二章 十一話
手燭を片手に、ライアは足下に気を付けて歩を進めた。
少なくとも照らされる範囲に気になる埃は見当たらず、良く管理されている事が伺える。
ライアは時折肌寒そうに二の腕の辺りさすっているが、湿度が低く快適な環境であると言えた。
周囲を照らしながら見回してみても特に気になる事は無く、ライアは引き返そうか悩んだ。感覚を頼りに奥まで来たものの、レイナルドが現れる気配は無い。
それでは先程の不思議な感覚は何だったのか。ライアは考えながら視線を上げると、本棚の天板の上に置かれた一冊の本が目に止まった。
棚の高さが三メートル弱はある為、仮置きしたにしては少々高過ぎる。
ぼんやりとした輪郭しか見えなかった為、ライアは手燭を近付けて目を細めると分厚い本である事だけが分かった。半分近くが棚に乗っておらず揺らせば落ちそうではあるものの、この大きな棚を揺らせる自身はライアには無い。
誰があんなに高い所に、どんな内容の本を置いたのだろう。ライアは気になって仕方が無い自分に気付くとバレッタに手をかけていた。
「戦乙女よ。我と契りを交わせ。鋼の契約、レック」
バレッタを棒状に変成して手の届かない高さにある本をつつき、手前に落ちてくるように誘導するとそれはすぐに支えを失う。
ライアは右手に持った棒を手放して落下して来た本をキャッチしたが、良く清掃されているこの図書室でも棚の上までは行き届いていなかったようで、積もった埃をもろに被ったライアは大きくむせた。その場から少し離れてから手燭を床に起き、手を伸ばして本の表紙をそっと撫でるように払う。
明かりに近付けてタイトルを見ると、そこには『神と悪魔』と書かれていた。
それを見た途端、ライアは残念そうな表情で小さい溜息をつく。もっと、錬金術に関係する神秘的な書物だと思っていたからだ。
オリヴィエ教の敬虔な信者が多く住んでいた事から神や悪魔の話など小さい頃から聞かされていたし、関連書物も実家に沢山あったし、実際目にしていた。
肩を落としながらライアは棒状にしたバレッタを回収して元に戻し、上に留め直して契約を破棄した。
ともかく本来あった場所に戻そうと、関連書物のありそうな棚を探して回る。
気を取り直してルイーズに言われた通り図書室内の散策を始めた。
背表紙を眺めながらうろついてみると図書室は予想以上に広く感じられた。ライアは最初四角形の部屋をぐるぐる回っているだけだと思っていたが、どうやらそうでは無いらしい。奥まで来たと思えば横に棚があり、一段下がって道が続いていく螺旋状の造りである。
足元を照らしながら歩き、本棚を眺めて再び、と繰り返して十分程経った頃、コの字型の壁が見えた。ようやく行き止まりに到着したのだ。
「レイナルド様?」
ここに来るまで人の気配は微塵も無かった為、誰に聞かれる訳でも無いのだがライアは念の為に小声で呼び掛けた。
しかし暫く待ってもレイナルドが現れる気配は無い。
ため息を一つついて一番重要な目的を諦め、手にした本を棚に戻す二番目の目的について考え始める。
ここまでざっと棚を眺めてきたが、特に『神と悪魔』が入りそうな棚は無かったばかりか、一冊分も入る余地が無い程大量の書籍が詰め込まれている所ばかりであった。
道中見てきた棚のほとんどは錬金術アカデミーの図書室らしく神秘学に関わる専門書ばかりであったが、各国の言語体系や風習、ディルジアの歴史の他に読み書きや計算の入門書など、主に一般教養や実用書に近いものばかりであった。
そう考えるとこの本はいったいどこに置かれていたのだろうか。否、どこから来たのだろうか。ライアは疑問に思う。
老書士に聞けば分かるかもしれない、そう考えたところでライアは来た道を引き返そうとした。
しかし、その前に本の内容が気になり出す。本当に実家で読んだ事のあるような、宗教的な内容なのだろうか。
アストラルを利用して契約を交わす際の実用的な事柄が書かれているのではないか、そう思うと急に興味が湧いた。
手燭と本を床に起き、表紙を捲る。
次の瞬間、ライアは思わず本を投げ捨てた。手燭に当たるとそれは倒れて消える。
灯りが無くなってライアは焦った。本から何かが飛び出してきた様に見えたからだ。
「戦乙女よ。我と契りを交わせ」
ライアは反射的に言葉を紡ぎ、バレッタに手を伸ばす。
その姿勢のまましばらくして、ぽつりと声が聞こえた。
「おや、お嬢さん……」
それは高い声だった。
女声と言ってもいいが、空気の振動を鼓膜で感じるのではなく、頭の中に響いてくる。少なくとも人類ではなさそうだ。
ライアは足音を立てないように少しずつ下がりながら、必死に耳で位置を探ろうとする。
「怯えているのかい?」
聞かれるまでも無い。視界が皆無の状況で本の中から何者かが現れたのだ。
ライアはバレッタを強く握りながら、パニックにならないだけ成長したものだと意外にも冷静な自分に気付く。
人語を解する上にいきなり襲い掛かってくるでも無い相手に、ライアは当たり障り無く聞いた。
「どなたですか?」
「本の精霊……なんて子供だましは、さすがに通じないかな?」
「姿は見えませんが、その……胸がざわ付き、いえ、ザラ付きます。失礼ですが、とても居心地は悪いです。とても真っ当な人のそれとは違うのは判ります」
少なくとも相手はこの暗闇の中でライアの事を女子であると知っていた。
本の中に居た時から意識があったか、灯りが無くとも視覚が有効かのどちからだろう。
ライアはツェーザルと行っていた剣の訓練を思い出し、視覚に頼り過ぎないよう神経を集中する。
「それはそうさ、君のアストラルに干渉しているからね」
「干渉? 私を呼んでいたのは、あなた?」
先程何者かに呼ばれているような感覚を覚えた事について、ライアは合点がいった。
確かに今感じているお世辞にも快適と言えない胸騒ぎは、ルイーズと別れて一人図書室内を歩き始めた直後のそれと似ていたからだ。
「間違ってはいないね。ボクは知識を喰らう悪魔、言うなれば本についた虫さ。君のように強いアストラルを持った人を引き寄せ、食べてしまうんだよ」
言葉尻に笑ったような音を残し、すっと場の空気が変わった。
目の前に居た者が突然消え、背後に移動したような感覚にとらわれてライアは背後を振り返る。
後ろに下がっていた為、壁との距離は二メートルも無い。
「鋼の契約、メッサー!」
短剣を変成して逆手に握って正拳を繰り出す。殴りつつ刃を突き付けて威嚇する為だ。
しかしそれは何に当たる事も無く、空を切った。
「へぇ、悪く無い動きだね。可愛い顔して、結構やるじゃない」
突然後ろから肩を掴まれ、ライアの喉がヒッと小さく鳴る。
陽動に引っかかり、自ら背中を向けてしまったのだ。
「残念でした」
羽交い締めにされたライアは抵抗したが、鋭利な物が首元に押し付けられた所で大人しくなる。
体温の感じられない肌、密着しているにも関わらず聞こえない息遣い。五感で把握出来ないにも関わらず、確実に存在している脅威を実感すると、ライアはぐっと歯を食いしばった。




