第37話 振り返ることはなく
人の性は聖か邪か。
そんなもの、答えれる者などいない。
大きな影が窓の光を遮る。窓の外、壁の向こうから大きな声が聞こえる。
「おいおい、流石にこれはやりすぎだろう。せめて苦しまないようにだな」
「何言ってるんだお前、こんな機会滅多にないぞ。楽しまないと」
「お前そんなやつだったか? っと、おいこれまだ生きてるぞ。ちゃんとやっとけ馬鹿」
窓の向こう、家の外、何かが壁に叩き付けられた。赤い液体と、桃色の何かが窓に張り付いた。
震える身体を抑えながら、口を押えながら、家の隅で少女は涙を流す。両腕で赤ん坊を抱えて。
「んん……んんん……!」
息ができないほど強く、強く口を押えて、少女は涙を流す。家には少女と赤子の二人だけ。恐怖心を抑えながら、彼女はただ泣きながら家の外にいる者達がいなくなるのを待つ。
ヴェルーナ女王国の中心街より少し離れた村。その片隅にある家。
少女はその家の中で、静かに震えていた。
父も母も、畑仕事にでて帰ってこない。普段ならば聞こえる隣人たちの話し声も、家畜たちの鳴き声も聞こえてこない。
少女の耳に届くのは叫び声と、男たちの笑い声。
「あらかた殺したか。本隊に合流しよう。しっかし、流石に一人一人殺して回ってたら疲れるなぁ。行こう。聖皇騎士様がお待ちだ」
「待て待て、家の中も探しておこう。他に家族がいるかもしれない」
窓の傍にいた男の声が離れていく。少女は眼を見開いて、赤子を抱いて立ち上がり、駆けだした。
向かう先は寝室。ベッドの下。
驚くほどの速さで少女はベッドの下に潜り込み、赤子を引きずり込む。
赤子を抱く空間などない。少女は自分の隣に優しく赤子を置くと、また自分の口を押えて息をひそめた。
少女は気づいている。家の外にいた男たちが、自分たちを殺して回ってることに気づいている。故に、恐れている。見つかるのを恐れている。
少女の頭の中は父や母がどうなったかということよりも、自分が死ぬかもしれないということで一杯だった。
首を横に向けると、赤子が目を開けてきょろきょろと周りを見ている。少女は、頭の先からツララを突き刺されたような感覚に陥った。
この子が、弟が、もし声を上げて、声を上げて泣きだしたら――
フルフルと泣きながらも、必死で少女は赤子に笑顔を向けた。せめて笑って、笑っててほしいという思いを込めて。
扉が開く音が鳴る。その音は大きく、そして乱暴で。
赤子が、その音にびくりと反応した。咄嗟に出る少女の手。手は、赤子の口に。
「……誰もいない、か。おっと、水亀と布があるぞ。血ちょっと落としておくか?」
「馬鹿、後にしろ。しっかり探してからだ」
「そうだな」
ギシギシと響く足音、この家は大きな家ではない。乱暴に何かを倒したような音が鳴り響く。皿が落ち、割れる音が鳴り響く。
少女の手の下の赤子は、その音一つ一つにびくびくと反応し、顔は歪み。
「しかし、非交戦とか言って本当に誰も武器一つもってないんだな。魔法を使っては来たが、弱い防御魔法だったな」
「そうだな。こりゃ楽な仕事だ」
くる。足音。
ぐずぐずと、少女の手の下で赤子が震えている。
力の限り少女は赤子の口を押えて、そして願う。泣かないでくれと。泣けば死んでしまうと。
足音が、二つ、影が二つ、ベッドの足元から見えるのは銀色の足。鉄でできた銀色の足。二人分。
そして、黒い脚が二人分。
「おいみろ。子供の服だ」
「子供か。殺してなかったな」
二人の男たちは乱暴に衣類の入った棚を開け、そして衣服をほおりだしていく。
服の一枚がパサリと、ベッドの足元に落ちた。少女の目の前に落ちた。それは斬り裂かれたワンピース。少女が母親に作ってもらった服。
銀色の足はその服を今にも踏みそうで。思わず、手を伸ばした。
しまったと思った時には手遅れで。
伸ばした手は、赤子の口を押えていた手。当然のように、赤子は鳴き声をあげた。大きく、大きく。家中に響かんばかりに。
全てが終わったというその感覚。少女はその幼き心で理解した。これが絶望だと、理解した。
泣かないでと言う暇もなく、銀色の足は折れ曲がり、銀色の腕がベッド下に伸び、そして、銀色のヘルムがゆっくりと、ベッドの下へと――
「女王様は、何でもできるって――」
小さく、口の中で少女はそう言葉を発した。何かにすがる暇すらない。涙を流す暇すらない。泣きわめく弟を止める暇すらない。
銀色のヘルムの奥、覗く眼。醜悪な眼。
ついに、少女と男の眼が、合った。
「あ――」
男は無表情だった。無表情で、その濁った眼で、少女を見る。
声にならない。声を出せない。
少女は眼を見開いたまま、ただ男の腕がベッドの下に潜り込んでくるのをみているしかなかった。その腕は、少女を顔の傍まで伸びて――
「お前たちは、死んでいい」
そしてその腕は、力無くぱたりと地面に落ちた。
「ちっ、何がエイジスだ。完全に消えてしまったぞ」
女の声がする。ベッドの上から。
「女王陛下はもう一度展開できると言った。その言葉を信じよう」
「もう騎士団のやつらは数千人単位で入ってるんだぞ。遅いんじゃないか?」
「それは何とかするしかない。半分以上は雑魚だ。なんとか、なるさ」
銀色の甲冑を着た男の身体が引きずり出されて、投げ捨てられる。よく見ると、その男の身体は上半身と下半身に分かれていた。
もう一つ、壁の傍で俯いている銀色の男が一人、彼の首からは銀色の何かが飛び出している。
「大丈夫、もう敵はいない、出て来ても、大丈夫」
優しい声。言い聞かせるように、優しい男の声が少女に向けられた。
少女はベッドから這い出て、泣く弟を引きずり出して。胸に抱えて。顔を上げて。
少女の前に立っていたのは、二人の黒い男女。全身に武器を装備し、優し気な漆黒の眼を向けて、少女の肩を掴んで男はしゃがみ込み、そして告げた。
「すまない遅れた。もうこの村で生きてるのは君たちだけだ。家を出て、左を向いて歩け。銀髪の女がいるから、やつに会うんだ」
もう誰もいないと、彼は言った。即ち、少女の母親も、父親も、もういないのだと、言ったのだ。
少女は不思議と、悲しくはなかった。泣く弟を強く抱きしめて、少女は表情を変えることなく家の入口へと向かう。
扉を開ける。そこに広がっていたのは、赤色の世界。
赤い、紅い、朱い世界。
血と肉と花と。
言われた通りに、少女は左を向いて歩き出す。道に沿って歩き出す。視界の外、大量の死体の山の前にいた銀髪の女が少女に気付き手を振りながら駆け寄った。
少女は何も感じない。何も感じることはない。彼女の心は、赤色に塗りつぶされて――
「ファレナ王国騎士団の半分は留まった。だが半分は壁を壊した。人としての善。それを壊した。セレニア、わかってるな?」
「ああ、わかってるさ」
「殺した者に報いを」
「殺された者に救いを」
二人はそれぞれの左手から手袋を外し、渡し合う。二人の左手の刻印は、彼らの意思のままに光を放って。
そして彼らは姿を消した。残されたのは赤い世界。
ボトリと、家の窓にへばりついていた肉が地面に落ちた。




