第1話 歌い手のいる日常
五月になって、新年度の慌ただしい雰囲気も落ち着いてきた。外の街路樹は新緑に染まり、暖かい風が吹き抜けている。一人暮らし大学生の身に余る1LDKのマンションに住んで、早くも三年目になった。
居間はテレビと本棚を置いても余裕のある広さがあり、全く不自由がない。フローリングの上にカーペットを敷いていて、本を読むのも、大学の課題をするのも、飯を食べるのも、全部そこだ。
ちゃぶ台に置いたノートパソコンに向かい、キーボードを叩く。実験で得られた画像をワードファイルに貼り付け、キャプションを綴る。いつも通りのなんてことない日常。ずっと変わることはないと思っていたけど――
「うーさぎおーいし、かーのやーまー……」
最近、麗らかな歌声が華を添えてくれるようになった。ディスプレイから顔を上げ、台所の方を見やると、長い黒髪をポニーテールにまとめた柊琴音が楽しそうに包丁を扱っている。
「こーぶなつーりし、かーのかーわー……」
小鳥がさえずるような声に、心が波立つ。全く音楽を聴かない俺でも知っている歌だ。小学生か中学生の頃、音楽の授業で歌った記憶がある。
「正月っきりだなあ」
「ゆーめーはー……って、何の話ですか?」
「いや、地元の話。連休にも帰らなかったから」
「もしかして、私の歌を聞いて……?」
「『ふるさと』でしょ? 実家を思い出したよ」
「へえー、そうですか……」
琴音はなんだか不思議そうな顔をしつつ、頬をほんのり赤く染めていた。普段、琴音が歌っている曲について知らないことが多いからな。俺が反応するだけでも珍しいと思っているのかもしれない。
「ところで、さっきから何してるの?」
「りんごですっ! ちゃんとビタミンも摂取しないとダメなんですからねっ?」
そう言って、琴音はひとかけらのりんごを手に持って見せてきた。うさぎの耳のように、真っ赤な皮が可愛く切り取られている。ああ、だから「うさぎ追いし~」なんて歌っていたのか。
「母親じゃあるまいし、そんなことしなくていいのに」
「春さんはコンビニのご飯ばかりだから……」
「俺が倒れたらこの家が使えなくなって困るから、じゃないの?」
「むー、私は本気で春さんの健康が心配なんですよー!」
琴音は不満そうに頬を膨らませながら、りんごが山盛りに入った器を片手に台所から出てきた。カーディガンの上から薄ピンク色のエプロンを着ている姿を見ると、まるで自分が妻帯者であるかのように錯覚してしまう。
「はいっ、どうぞ!」
再び画面に目を落としたところで、視界の右隅にうさちゃんりんごが映った。こんもりと積もれた中のひとかけらに、爪楊枝が一本だけ刺してある。
「ありがとな。でもちょっと手が離せないから、後でいただくよ」
「えーっ?」
「あとは考察だけだから、ちゃちゃっと書きたいんだ」
「むうっ、せっかく切ったのにー」
琴音は唇を尖らせつつ、俺の右隣にちょこんと正座した。手持ち無沙汰なのか、俺のパソコンを覗いたり、周りをきょろきょろと見回したりしている。小動物みたいな仕草でなかなか可愛らしい。
「ねえー、食べないんですか?」
「だっていまレポート書いてるんだもん」
「じゃあ、こうしちゃいますっ」
すると、視界を遮るようにひとかけらの可愛いうさぎが現れた。右を向いてみると、琴音が左手でお皿を作りつつ右手で爪楊枝を持っている。
「はいっ、あーん」
「えっ?」
「こうすれば食べられますよね? あーんしてください!」
琴音はニコニコとほほ笑みながらりんごを差し出してくる。まるで新婚ほやほやの夫婦みたいで、流石に照れる。まさか自分の日常にこんな漫画みたいなことが起こるなんて、ちょっと前までは考えられなかった。
「あ、あーん……」
恐る恐る顔を近づけて、差し出されたりんごを口にした。一口で食べるには大きいサイズだなと思ったけど、琴音に気を遣わせたくなくて、何も言わなかった。
「えへへっ、春さんは可愛いです」
「ふぁひが?(何が?)」
「んーん、こっちの話ですっ」
可愛いのはお前だよ、というツッコミを、咀嚼したりんごと一緒に飲み込んだ。琴音はまた頬を軽く染めて、次のりんごに爪楊枝を刺している。……そういえば、爪楊枝が足りないな。
「琴音の爪楊枝、取ってこようか?」
「えっ? 私はこれでいいですけど」
「えっ!?」
さっき使った爪楊枝を持って、今度は自分の口にりんごを持っていこうとする琴音。いくらなんでも忍びないので、慌てて止めようとすると――逆に、琴音がりんごを俺の口に差し出してきた。
「えっ?」
「冗談ですよっ! 春さん、やっぱり可愛い~!」
琴音は一段と頬を緩めたけど、二個下の女の子にいいようにやられた俺は恥ずかしくて仕方がなかった。自分の顔が赤くなるのを感じつつ、差し出されたりんごを黙って口にした。照れ隠しのつもり、というわけ。
「……別に、冗談じゃなくてもいいですけど」
「何か言った?」
「こっちの話ですっ」
言い捨てるようにして、琴音は爪楊枝を別のりんごに刺し、すっと立ち上がった。後ろで結んであったエプロンの紐を解き、長い髪を改めて結び直す。それを見てピンときた。
「ああ、これから録音するの?」
「はいっ! りんごはその後にいただこうと思って!」
なるほど、だから自分の爪楊枝を用意していなかったんだな。得心しつつ、俺は再びレポート執筆に戻る。
服装を整えた琴音は近くに置いてあった自分のカバンを開け、マイクやコード類を取り出していた。さっきまでの笑顔は消え、しゃがんだまま真剣な表情でぶつぶつと何かを呟いている。
勘違いしそうになるけど、別に俺たちの関係はバカップルでも何でもない。嶺岸春こと俺が貸主で、柊琴音こと"Kotone"が借主。ただそれだけだ。
「じゃあ、お借りします」
「ああ」
じっと画面を見たまま、琴音の言葉に返事をした。スッと襖の閉じる音がして、琴音の気配が消える。今日も始まるんだな。
隣の和室からごそごそと物音がして、一瞬だけ無音になる。そして――空気をも切り裂くような凛々しい声が、隣室から響き始めた。
「いつも見てくれてありがとう。今日は特に心をこめて歌うよ」
口調も雰囲気もまるでさっきと違う。まるで自分からずっと遠くにいるような、憧れの存在といった感じ。クールな王子様、とでも形容すればいいのか。
「なんといっても今日は記念日だ。みんなのおかげで目標を達成できた」
声を聴いただけでも、鋭い視線で見つめられているかのような気分になる。遠いはずなのに、自分のことを見てくれているような。そう思わせる魔力が、琴音という存在に潜んでいるのだ。
「私は歌が好きだ。でも、私の歌を聴いてくれるみんなのことはもっと愛している」
琴音――いや、Kotoneの正体はネット上で活動する「歌い手」。歌唱動画をサイト上にアップロードして、皆に聴いてもらうことをライフワークとしている。俺はただ、琴音に録音スペースを提供しているだけ。
「それじゃ、聴いてほしい」
俺は歌い手のことは何も分からない。Kotoneが歌った曲もほとんど知らないし、聴こうとも思わない。だけど、一つだけ分かることがある。それは……
「登録者五百万人を記念して――」
Kotoneが日本で五本の指に入る存在だ、ってことだ。




