第15話 晴天の下で笑う君に
暖かな日の中で、手を広げる。
手のひらの上からこぼれてしまったモノに想いを馳せる。
何もないという事実が、胸を揺らす。心を揺らす。
ここで心を壊してしまえる弱い人間ならば、どれほど救われるか。
手を見る。その手に確かに掴んだ感触。その感触を、思い出すことができない。
涙を呼んだ。その悲しい事実が涙を呼んだ。
濡れる頬に、歪む視界。震える身体に、締め付けられる胸。
悲しみと憎しみと絶望と愛しさ。入り混じった感情があふれ出る。
嗚咽。声が漏れる。言葉にならない声が漏れる。太陽の光を浴びて、白いベッドの上でただひたすらに泣いた。悲しくて、虚しくて泣いた。
生きている自分があまりにも虚しくて。
どれほどの時間そうしていただろうか。気がつけば、影の位置が変わっていた。日が傾いたのだ。
どんなに苦しくとも、どんなに悲しくとも、時は進む。進んだ時は悲しみを過去にする。
ベッドの傍らで輝く赤と青の双剣を胸に抱いて、彼女は眠りについた。そして眠りながら、また泣いた。
その夜、彼女は夢を見た。広い広い世界の下で、太陽の下で赤子を抱いてる夢を見た。暖かくて、残酷な夢を見た。
夢の中の彼女は、満面の笑みだった。そして泣いていた。この夢はいつか終わることを彼女は知っていたから。
それは夢の残り香。暖かな思い出。
この夢も、いつしか過去になる。
この悲しみも、いつか過去になる。
時は進む。真っ直ぐに、止まることなく、進み続ける。
そして今――――
「痛む?」
「いいえ、流石は素晴らしい出来です。魔道具生成に関しては姐さんがやはり一番ですね」
「褒めてもなんもでないわよ」
鋼鉄の脚。腿から下を義足に変えて、青髪の魔法師は白いベッドに横たわる。傍らには杖。使い込まれてボロボロになった杖。
杖の横には本。大量の魔法の式が書かれた本。それもまた、使い込まれてボロボロになっている。
「よっしじゃあ今日は終わり。何度も言ったけど、魔力で動くのよこの足。生身の足とは全然感覚が違う。慣れるまでは歩いたりは駄目よ」
「はい、わかりました」
「あと姐さんはやめなさい。誰に聞かれてるか。あなた首席なのよ埋葬者の。威厳が大事でしょ。あなたに憧れてる子もいっぱいいるんだから」
「気をつけてはいるのですが……どうにも中身は変わらないようです」
「困った子ね」
ハルネリアはカーテンを開けた。日の光がその部屋に真っ直ぐに入り込み、二人を照らす。
ヴェルーナ女王国の中にある魔法機関本部の一室で、二人は語らっていた。これまでを、18年の月日を、青蒼のエリュシオンとの戦いでラナ・レタリアが失った足を義足に替えながら。
「私は、エリンフィア様が言うまではこの話、しないと誓っておりました。しかし、まさか数年前にお亡くなりになっていたとは……残念です。あの方は、素晴らしい女性でしたのに」
「まぁね。結構酷いところあったけどね。会う度に子供の自慢するのよ私に向かって。傷口どれだけえぐるのよってね。まぁ、親馬鹿だなと思って聞いてたけどさぁ」
「それはそれは。中々に酷い」
「息子に婚約者を作ってやったとかさ。笑いながらいちいち言ってくるのよ。全く、何かもうあの人思い出したら笑ってる顔しか出てこないわ」
「ふふふ、私もです姐さん」
溜息をつくハルネリアに、微笑むラナ。歳を重ねはしたものの、この二人の空気だけは一つの変化もなかった。
窓を開ける。ハルネリアの長い髪をかき分けるように、風が流れ込む。
「姐さんは……わかりますか?」
「うん? 何が?」
「エリンフィア様が何故、この話を姐さんにしなかったのかを。私には、わかりません」
「そんなの決まってるでしょ」
「何故ですか?」
「あの人が母親だったからよ」
揺れる。赤い髪が揺れる。カーテンが揺れる。風で揺れる。
「自分で産んだ子が自分の子じゃないなんて、言えるはずないでしょう。母親が言えるはずないでしょう」
「しかし、姐さんがそれでは、あまりにも」
「思えば、報告してたのかもね。子の成長を。罪悪感、あったのかもね。でも知らなかったんでしょうけどちゃんとエリンフィアさんの血も混じってるのよね。しかも私よりも比率が大きい。自信もって母親面してたらいいのに」
「そう、考えますか。恨みはしてませんか? あの方を、あの方たちを」
「まさか。エリンフィアさんはよく私に会いに来たし、あの人は……結局二度と会うことはなかったけど……それでも、私が仕事を頼んだ時は常にあの人に近しい人を寄越してくれた。妻、子の許嫁、弟子、そして自分の子」
「しかし、それだけでは」
「不器用なのよどこまでも。あの人は、とても弱い人間。人を殺すには優しすぎる人間。だから、あそこに籠る選択をした。もう二度と誰かを巻き込まないように」
「私は……やはり姐さんが不憫で。何度言ってしまおうかと思ったことか」
「いいのよ」
赤髪をなびかせて、ハルネリアは振り返り、本を手に取った。自分の本を。
「今話してくれてありがとう。もし昔に、あの後すぐに聞かされていたら、私はどんな手を使ってでもあの子を奪いに行ったと思う。どんなに手を汚したとしても」
「姐さん……」
「でもそれじゃきっと、今はない。私は私じゃなかっただろうし、彼は彼じゃなかった。この国もきっと、救われてなかった」
「仮定ですね。かなり、好意的な」
「でも事実。ありがとうラナ。今まで我慢してくれて」
「そんな、私は……」
「ふふふ」
ハルネリアは本を一ページだけ開けて、人差し指を伸ばした。
小さく光る指。その指の先に、小さな光の羽が現れる。使い魔の羽。
「彼の使い魔、ラナは見たことないでしょうけど、これと同じなのよ。光の羽」
「そうなんですか、使い魔は様々、簡単な式だけに同じ形にはなりにくい。形が同じとは、すごい偶然ですね」
「偶然……かな。私にはエリンフィアさんの悪戯な気がするのよね」
「悪戯?」
「そう悪戯。気づけるもんなら気づいてみせろってね。あの人、子供っぽいから」
「またわかりにくいことを。気づかれなければ悪戯にもならないでしょうに」
「そうね」
光の羽は窓から飛び出て、空を舞う。ひらひらと、右に左に、風に揺れて。
「あの……埋葬者である私が聞くことでないと思うんですが……その、姐さん、本当に受けるんですか? ヴェルーナ女王の譲位」
「うーん……そこなんだけどね。ちょっと今すごいこと考えてるのよねお母様と」
「すごいこと?」
「ほら私って結構有名じゃない? 変に顔売れたっていうか、ブックマスターとか呼ばれてるし」
「そりゃ……あれだけ魔術師狩りをした埋葬者ですからね。倒した魔術師の数なら埋葬者の中でも一番ですよ姐さんは」
「まぁ……今更だけど、私ちょっと汚れすぎっていうか……イメージがね。かと言って第二王女のメリナはロンゴアド国に嫁ぐ気満々だし」
「しかしお二人しかいないではないですか女王の血族」
「ふふふ、そこよそこ。楽しみに待ってなさい」
「は、はぁ……」
「じゃあ私、行くわ。いろいろ打ち合わせがあるし。ラナ、とりあえず一週間、言った通りにその義足動かしてて。あなたならすぐに歩けるようになるわ。来週また来るからね」
「はい、ありがとうございます姐さん」
「うん、じゃあまたね」
風は謳う。羽は舞う。赤い髪は揺れる。
幾多の涙の先で掴んだ今は、暖かな日の下に。
失ったものが戻るその喜びは、最上の喜び。胸が躍っていた。ハルネリアの心が躍っていた。
魔法機関の本部を出て、数歩。唐突に足を止めて彼女は空を見上げた。青く透き通った空が、そこにはあった。
夜が明ければまた朝が来る。青空の下で、赤髪の魔法師は笑っていた。
閑話 漆黒の月夜で孕んだモノ 完




