第6話 ご飯、味噌汁、目玉焼き
琴音さんと出会った翌日、朝八時くらい。今日はたまたま大学が全休になったので、布団の中でゴロゴロと二度寝を楽しんでいた。
「ふあ~……」
大きな欠伸をする。日頃は実験や講義で忙しいから、こういう日があってもいいかな。今日は昼まで寝てしまおうか――
「ん?」
目を閉じようとすると、何かが焼けるような香ばしい匂いが漂っていることに気が付いた。耳を澄ませば、襖の向こうからカチャカチャと食器同士が触れる音も聞こえる。
「……なんだ?」
誰かが飯でも作っているのか? いや、そんな馬鹿な話があるわけがないよな。朝飯を作りに来てくれるような甲斐甲斐しい彼女がいるわけでもないし、実家の母親が東京に来るという話も聞いてない。
布団を出ようと思って身を起こすと、襖の向こうから足音が聞こえてきた。なんだか聞き覚えがあるな。そうだ、昨日聞いたような――
「春さん、朝ごはんですよ……って、起きたんですねっ!」
「……へっ?」
襖が勢いよく開く。そこにあったのは、薄ピンク色のエプロンを身に付けた琴音さんの姿だった。長い黒髪を後ろでまとめてポニーテールにしていたから、昨日とは随分印象が違う。
「な、なんでいるんですか?」
「だって合鍵を渡してくれたのは春さんですよっ?」
「そうじゃなくて、こんな朝から――」
「家事をしに来ましたっ! さあさあ、どうぞ!」
「ちょっ、琴音さん!?」
琴音さんに手を引かれるまま立ち上がり、居間へと向かう。ちゃぶ台の上にはご飯と味噌汁、それに目玉焼きの載った皿が置かれていた。
「すいません、食材勝手に使っちゃいました! 本当はお野菜も添えたかったんですけど、なかったので……」
「いや、それは大丈夫ですけど……」
家事代行なんて契約したとはいっても、たまに掃除や洗濯を代わってもらえればいいやと思っていた。だから、こんな朝から食事を作りに来てくれるなんて想定外も想定外。
「どうぞ、座ってくださいっ!」
「は、はあ……」
促されるまま、ちゃぶ台の前に座る。白飯からは湯気がもうもうと立ち上がり、味噌汁からはほのかにかつお節が香る。目玉焼きは美しい形に整えられていて、しかも既に塩コショウが振られているという用意周到ぶり。
「あれ、琴音さんの分は?」
「だって私、自分の家で食べてきましたからっ!」
「そっか、実家でしたね」
琴音さんは向かい側に座って、ニコニコとほほ笑んでいる。いくら録音場所のためだからと言って、わざわざ朝八時から他人の家で飯を作るなんてすごいなあ。
「ささ、冷めないうちに!」
「それじゃあ、ありがたくいただきます」
俺は両手を合わせてから、目の前に置かれていた箸を手に取った。すごいな、全部の品が美味しそうだ。とりあえず味噌汁のお椀を持って……飲んでみる。
「おいしい!」
「本当ですかっ? 良かったです~!」
琴音さんの頬がさらに緩んだ。本当に美味いな、この味噌汁。「家にあった食材を」と言っていたから、たぶん顆粒だしを使ったんだろうけど……それなのにここまで香り高いなんて。どんな魔法を使ったのか聞きたいくらいだ。
じゃあ、次はご飯だ。こんもりと米が盛られた茶碗を持つと、しっかりと重みを感じる。うまく炊いてあるのか、ただの白米なのに輝いて見えるな。どれ、お味の方は……。
「ん!」
「春さん?」
その味に驚いて、思わず声を漏らしてしまった。米を咀嚼してちゃんと飲み込んでから、琴音さんに感動を伝える。
「すごい……実家で食べてた味と同じです。自分ではこんなに美味しく炊けたことがなかったので、ビックリしてます」
「そんなに褒められると困りますよ~! でもっ、さっきビックリしちゃいました」
「何がですか?」
「そのお米、すっごく良いお米じゃないですか? 粒もしっかりしてるし……」
琴音さんは口元に拳を当てて、不思議がっていた。米の粒を見ただけで良し悪しが分かるなんて、歌だけじゃなくて料理のセンスも飛びぬけているのかな。
「実家から送ってもらってる米なんですよ。親が農機具を扱う仕事をしているので、取引先から良いのをいただくことがあるんです」
「ご実家、どちらなんですか?」
「秋田です。なーんもないところですよ」
「素敵なところじゃないですか! 東北ってあんまり行ったことがなくて、行ってみたいんです!」
「いやいや、本当に何も無いんですって。田んぼとババヘラしかありません」
「ばばへら?」
「ババがヘラで売ってるアイスですよ」
「なんですか、それ?」
首をかしげる琴音さんをよそに、目玉焼きに箸をつける。すごいなあ、よく見ると黄身が半熟だ。思うようにフライパンを操れないから、うまい焼き加減に調整出来ないんだよな。黄身がカッチカチの目玉焼きも、それはそれで味があるけどね。
「お味、いかがですかっ?」
正面からじっと見られながら、黄身を絡めた白身を口に運ぶ。おっ、やっぱり焼き加減が絶妙だ。香ばしいけど、焦げがしつこいわけじゃない。でも塩コショウの味がちょっと薄いかな。作ってもらった以上、文句なんて言うつもりはないけど。
「うん、美味しいです」
「そうですかっ? あのっ、ちょっと塩コショウが足りなかったかなって……」
琴音さんはぽりぽりと頬をかいた。なんだ、作っている本人もそう思っていたのか。だったら正直に言えばよかったな。
「言われてみれば、ちょっと味が薄いかもしれないです」
「すっ、すいません! お醤油どうぞ!」
「いえいえ、お気になさらず」
慌てた様子の琴音さんが醤油さしを手渡してきた。それを受け取って、目玉焼きの上に醤油をかけていく。薄いとは言っても既に味がついているわけだし、少しかければいいかな。そう、ほんの少しだけ――
「ちょっ、ちょっと春さん!?」
「えっ、なんですか?」
「そんなにお醤油かけたらしょっぱいですよ!?」
かなり少なめにかけたつもりが、琴音さんはギョッとして目を見開いていた。あれれ、何をそんなに驚いているんだろう。
「えっ、これで多いんですか?」
「多いも何も、目玉焼きが半分黒くなってるじゃないですか!?」
「うちの実家じゃ、両親も妹も目玉焼きを全部黒くするまで満足しないですよ」
「ええーっ!?」
「秋田は寒いもんで、こうでもしないと冬を乗り越えられなくて……」
「そっ、そんなわけないじゃないですか!?」
「十年前に死んだばあちゃんなんて、たくあんに醤油をかけたのを美味そうに食べてましたよ」
「どう考えてもそれが原因ですよね!?」
驚きを連発する琴音さんを見ながら、朝食をありがたく平らげたのであった……。
***
「すいません、皿洗いまでさせてしまって」
「いえいえっ! お気になさらずっ!」
台所に立つ琴音さんに声を掛けながら、和室に繋がる襖を開ける。彼女は別に俺の食事事情を案じてここに来ているわけじゃないだろう。俺たちの関係はあくまで「貸主」と「借主」。対価を支払ってもらったのだから、こちらにも提供するべきものがある。
「お皿洗い、終わりましたよー……って、何をされてるんですか?」
「ああ、自分の布団を片付けてました」
敷布団を部屋の隅に寄せ終えた頃、エプロンを脱いだ琴音さんが姿を現した。ジーンズに長袖Tシャツという、極めてシンプルな恰好。
「お布団なんて持って、お怪我は大丈夫なんですか?」
「ああ、これは毎朝していることですから。お気になさらず」
「それならいいんですけど。これから大学に行かれるんですか?」
「いえ、今日は休みなんです」
「あっ、そうなんですね……」
俺の言葉を聞いて、琴音さんがもじもじと何か言いたげにしている。そういえば、録音は「自分が家にいるときだったらいつでも」と伝えていたんだったな。
「あの、琴音さん」
「はいっ!?」
驚いたのか、琴音さんはその場で目を丸くして飛び上がった。ところどころ天然だなあ、この人は。
「琴音さんこそ、大学はお休みですか?」
「あっ、はい。私も、今日は授業が無くて……」
「だったら――」
右手を挙げて、和室の中を指し示す。そう、この人がここに来たのは――
「録音、されますか?」
「……はっ、はい! ありがとうございますっ!」
歌い手活動のために決まっているのだ。琴音さんはペコリと頭を下げてから、ゆっくりと和室に足を踏み入れた。
***
和室の片隅に座りながら、機材の設営作業を見守る。明らかに高度なものと思われるマイク、それを支えるスタンド、さらにはヘッドホン。一つ一つを丁寧に扱う琴音さんの表情に、気のゆるみは一切存在しない。
「マイク、ポップガード、あとコードを繋いで……」
「だ、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。すいません、今は話しかけないでください」
さっきまでの「女子大生・柊琴音」はいつの間にか姿を消したみたいだ。柔らかな雰囲気が消えて、むしろ鋭い眼光が印象的に映る。歌い手の"Kotone"のことはまるで知らないけれど、その実績は確固たる努力の上に築かれているのだなと感じた。
「ここ噛みやすい……こっち音程外れる……英語の発音注意……」
琴音さんは楽譜か何かの紙を見ながら、ぶつぶつと一人で呟いている。何の曲を歌うのかは分からないけど、きっと難しいんだろう。目の前のことに真剣に取り組む人間を見ると、こちらの心まで引き締まる。
「準備、終わりました」
ふと顔を上げると、機材の類がすっかり整っていた。マイクスタンドは琴音さんの身長と合うように調整されていて、コード類も整然と接続されている。すごいな、まるでプロの仕事を見ているみたいだ。
「分かりました。じゃあ、僕はリビングで待っているので――」
「待って」
「へっ?」
居間に戻ろうとした時、凛とした声に呼び止められた。昨日今日と琴音さんと話していたけど、こんな低くて落ち着いた声を聞いたのは初めてだな。
「春さん。……私の歌、ここで聞いて欲しい」
琴音さんは、俺の目をじっと見つめていた。……綺麗な瞳だ。思わず心がとらわれてしまいそうになる。純粋無垢だけど、ほんの少しの闇を知っているような……不思議な目だ。
「分かりました」
端的に返事をすると、琴音さんはほんの少しだけ微笑んで、すぐにマイクに顔を向けた。音を立てないようにそっと腰を下ろすと、精悍な声が耳に届く。
「じゃあ、歌うね」
こうして――俺は初めて、"Kotone"の歌を聴くことになった。




