全神経を研ぎ澄ませて、声帯を揺らすことだけを考えているのだ。
昔の自分も、かつてはああだったのかな。右肩を壊すまで、ずっと部活に熱中していたあの頃の自分も……ああして、目の前のことに打ち込めていたのだろうか。そう思うと、琴音さんはどこか他人とは思えない。
「だから今――」
歌は最後の盛り上がりに突入した。転調したところを聞くに、ラスサビなのかな。琴音さんの歌唱はさらに激しく、情熱を増していく。そして――
「どうかっ、駆けていけっ……!」
ポニーテールが揺れて、額から汗が散った。窓から差し込む光が水滴に反射して、キラキラと輝いている。まるで歌番組の演出みたいで――その幻想的な光景に、思わず息が止まった。
「はあっ、はあっ……」
ラストのワンフレーズを歌い切った琴音さんは、全てを解き放ったかのように息を切らし、全身を脱力させていた。やつれたように見えるのは、気のせいではないだろう。
「……よしっ」
自分の中で「OK」が出たのか、琴音さんはヘッドホンを外した。そのまま俺の方に顔を向けると、ニッコリとほほ笑んで……口を開く。
「終わりましたっ!」
「は、はあ……」
「ありがとうございましたっ! きっとうまく録れたと思いますっ!」
琴音さんはペコリと頭を下げた。さっきまで鬼神の如き表情を浮かべていたのが嘘みたいで、こっちが腰を抜かしてしまいそうになる。歌っているときとはまるで人が違うな。
「また別の曲を録音するんですか?」
「ええっと、とりあえず今歌ったのをパソコンで確認しますっ!」
「それならリビングへどうぞ。ちょっと休憩しましょうか」
「じゃあっ、先に片付けだけしちゃいますっ」
その返事を聞いて、俺は一足先に和室を出たのだった。
***
「春さん、これって……」
録音機材を片づけ、リビングに足を踏み入れた琴音さんが……驚いた顔をしていた。視線の先にはちゃぶ台があり、その上にはキャンディ入りのかごと水の入ったピッチャーがある。
「すいません、歌い手の方がどんなケアをしているのか分からなくて。天然水とのど飴だけでもと思って……」
「わ、私のために……?」
台所からコップを運びながら、琴音さんに向かって答えた。家事を代わってもらうのに、ただ場所を貸すだけでは割に合わないと思ったのだ。大したことは出来ないけど、精一杯の手伝いをしたい。
「ささ、座ってください。遠慮せずに」
「は、はいっ」
そう促すと、琴音さんは照れたように頬を染めつつ、ちゃぶ台の前にちょこんと正座した。俺もすぐ近くに座り、ピッチャーからコップに水を注ぐ。昨日琴音さんが帰ったあと、近くのスーパーで天然水のペットボトルを箱買いしたのだ。左腕だけで運ぶのは大変だったけど、琴音さんの努力を思えばそれくらいは屁でもない。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
なみなみと水が入ったコップを差し出した。琴音さんは少し戸惑いを見せつつも、両手でコップを持つ。すると、なんだか驚いたように声をあげた。
「あっ」
「ん?」
「……このお水、常温ですか?」
「あっ、はい。冷水だとかえって喉に悪いかと思ったんですけど……」
琴音さんはコップを置いて俯いてしまった。……ぬるいのは嫌だったのかな。やっぱり素人考えで気遣うのはダメか――
「春さんっ!」
「!?」
次の瞬間、体中が柔らかな感触に包まれた。Tシャツの生地越しに、自分のものではない体温を感じる。何が起こったのか分からず、つい目をつむってしまったけど……目を開けると、琴音さんが俺の身体に抱きついていた。
「琴音さん!?」
「私っ、嬉しいです! こんなに優しくしてもらったの、初めてなので……」
「そっ、そんなこと言わなくても」
「本当なんです。ずっと……ずっと、一人でやってきましたから」
琴音さんは俺の背中に手を回し、力強く抱きしめて離してくれない。……どうしたらいいかな。会って二日目の女の子にハグされて、胸が高鳴っている自分がいる。だけど、俺の方から抱き返したらそれはそれで違うような――
「本当にっ、ひとりでっ……」
「こ、琴音さん?」
「わたっ、わたしっ……!」
その声が嗚咽となったとき……気づけば、琴音さんを抱きしめていた。泣きじゃくるというよりはむせび泣く感じ。
「すいませんっ、急に泣いたりして……」
「大丈夫ですよ、気にしないでください」
手でぽんぽんと琴音さんの背中を叩いてあげる。こんな小さな背に数百万人もの登録者を抱えているのかと思うと、身の毛がよだつような思いがする。期待、歓迎、失望、嫉妬。ありとあらゆる感情を背負ってきたのだろう。それも……おそらく高校生の頃から、ずっと一人で。
「そんなに泣いたら喉に悪いですよ。水でも飲んで、ゆっくり落ち着きましょう」
「は、はい……」
宥めてあげると、ようやく琴音さんが離れた。ぐすんぐすんと涙ぐみ、目を腫らしている。俺は近くに置いてあった箱ティッシュを取り、差し出した。
「ありがとうございます。すいません、私ったらおかしいですよね」
「いえいえ、ずっと一人で戦ってきたんでしょうから。琴音さんは立派です」
「歌い手のことがバレたのが……本当に、春さんで良かったです。私、期待に応えられるように頑張りますから」
「そこまで言わなくて大丈夫ですよ。僕はただの貸主ですから」
「じゃあ、私は?」
「……通い妻?」
「きっ、昨日のことは忘れてくださいってば!!」
「冗談ですよ、冗談」
琴音さんは顔を真っ赤にして声を張り上げていた。どうやら元気を取り戻してくれたみたいでホッとする。
「お水、いただきますっ!」
むーっと不満そうな表情のまま、琴音さんはコップを口につけた。そのまま勢いよく傾けて、あっという間に飲み干してしまう。
「ぷはーっ!」
「お代わりもありますよ」
「飲みますっ! くださいっ!」
「はい、喜んで!」
言われるがままにピッチャーを傾け、コップになみなみと注いでやる。やっぱり緊張していたのかな。俺の家での初収録ってこともあるし。
「あっ!」
「はい?」
「そうだっ、大事なことを聞き忘れてましたっ!」
満杯になったコップを右手に抱えながら、琴音さんが俺の顔を見た。
「大事なこと?」
「あの……さっきの歌、どうでしたか?」
「歌?」
「春さんの前で初めて歌いましたから。……どう、思いましたか?」
琴音さんはまた緊張したような面持ちに戻ってしまった。こちらとは視線を合わせず、もじもじとしている。
要するに、歌の感想が欲しいということかな。俺がさっきの歌を聴いて思ったこと、感じたこと。琴音さんに何を伝えるべきか。
「えっと――」
自分の考えた通りに、話し始めた。
***
「えっと、じゃあ失礼します!」
「はい、また明日よろしくお願いします」
律儀に玄関まで見送りに来てくれた春さんに別れを告げて、そっと扉を閉めた。今の時刻はまだお昼前。三曲は録音するつもりだったのに……なんだか悔しくなって、家に帰ることにしちゃった。
「……」
1001号室の表札にある「嶺岸」の文字をじっと見る。もしカラオケでこの人と出会っていなければ、私は歌い手としての進化を止めてしまったかもしれないな。なんて思った一日だった。
「はあ……」
肩を落として、マンションの廊下を歩いていく。私の心は春さんの感想でいっぱいに満たされている。喜び、戸惑い、悔しさ。そして……今まで知らなかった感情も。
「『綺麗でした』なんて……」
思わず足を速める。自分で春さんの言葉を反芻してみたら、かえって恥ずかしくなった。あの人の感想はいたってシンプル。
――一生懸命に歌う琴音さんが、綺麗でした。
こんな感想、初めて聞いた! もちろん、私は姿を隠して活動する歌い手。「歌う姿」を見られることなんてまずなかった。だから……「歌」じゃなくて「歌っている私」を褒められるなんて、思ってもみなかった。
「どうしよう……」
エレベーター乗り場に着いたけど、なんとなく壁に寄り掛かってしまう。昨日のカラオケで春さんに「存じ上げませんでした」と言われたときから、私は悔しい気持ちを抱えていた。この人も私の歌のファンにしてしまいたい……なんて、ムキになっていた部分もあると思う。
私は歌い手。歌を聴いて感動して欲しい、そう思って活動してきた。だから春さんには「歌」を認めて欲しかった。「もっと琴音さんの歌が聴きたいです」と、そう言われたかった。
なのに、あの人が認めたのは「歌」じゃなくて「私」だった。悔しい。すごく悔しい。歌い手人生で一番悔しい。
画面越しじゃなくて目の前で披露したのに、あの人を虜にすることは出来なかった。それが本当に悔しくて、一から歌の勉強をやり直したいくらいなのに――
「あ~~!」
春さんが発した、「綺麗でした」という言葉を嬉しいと思っている自分がいた。思わず両手で顔を覆ってしまう。今ごろ、私の顔は耳まで真っ赤になっているのかな。
「私のばかあ……」
ガチ恋勢のファンからラブレター紛いのコメントをたくさん貰ってきたはずなのに。「好き」という言葉は飽きるほど浴びたと思っていたのに。それなのに……たった一言「綺麗でした」と言われただけで舞い上がってしまった。
「もうやだあ……」
今になって、春さんに抱きついたことが恥ずかしくなってきた。背中を優しく叩かれて、慰められて……歌い手としての自分が優しくされたことが初めてで、つい泣いちゃったんだけどね。
だけど、泣いてばかりもいられない。私は春さんに歌を認めてもらわないと。春さんを"Kotone"のファンにするまで、あの家に通い続けないといけない。そんな気がするから。
でも……私、明日からどんな顔をして1001号室に行けばいいんだろう。だって、これから毎日のように春さんの家に行くってことだよね? 私を綺麗だって言ってくれた人のところへ、まるで通い妻のように――
「あ~~~もうっ! エレベーターまだ来ないのっ!?」
マンションのエレベーターに八つ当たりしながら、過去の発言を恥じる私だった……。




