第1話 平和な村
鳥が鳴く。朝露に濡れた葉が太陽の日によって輝く。
日が昇って、その村はゆっくりと動き出す。村の片隅にある小さな丘の上の家もまた、ゆっくりと動き出す。
家の扉が強く開く。足で強引に開けられたのか、布の山を両手に抱えて、その家の住人はよろよろと歩き出す。
「リーザさん、手伝いましょうか?」
「いえ! 何のこれしき! でもちょっとドア、締めてもらえます? あと、川どっちです?」
「えっと……こっちです。横に歩きましょう。着いて来てください」
布の山を抱えたリーザは、ファレナを横目に見ながら、ゆっくりゆっくり横にスライドするように歩く。家の近くには川。最後は少し急勾配。リーザが倒れないように、ファレナは彼女を連れて歩く。
リーザが川の傍に布の束を置く。そしてリーザは駆ける、家に向かって。扉の隣においてあった大きな桶と、二枚の洗濯板を取って彼女はまた川へと戻る。
二人は袖をまくって、ファレナとリーザは村の娘のような服装と、エプロンを着けて、二人並んで腰を落とす。ファレナは布の束の一番上を取って徐に川の水にそれを浸け濡らす。それは上着、黒い上着。慣れた手つきで洗濯板と石鹸を使って、バシャバシャと洗っていく。
リーザも同じように、服を一枚とって洗っていく。
川辺での洗濯。生活するにおいて当たり前のことを、二人は手際よく進めていた。
「うーん……やっぱりセレニアさんの服って、固いゴムみたいですよね。こんなの着てて苦しくないんでしょうか」
「あの人上は下着つけませんからね……締め付けてる方が何て言うかいろいろ揺れなくていいんじゃないですか?」
「私はこんなにピチピチだと息が詰まりそうです」
「私もですねぇ。これ着て戦うぐらいなら全身鎧の方がまだマシですね」
「セレニアさんに聞かれたら怒られそうですね。ふふふ」
「あの人朝弱いから大丈夫ですよ。さぁどんどん洗っちゃいましょう姫様。私、朝食も作らないといけませんし」
「はいわかりました」
川辺の表面には白い泡が流れ、次々と洗濯していく二人を誰が隣国の重要人物だと思うだろうか。
村人は動き出す。朝の挨拶の声がポツポツと村に響いていく。
そして大きな洗濯物の束が半分ほどに減った頃、ファレナは視線を上げた。小さな川の向かい側。腰まで伸ばした銀色の髪を風に揺らし、真っ赤なローブに身を包んだ女性が歩いてくるのを見かけたから。
その女性は左右色の違う瞳をファレナに向けて、ふっと微笑むと小さな川に掛かる橋を渡り、近づいてくる。細長い木の箱を脇に抱えて。
「おはようございますファレナ姫様、そしてリーザ様」
「おはようございますマディーネさん。リーザさん、マディーネさんですよ」
「あ、はい、おはようございます……」
銀髪の女性は、慈悲深さを感じさせるように微笑を浮かべる。彼女は洗濯物の束を見て、しゃがみ込んでその束から一枚布を取った。
「洗濯……一国の王女様が洗濯ですか?」
「はい、何か変ですかね」
「いいえ、ご立派だと思います。リーザ様も高位の騎士だったと聞いております。そのお二人が侍女たちにやらせるようなことを進んでする。為政者の鏡だと思います」
「いや、そんな、大したことじゃないです。セレニアさんたちに比べたら私なんて……」
「人にはできることが異なります。もちろん、何でもできる人はいます。でも何でもする人はいないものです」
「いやぁーそんなことないですって」
ファレナはその濡れた手を振って、そんなことはないと照れたような仕草を見せる。隣にしゃがみ込んでいたリーザは褒めら慣れていないのか顔を赤らめ洗濯物を洗う手を早める。
しゃがみ込んでいた銀髪の魔法機関が埋葬者であるマディーネは立ち、周囲を見回していた。誰かを探すかのように。
「そういえばセレニア様は? 頼まれていた物、師であるハルネリア様から預かってきたのですけど」
「セレニアさんまだ寝てますよ。あの人普段は寝てばっかりなんですよ。朝も朝食できるまでは起きてきません」
「そうそう、姫様もこうやって働いてるのにあの人働かないんですよ。全く、食事と訓練以外はほとんど寝てばっかり。はぁーもう、ちょっと強いからってどこまでもマイペースで、あれでよく愛想つかされないなと。大体ねぇ、聖光騎士である私でもですねぇ」
「はいリーザさんそこまでです。もう一か月になるんですから、いい加減仲良くなりましょうよ。いい人ですよセレニアさん。あんな献身的にジュナシアさんを看護する人なんですから」
「それって絶対彼以外がそうなっても看護しないですよね……」
下を向いて複雑そうな顔をするリーザを見てファレナは笑みを浮かべる。
ロンゴアド国にある村の一角に家を得て、早一か月。ファレナたちはつかの間の平和をそこで得ていた。皆で家事をして、皆で生活をする。それだけのことが、何故かファレナには新鮮で。
「なるほど、まだお休み中ですか。邪魔はできませんね。ではジュナシア様は? 元々彼の依頼でしたので」
「あの人はお城です。王子の護衛でお仕事に行ってます」
「護衛ですか」
「はい、本当ならリーザさんが行く予定だったんですけどね。でもあの人の意見で、より側近と思われてる人が行くべきだと。魔力回復終わって髪の色戻ったの最近でしたのに凄いですよね。たぶん数日は帰ってこないと思います」
「なるほど、ではあの話。進めるんですね」
「開催までいけるかはわかりませんけど、そこはハルネリアさんとロンゴアドの王様に甘えちゃいます。私、そこはちょっと弱いですから。正直これでいいのかなって思わなくもないですけどね」
「待つべき時は待つ。それもまた大切なことです。それではもしかして急いでるかもしれませんねこれ。わかりました、私が直接城に持って行きます」
「はい、ところでそれ、何なんですマディーネさん?」
「魔道具です。ああ、戦闘用ではなくて、義手です。腕を亡くした人につける、右上腕部を再現した義手です。魔力が尽きない限りですが、普通の腕と変わらない動きができます」
「何でセレニアさんたちそんなものを」
「そこは聞いてません。では私はお城に参りますので。また夕方来させていただきます」
「はい、リーザさんが今夜は美味しい物を作ってくださいますから、期待しててくださいね」
「ありがとうございます。ではまた」
微笑みを浮かべるマディーネはそのまま踵を返して歩き出す。歩みはゆっくりと、ファレナたちは少し見送った後、また川に向き直って洗濯物の束に手をかけ、洗濯の続きを始める。
「失礼ですけどあのハルネリアさんのお弟子さんが、まさかあんな聖母みたいな人でしたなんて」
「ええ、魔法師の女性ってやっぱりどんな人でも素敵です」
「あと少しです。続きやりましょうかリーザさん」
「はい」
川は白く染まって、はるか遠くに小さく見える城の方に見える太陽は彼女たちを照らす。
その太陽に向かって銀色の髪を輝かせ、埋葬者であるマディーネは歩く。遥か遠く小さく見える城に向かって。
彼女は徐に胸元に右手を入れると小さく丸められた黒い塊を取り出す。そして立ち止まり、器用にその塊を解いていく。
「ふ、ふふふ……なるほど、なぁるほど……」
紐が伸びる、塊は少しずつ大きくなっていって。
「本当におめでたい方たちですね……自分たちが何をされているのか全然気づかないんですもの……師匠の言う通りに振る舞っていればもう信頼も完璧、騙されてるとも知らずに……ふふふ、だから、こんなに簡単に……」
そしてその黒い塊は、小さな布を中央に。紐を摘んでマディーネは太陽にそれを透かす。
それは――
「なぁるほどなぁー! あーいいですねぇ! 想像通り! これ絶対セレニア様の! あんなにぴっちりした服着てるんですもの、もちろん紐ですよね紐! 紐パンツ! このヒップに食い込む感じ! むっふはぁー早起きして大正解!」
黒い下着を振り回して、魔法機関が誇る埋葬者、その第十六位であるマディーネ・ローヘンは道の中央で飛び跳ねた。周囲に誰もいないことを確認しながら。
ひとしきり飛び跳ねたあと、彼女は手に持っている下着をまた太陽に透かして、眼を輝かせる。そこに粛然として、慈悲深い笑顔を浮かべていた彼女はもういなかった。
「人の歴史は数万年……その間、様々な文化的な物が生まれ、そして廃れていきました。私は、思います。この下着という発明とその進歩は素晴らしいと。最初は耐久性だけだったんでしょう。でも! 今やこの下着は性的主張をするためのアイテムとなりました! あーなんですこの紐! 簡単! 切るの簡単! でも切っちゃ駄目! こうやってつーって解くからいいんです! あーもうさいっこう!」
道の中心で早口で言葉を吐き出していく彼女を、鳥たちは空からみていた。その鳥たちは気のせいか、何か怖い物をみたかのように、その翼を早め、跳んでいく。
黒い下着を胸に押し付けて、マディーネは満足そうに眼を瞑り、その感触を感じて立っていた。まるで何かに感謝するかのように。
「あー……あの嘘つきな師匠にかわいい娘ばかりだからとか言われて疑いながらきましたけど。本当だったなんて……細身のリーザ様も、バランスのいいセレニア様も、ちょっぴり肉感的なファレナ姫様も、みんな違くてみんな若くてもうみんな最高っです! 師匠はまだいけるとか言ってきっついパンツ履いてますけど。いけませんって。あんなんばっかり見せられてたらそりゃもういろいろきっついです。その点こっちは皆若い! えっと、姫様が17で、リーザ様が19だっけ? セレニア様も師匠が言うには17らしいですけど背伸びした感じが最高でっす! 下着泥棒しちゃうのも仕方ないですよね。いや、違うんですよ、これは罪じゃないです。私は愛の探求者! ある意味聖母! 私は女性が好きなだけの淑女! 生物的には間違ってても信仰的にはノーマル! 私性癖ノーマル! ですよね皆さん!」
気が付けば、マディーネの周囲には朝畑に向かう村民たちで一杯だった。皆彼女を避けるように、ひそひそと何かを話しながら歩いていく。
一人の男の子が彼女をじっと見る。マディーネと眼が合う。
「……んんっ! あなた様、名前は?」
「ルクス」
「ルクス様、あなたにも偉大なる魔法師の始祖様は慈悲をお与えになります。これから家族の方と畑仕事ですか? 今日はいい天気です。お水の方はしっかりと取って、無理はしないようにしてくださいね」
「お姉ちゃんは、歳いくつ?」
「……今年で18になります」
「若いと最高なの?」
「……わりと」
「道の真ん中で騒いでたら皆の邪魔になるから駄目なんだよお姉ちゃん」
「…………ごめんなさい」
「気をつけようね! それじゃ僕畑いかなきゃ、ばいばい」
「………………ばいばい」
元気に走り去る少年を何とも言えない顔で見送ったマディーネは、下を向いて、できるだけ周りの人の顔を見ないように歩きだす。この場から一刻も早く立ち去るために。
「うぐぐ……あまりの嬉しさでつい……落ち着かないと、落ち着かないと……」
持っていた黒い下着をするっと伸ばして、彼女はそれをローブの首元から懐へと仕舞う。脇には細長い木箱。銀色の髪を揺らして、彼女は速足で歩いていく。
「胸に伝わる感触がまた……ああーいいですねぇ……って駄目駄目、城につくまでに落ち着かないと……師匠の言う通りにしないと……はぁ……でもいきなりセレニア様のを取れるなんて……ふひひ、って駄目駄目……」
顔を赤らめて、彼女はいつの間にか駆け足になっていた。向かう先はロンゴアドの城。
世界で最も、滅びに近い国の――城。この国は薄い氷の上に辛うじて建っていることを、平和な村人たちはまだ気づいていない。
日は昇る。明日を照らすために。




