第3話 落とし物
トイレで用を済ませて廊下に出てみると、いろいろな歌声が聞こえてくる。テレビCMで聞いたことがあるようなJ-POPから、全く知らない演歌まで。カラオケが老若男女問わない娯楽であることは疑いようがないな。
「ふあ……」
欠伸をしながら自分の部屋を目指していく。カラオケに来たのなんて何年ぶりだろう。空きコマの間に作業する場所が無かったから、思い切って来てみたのだけど、意外と悪くないな。ドリンクバーもあるし、頼めばフードも出てくるし。
「ん?」
あれ、床にパスケースが落ちてる。落とし物? ピンク色で可愛らしい感じ。決めつけるのは良くないけど、女性のものかな。
しゃがみこみ、パスケースを拾ってみる。ぺらりと裏返してみると、透明なプラスチック越しに中身が見えた。顔写真と一緒にいろいろ書いてあるし、身分証?
「桜弦学園大学……」
どうやら学生証みたいだけど、うちの大学じゃなくて近所の女子大のものだ。汚れてもないし、新入生のものかもしれないな。まだ四月だってのに、今ごろ落とし主は困ってるだろうなあ。
「届けてくるか……」
ぽりぽりと頭をかきながら、立ち上がる。仕方ない、エレベーターで一階に下りてフロントに預けるとするか。それが一番――
「あっ……」
その時、自分の横をコップを持った綺麗な女性が通り抜けていった。綺麗な白のワンピースに身を包み、長髪を優雅にたなびかせている。足も長いし、思わず見とれてしまう。
「ん?」
少し違和感を覚えた。今の女性、どこかで見たような顔だな。それも本当についさっき。そう思って、手元の学生証を見ると――やっぱりそっくりだ!
「……」
女性は俺に気づかぬまま、近くの部屋に入っていった。ドリンクバーに行く途中で落として、気づかないまま戻ってきたいうわけか。俺が拾ってなければ彼女が自分で気づけたような気もするけど、それはともかく。
落とし主が見つかった以上、直接届けた方が良さそうだな。でも、自分の個室に店員でもない男が尋ねてくるのって……女性からしたらちょっと怖いかもしれんな。だけど、今ごろ学生証を落としたことに気が付いて慌てているかもしれないし。
いや、そもそもあの女性が一人客とは限らないか。普通に友達と一緒ってこともあり得る。というか、なんならその可能性の方が高そうだ。新入生の四月だとすれば、他の同級生と仲を深めるためにカラオケ――ってのは全くおかしな話ではない。
「よしっ」
そうと決まればさっさと届けてしまおう。わざわざフロントに行くのも骨が折れる。ええと、たしかもう一個隣の部屋かな……。
数歩だけ足を進め、目的の部屋の前に立つ。このカラオケ店の扉は曇りガラスのようになっていて、あまり中の様子はうかがえない。うーん、照明はついてるけど何人いるかまでは分からないな。いいや、ノックしてしまおう。
「すいませーん、落とし物でーす」
「……」
コンコンと扉を叩いてみても、返事が来ない。中から声が聞こえてくるわけじゃないから、歌唱中ってことではなさそうだけど。
「すいませーん、学生証落とされましたよー!」
「……」
聞こえていないだけかと思って、さらに声を張り上げてみたけど……何も返ってこない。やっぱり女性一人なのかな? こっちを警戒して居留守を使っているのかもしれない。うーん、どうしたものか。
ふと足元を見ると、ドアの下に僅かな隙間があることに気が付いた。そうだっ、いいこと思いついた! 隙間からパスケースだけ部屋に入れて、あとは立ち去ってしまえばいいんだ。
落とし物を届けられるうえに、わざわざ俺が部屋に立ち入る必要もない。まだ綺麗なパスケースを床に這わせるのだけが気がかりだが、現状ではこれが最善策だろうな。
「あのっ、そしたら下から入れておきますからー!」
念のために声掛けをしてから実行することにした。俺はパスケースを持ったまま、ゆっくりとしゃがみ込もうとする。
「うおっと!?」
と、その時だった。うっかりバランスを崩した俺は、何かにつかまろうと手を伸ばし――ドアノブを掴んでしまった。しかも転んだ勢いで扉の方にもたれかかってしまい、派手に入室してしまう。
「えっ!?」
次の瞬間、女性の驚く声が聞こえてきた。俺は部屋の中に倒れこみ、地べたに這うような姿勢になってしまう。お腹を打ち付けた痛みを感じながら、なんとか顔を上げると――
「な、なんでここが……?」
ヘッドホンを両耳につけたまま、さっきの女性が目を丸くしていた。コードがテーブル上のノートパソコンに繋がっているのを見るに、何かを聴いていたみたいだな。だから俺のノックに反応しなかったのか。
「えっと……」
状況を説明しなければと思い、慌てて立ち上がる。女性は驚いたまま固まってしまい、身動きひとつとれていない。そりゃあ、いきなり自分の部屋に見知らぬ男が入ってきたらビビるよな。
「すいません、学生しょ――」
「な、なんでここが分かったんですか!?」
「えっ?」
女性は顔面蒼白になりながら、やっと口を開いた。ヘッドホンを抑えながらガタガタと震えていて、かなり戸惑っている様子。いくらなんでもビビりすぎじゃないか? それに……「なんでここが分かったですか」って何の話だろう?
「どうして私がここで録音してるって分かったんですか!?」
「いやっ、だから学せ――」
「いったいどこで!? どこから情報が漏れたんですか!?」
「??」
焦ったようにわーわーと騒いでいるけど、何を言っているのかさっぱり分からない。録音? 情報? 何の話をしているんだろう?
「えっ、どうしよう! ネットでここの場所が割れてるってことですよね!?」
「いや、だから学――」
「あのっ、どこから聞いたのかだけ教えてもらっていいですか!?」
「話聞いてください!?」
学生証を落とされたので届けに来ましたよ、と伝えたいだけなのに、さっきから話を遮られるばかり。女性はますますパニック状態になり、頭を抱えてしまう。
「あ~~どうしよう! まさか直接凸られるなんて思ってなかった!」
「えっ、えっ?」
「居場所の情報なんかぜんっぜん言ってないのに! そもそも東京住みだってことも明かしてなかったはずでしょ!?」
さっきから現在進行形で俺に情報を開示しているのは良いんだろうか……? 居場所とかネットとかやたら気にしているけど、この人は一体なんなんだろう。芸能人? たしかに綺麗な人だけど、テレビで見た覚えはない。
「えっと、だから――」
「あのっ、お願いですっ!」
「えっ!?」
次の瞬間、女性が自らの額をテーブルに打ち付けるように頭を下げた。何が起こっているのか分からず、ただただ呆然と立ち尽くしていると――女性が大きな声を張り上げた。
「わ、私が歌い手の"Kotone"だってことだけは黙っていていただけないでしょうか!」
「……?」
ことね? ……誰? 何? 歌い手? ネットで「歌ってみた」とか投稿している人? この人が?
「どうか、それだけは……! 一生のお願いです、本当に……!」
「ちょっ、ちょっとちょっと!」
ギリギリと摩擦音が聞こえてくるほど額をテーブルにこすりつけていたので、慌てて女性を止めに入る。この人、本当に何がしたいんだ!?
「お、落ち着いてくださいってば!」
「本当にっ、正体だけは……!」
「話を聞いてくださいよ!」
……よく考えたら、この人ヘッドホンをつけっぱなしじゃないか。そりゃ俺の話なんか聞こえてないに決まっているな。テーブルを掘削しそうな勢いで下げられている女性の頭から、そっとヘッドホンを外してあげる。
「えっ……?」
我に返ったのか、女性はぽかんとして顔を上げた。すっかりおでこが赤くなっているけど、今はそれどころではない。
「自分はあなたの学生証を拾ったので届けに来ただけです。歌い手がどうとか、録音がどうとか、自分は一ミリも知りません」
「じゃ、じゃあ私は……」
唖然として、女性はまた固まってしまう。しばらく見つめ合ったあと……再び、部屋中に絶叫が轟く。
「自分で自分の正体をばらしたってことですかー!?」
女性は両手を頭に当てて、天井を仰いだ。そう、これが――柊琴音という人間との出会いだったのである。




