第5話 契約成立
結局、俺は根負けしてしまった。カラオケを出てから二人で歩いて十数分。マンションに到着して、エレベーターで十階に上がる。降り場から少し行けば、俺の住む1001号室だ。
「わあっ、本当に角部屋なんですねっ!」
女性はウキウキが止まらないようで、満面の笑みで俺の後ろに立っている。一方の俺は……内心、ちょっと憂鬱だった。
「あの、今更なんですけど」
「はい?」
「僕の部屋、散らかってるんで。ビックリしないでくださいね」
「え~? 大丈夫ですよっ!」
「なら、いいんですけど……」
ふと我に返ると、俺はこんな綺麗な女性を家に上げるわけで……ろくに掃除していないことを後悔してしまう。いや、何かを期待しているわけじゃないけどさ。こんな美人に幻滅されるのは誰だって嫌だろう。
「じゃ、開けますから」
ズボンのポケットに手を突っ込み、キーホルダーも何もつけていない鍵を取り出す。鍵穴に差し込んでひねると、金属の噛みあう感覚があった。
「はい、どうぞ」
「お邪魔しますっ!」
ドアを開けると、女性は弾むような足取りで部屋に入っていった。後を追うようにして玄関に上がり、ドアを閉める。目の前の廊下には、トイレや風呂場に繋がる扉が並んでいて、一番先には居間への扉がある。
「あれ、結構広い……? 一人暮らしなんですよね?」
「1LDKなんですよ。学生には広すぎます」
事情を説明しながら、左手を使って履いていた運動靴を脱ぐ。それに気が付いたのか、女性もローファーを脱いでいた。
「リビングにどうぞ。なんのもてなしも出来ないですけど、お茶くらい出しますから」
「あっ、お構いなく!」
まだ四月だし、肌寒い日もあるからな。温かい緑茶でも淹れるとするか。
「へえ~……」
女性は周囲をきょろきょろと見回しながら、俺の後ろについて歩いている。あまり他人の家に行くことが無いのかな。タンタンという軽い足音が新鮮に聞こえる。
「あのっ!」
「はい?」
居間に入る直前、改めて女性の方に振り向く。念には念を入れて言っておかなければ。
「ほんっとうに散らかってるんで!」
「それ、さっきも聞きましたよ?」
「じゃあっ、開けますからね!」
意を決して扉を開ける。そこに広がっているのは――教科書、洗濯物、レジ袋などなどが大量に散乱した空間。いちおう床のフローリングは見えているけど、ずっと掃除機をかけていないので埃っぽい。
「えっ……」
「すいません、全然掃除してなくて……」
女性は口元を手で押さえ、目を丸くして驚いている。ドン引きしてるかな。せっかく安く使える録音場所が見つかったと思ったのに、行った先はゴミ屋敷でした――なんて、気の毒にすら思える。
「こっ、こんな部屋……こんな部屋……」
「あの、全然今からやめてもらっても大丈夫ですから。無理にこんな家で――」
「そうじゃないです」
「へっ?」
「こんな部屋、一時間もあればお掃除出来るじゃないですかっ!!」
「!?」
そっち!? きったねえことにビックリしたんじゃなくて!?
「あのっ、お茶とかいいんで掃除機の場所教えてもらっていいですかっ!?」
「えっ、ええっ!?」
「お掃除しますっ! あなたは見ていてくださいっ!」
そう言って、女性はダッシュするかのように居間に入っていく。カラオケにいたときと同じで、俺はただただ圧倒されるばかりだった……。
***
「すっごい、本当に一時間で……」
「はいっ! お掃除、得意なのでっ!」
綺麗になったちゃぶ台の前に正座して、どや顔で胸を張る女性。俺はその向かいに座って、急須から緑茶を注いでいた。
「正直助かりました。自分じゃなかなか出来ないので……あっ、熱いですよ」
「いいんです……熱っ! ふー、ふー……」
お茶を冷ます仕草には愛嬌があって、思わず見入ってしまう。って、初対面なのに失礼だな。理性を取り戻し、今度は自分の湯呑にお茶を注ぐ。
「あのっ、お掃除が苦手なんですか?」
「苦手ってわけじゃないんですけど。実は少し怪我をしていまして」
「怪我……ですか?」
「右肩に古傷があって。動くと痛い時があるんです」
「だから、お掃除が……?」
「掃除っていうか、家事全般ですかね」
「そうだったんですね……」
おまけにこんな広い家だし、なおさら掃除なんか出来るわけがない。最低限の炊事や洗濯だけはしているけど、細かい家事は放っているのが現状だ。一人暮らしも三年目だし、慣れたと言えば慣れたんだけど。
女性は神妙な面持ちを見せ、何も言わずにいる。そうだっ、大事なことを忘れてた。別に家事を手伝ってもらいに来たわけじゃないもんな。
「そういえば、録音場所のことなんですけど」
「あっ、はいっ!」
明らかに女性の背筋が伸びた。真っすぐな目でじっと俺を見ている。
「よければ隣の部屋をお貸しします。見てみますか?」
「隣?」
「ここの襖の奥が和室なんです」
俺は立ち上がり、襖の方へと歩いていく。女性が首をかしげているのを尻目に、左手で引手を掴んでゆっくりと開けていった。
「わあっ、広いお部屋……」
「ほとんど使ってないので、リビングと違って散らかってません」
和室を使うのは寝るときくらいで、基本的には居間で過ごしている。だから布団を片付けさえすれば、この部屋は何にでも使うことが出来るというわけだ。
「い、いいんですか? こんな部屋使わせていただいて……」
「問題ないですよ。自分が家にいるときだったらいつでも――」
「かっ、神様ですか!?」
「!?」
女性はいつの間にか俺のすぐ近くに迫っていたみたいで、気づいたときには両手をがっちりと掴まれていた。
「ありがとうございますっ! もう頭がはち切れそうなくらいありがたいですっ!!」
「そんなに!?」
「これでもうカラオケの店員さんから変な目で見られることもないですっ! 本当に感謝しますっ!」
「ど、どういたしまして……」
俺の両手をぶんぶんと振り回したかと思えば、深々と頭を下げる女性。俺はただただ身を任せるしかなく、半ば呆然としていた。というか、店員に変な目で見られるって……よっぽどの高頻度でカラオケに行っていたんだろうな。
「あ!」
「え?」
女性が大きな声を出し、顔を上げた。目を丸くして俺の方を見ている。
「な、なんですか?」
「あのっ、私は何をお返しすればいいですかっ!?」
「お返し?」
「だって、これじゃ私にしか良いことないじゃないですか!」
「ああ、たしかに……?」
言われてみればその通りだ。今までずっと一人暮らしだったのに、これから定期的にこの人が家に上がるってことだもんな。さっきの話から察するに、結構な高頻度で来るんだろうし。
とは言っても……何を返してもらえばいいんだろう。お金を貰ったんじゃ本末転倒だしな。何か、何かしてもらうこと――
「そうだっ!」
「?」
「私っ、家事のお手伝いをしますっ!」
「お手伝い?」
「はい! 録音するたびに、お掃除とかお料理とかを代わりにする……っていうのはどうですか?」
「なるほど……」
女性はニコッと笑っていた。考えもつかなかったけど、良いアイデアだ。さっきの掃除を見ていれば、この人の家事の腕前が十分なことも分かる。何より……右肩を気にしなくてよくなる、ってのは魅力的だ。
「分かりました。僕の方こそ、家事を代わっていただけるのはありがたい話です」
「じゃっ、じゃあっ……」
「僕は部屋を貸す、あなたは家事をする。それで契約ってことで……どうですか?」
俺がそう言うと、女性の表情はさらに明るくなっていった。再び両手をぶんぶんと振り回し、何度も何度も頭を下げる。
「ありがとうございますっ! あなたは命の恩人ですっ!」
「命の恩人!?」
「はいっ! 感謝してもしきれませんっ!」
「それは何よりです、ははは……」
どうもこの人のテンションにはついていけないなあ。でもここまで必死になるあたり、歌い手活動には本気なんだろうな。しかも収益化していないのだから、純粋に歌うためだけに努力しているんだ。打ち込めることがあって羨ましいな。
「あっ!」
「ん?」
「私っ、まだあなたのお名前を聞いてないですっ!」
「たしかに、そうかも」
さっきこの人の学生証を見たから俺は名前を知っているけど、こっちは自己紹介すらしていなかったな。名も知らない男の家で家事をすることに乗り気なんだから、この人はなかなか怖いもの知らずだなあ。
「嶺岸春、今は大学三年生です。これからよろしくお願いします」
「改めまして、柊琴音です! みんな名前で呼ぶので、琴音って呼んでくださいねっ!」
「分かりました。琴音……さん」
「はいっ! よろしくお願いします!」
琴音さんはまたまた深く頭を下げてから、ニコッと白い歯を見せてくれた。素敵な笑顔だ。真っすぐに、ただひたむきに。そんな生き方がにじみ出ている。
「あのっ……私はなんてお呼びすればいいですか?」
「えっ、僕ですか? なんでもいいですよ」
「それじゃ困りますよ~! 苗字か名前かってだけでも!」
本当に呼ばれ方なんてどうでもいいんだけどなあ。でもそうだなあ、せっかく琴音さんと呼ぶのだから、俺も名前で呼んでもらうのが筋かもしれない。
「名前でお願いします」
「じゃあ、『春さん』ですねっ! 良いお名前ですっ!」
「ありがとうございます。琴音さんも良い名前です」
「そっ、そうですか?」
「『琴』の『音』なんて、歌い手にはぴったりじゃないですか。素敵ですよ」
「あ、ありがとうございます……」
照れたのか、琴音さんは頬を赤く染めていた。……そういえば、さっきからずっと両手を繋ぎっぱなしだ。しかもこんな綺麗な女性とだなんて、俺の方もなんだか照れ臭くなってきた。
「……」
「……」
妙な雰囲気が漂う。春の柔らかな空気が俺たちの間に流れ、消えていく。ぱっと逸らした視線が、再び重なり合ったその瞬間――
「あーっ!」
「!?」
「も、もうこんな時間!? 私っ、門限が厳しいんですっ!」
「へ? 門限?」
「あの! もう時間なので帰りますっ! ありがとうございましたっ!」
「あっ、うん……」
琴音さんは俺の両手を振り払い、近くに置いてあった大きなカバンを手に持った。慌てた様子で玄関の方に向かっていくのを、俺はただ眺めていたのだけど……あることに気がつき、急いで呼び止める。
「あのっ、琴音さん!」
「ふぇっ!?」
俺は居間に置いてあった棚を漁って、あるものを探し出した。そのまま走っていき、玄関にいた琴音さんのもとに歩み寄る。
「なっ、なんですか!?」
「これ……あなたに預けます。部屋にいらした時に僕がいないと困るでしょうから」
「えっ? これって……」
戸惑う琴音さんの両手を掴み、さっき見つけ出した物を手渡す。そう、俺が託したのは――この部屋の合鍵だった。
「い、いいんですか? 私が悪い人だったら――」
「無収益でここまで歌い手活動に本気を出している人が泥棒なんかするとは思えません。それに……琴音さんこそ、僕が悪い男だったらどうするつもりだったんですか?」
琴音さんはぽかんと俺の顔を見つめたあと……クスクスと笑い出した。
「歌い手のことがバレたのが春さんで良かったです。すっごく安心しました」
「え、何がですか?」
「年下の私にずっと敬語ですし、ちゃんと『さん』ってつけてくれますし。丁寧で優しい人なんだなって」
自分としては意識していなかったけど、琴音さんの目には好印象に映ったらしい。まあたしかに、会ったばかりの女の子に合鍵を渡しちゃうのも大概かもしれないな。
「春さん、本当にありがとうございます。不束者ですが、どうかよろしくお願いします」
「こちらこそ、改めてよろしくお願いしますね」
俺たちは頭を下げ合った。さっきからお辞儀してばっかりだな。
「合鍵まで渡してもらえるなんて、思いもしませんでした」
「いやあ、だって家事を手伝ってもらえるんですから。なんかアレみたいですね、か……か……」
「通い妻っ!」
「……へっ?」
時が止まった。琴音さんは自信満々といった感じで笑みを見せている。でも――
「あの、僕が言いたかったのは『家政婦』で……」
「えっ? ……あっ、ああっ!」
自分が何を言ったのか理解したみたいで、琴音さんはみるみる顔を赤くしていく。必死に身振り手振りを交えながら、自分の言葉を否定し始めた。
「ち、違いますっ! 別にっ、そんなつもりじゃ……!」
「か、通い妻って……」
「わー! 繰り返さないでくださいっ! 言い間違えただけじゃないですかあっ!」
「言い間違いっていうか、自分から言って――」
「は、春さんが言わせたんですっ! もう本当に門限なので帰りますっ! それじゃっ!」
「ちょっ、ちょっと!?」
逃げるように玄関の扉を開けて、琴音さんは出て行ってしまった。パタンと扉が閉まったあと、一人で静かな家に取り残される。
「なんだったんだ、今の……」
ぽりぽりと頭をかきながら、居間に向かって歩きだす。今日は嵐のような一日だったなあ。
こうして、琴音さん……いや、世界的歌い手の"Kotone"が毎日のように自宅を訪れる日々が始まったのである――




