第34話 朱色
歩き続ければ、いずれは至る最果ての場所。
誰かが言った。そこに意味があるのか、と。
誰かが言った。それが必要なのか、と。
誰かが言った。結局、それでそれは何なのか、と。
人の歩みを止めようと、人から幾多の言葉がかけられる。人は人を思考の檻に閉じ込めて、その歩く速度を抑えようとする。
何故、人は人を抑えるのだろうか。自由にさせればいい。自由こそが、最速の進歩への道。
何故、自由を許さないのか。自由さえ与えればきっともっと早く、それは生まれていた。
あるところに魔を修めんとする魔術師がいた。彼はある根源的存在を信じていた。
魔力は人の魂から滲み出すもの。それに果てはあれど、時と共にそれは元の量に戻る。即ち、ある意味無限。人の魂の力に果てはない。
すなわち、回復力。時間と共に回復する力を高めれば疑似的にでも、無限の魔力に至るのではないか?
彼はあまりにも純粋だった。最初に彼は、その理論を自分の身体で試そうとした。
当然、そんなことはできない。自分の身体はもはや出来上がっていて、その魂の力を強化することなどできやしない。
ならば、身体が出来上がっていない者ならばどうだ?
彼は考えた。人の受精卵にその術式を試すことを。そしてどうせならば、才能が溢れる男女から作られる受精卵がいいと彼は考えた。
結局のところ、それは自分とその妻とのモノを使うことになるのだが。
とにもかくにも彼は自らの妻には詳しく話すことは無く、その術式を試した。課した術式の系統は修復、根は命。
人よりも速く、強く魔力回復ができるよう回復と言うモノに関する時間を早める。いわゆる魔力の代謝力。重ねて重ねて重ねて重ねて。行うこと数千回。術式を受精卵を体内に持つ母体に施す。
結果生まれた。母の腹を裂き、その真朱の魔物は生まれた。無限の魔力、無限の力、回復の根源に至ったことでエリュシオンの扉をこじ開け、そこから出てくるは根源的存在。
彼の実験場は、彼そのものと共にその場で一瞬で蒸発した。残されたのは無限の魔力を持つ魔物のみ。
その力は、その熱は、地を歪め、空間を歪め、高き丘程度の高さしかなかったその大地を一気に隆起させた。結果として生まれたのが世界最高峰の山、ハーボルト山脈。それを生み出した魔物の父である、魔術師の名はハーボルト。
ある意味で、彼が至った魔の果てが、その山なのだ。万年経った今でもその山は存在している。それを生み出した『真朱のエリュシオン』と共に。
飛び降りる。ハーボルト山脈の上にある塔から、その中にある螺旋階段から。中央を一気に、彼は飛び降りる。ジュナシア・アルスガンドは飛び降りる。
見上げる天井、氷で覆われていた天井。そこからはすでに雨のように水が滴り押している。透明な天井にうっすらと見えるは朱色の魔物。
無限の魔力を持つその魔物は、動きをみせていない。だがその意志、意志はあった。何かを訴えるようなその眼は、確実に一度は彼を見たのだ。
ならば来るだろう。当然来る。何を求めるのかは誰にもわからない。だがそれは確実に来る。
螺旋階段の最下層に音も無く彼は着地する。目指すは扉。目の前の扉。
――急げ!
何かが彼に訴えかける。言われなくても急ぐさと、彼は心の中で返事をして、そして扉を叩き壊してその中へと入った。
後ろ、天井、何かが崩れる音がする。
扉の中、奥にはまたもや下へと続く螺旋階段。階段の傍に、露わになった胸元を押え座り込む赤髪の女と、それを必死で支える白い金髪の女がいる。
「階段を降りろファレナ! 急げ!」
「えっ」
「急げ! ハルネリアは俺が持つ!」
決断すら待てない。まだ意識が朦朧としているのだろう、上半身裸のハルネリアを一瞬で肩に抱えて、ジュナシアは彼に似つかわしくない大きな声でファレナに指示をする。
「急げ!」
「な、なんです?」
「いいから走れ! 死ぬぞ! あれが、来る!」
「は、はい!」
ファレナは駆けだす。言われた通りにすることが、一番いいと直感で感じ取って。彼女は走り出した。
ジュナシアも振り返ることなく走る。肩にハルネリアを抱えて。
そして――薄れる意識の向こう、ハルネリアは見た。扉を溶かし進む朱く巨大ななにかを。
螺旋階段。一度はレイドールの魔術で歪められていたその階段も、今や普通の巨大な螺旋階段。だがそれを一段ずつ降りてる暇などない。
「ファレナ首を抱えろ!」
「はい!?」
「両手で、しっかり抱えろ!」
「こ、こうです?」
「そうだ! 行くぞ!」
「え、ええああっ!?」
飛ぶ。大きく輪を描く螺旋階段の中心に、ジュナシアはファレナを左手に抱えて飛ぶ。
空中で真下に向かってさらに二歩、魔術を使って空を蹴る。すさまじい加速に、ファレナは一瞬気が遠くなったかのように感じた。
仲間の身を案じての手加減すらできない。そのこと自体が、ファレナに彼の焦りを伝える。
歪む景色、音、回転してジュナシアは着地する。彼は、そしてファレナはその回転の中でみた。螺旋階段の上から彼を見る朱色の眼を。
「あれ、は?」
「兵器の魔力源だ! 人が手を出していいものじゃない! あれは触れてはいけないものだ! 走れ! 塔から出るんだ!」
「はい!」
走る。ファレナは走る。開かれた入口の、大きな門に向かって。
かなりの距離があるが、彼女は疲れを忘れていた。ジュナシアの必死な顔が、彼女に今すべきことを教える。
一気に視界が白くなる。あれだけ苦労して上った塔を、かけた時間の1/10以下の時間しかかけずに出た。寒さが身体を撃つ。
「うっあ……あ、え? 外……?」
ジュナシアに担がれていたハルネリアが唸り声をあげて、眼を覚ます。すさまじい寒さに、裸体をさらしているのだ。その痛みにも似た寒さが、彼女を一気に覚醒させた。
「さっむ! っていうかえっ何で私のローブ!?」
「ハルネリアさん!」
「えっ何? ファレナ姫……こ、ここって、あれ、私……っていうかさっむ! 何なのこの状況!」
「ハルネリア黙ってろ! いや、好都合だ。どこでもいい! ゲートを開けろ!」
「えっ? ちょっ、きゃっ」
躊躇なく彼はハルネリアを雪の上に投げ捨てた。雪に叩き付けられた裸体は、一瞬で赤みを帯びる。ハルネリアは飛び跳ねるようにそこから立ち上がった。
「ひぃぃ! ちょっと、あの、服、服ない? ゲートの前に服くれないかしら!」
「ちっ」
彼は、着ていた黒い服の上着を彼女に投げつけた。防寒着用に二枚重ねて来ていた服の一枚。風をとおさないようにできているそれは、雪ですでに濡れていたがそれでもハルネリアはそれを着た。
ブルブルと震わせながら、彼女は本を開く。本から出てくるのは赤い玉。火の塊。それを自分の身体の周りに舞わせて、暖を取る。
「待ちなさい。説明なさい。兵器は? 魔力源は? 何故逃げるの?」
「あとだ、奴がくる……!」
「奴?」
音がした。ハルネリアが聞き返したその言葉と同時に、音がした。大きな音。
いる。ハルネリアはみた。周囲を溶かして歩く。それを。
言葉を失った。そして同時に悟った。あれは、触れてはいけないモノ。
ハルネリアは本を急いでぺらぺらと捲る。
「塔の外ならば隠れる場所はと思ったが……ちぃ、雪が、雪がやんでる」
ハッとした顔をして、ハルネリアは唐突にページをめくるのをやめて本を閉じる。そして顔を歪める。どうしようもないという風に。
「ハルネリア? どうした。ゲートだ。山を降りれる距離とは言わない。せめて中腹まで……」
「ごめんなさい……ゲートのページ、破損して使えないわ……」
「何……」
感じる。これほどまでに絶望感を感じたことはあったろうかと、彼は自分で自分に問いかける。
ゆっくりと、ゆっくりと動く。朱い魔物。それは確かに、確実に彼を見ていた。
「セレニアはまだきてないか……ぐっ」
「アレは、何なの? ねぇジュナシアさん、あれは何?」
「……レイドールは『真朱のエリュシオン』と呼ばれる魔物だと言っていた。それ以外は覚えていない」
「真朱のエリュシオン……何それ。私知らないわ……」
「近づくな。近づいただけで、あの魔術師の男は蒸発した」
ゴクリと、ハルネリアの唾を飲む音が響く。隣に立つファレナは眼を見開いて、ただ立ちすくんでいる。
朱い魔物は、もう逃げないとわかったのだろうか。その朱い眼を光らせて、ゆっくりと歩いてくる。魔物が通った場所は、鉄だろうとも木であろうとも、燃えて蒸発していく。
「ハルネリア、まだ撃てるかあの魔法?」
「……一発だけなら。でも時間がかかる。本も傷ついてるし、魔力量だってあの変態に結構使っちゃったから、それにあれ出すならここら一帯に陣を描かないと」
「わかった。ファレナ、近くを注意深くみていろ。セレニアを見つけるんだ。あいつなら、お前を守ってくれる」
「は、はい」
「それと……手を」
「はい? なんですか?」
突き出したファレナの手に、軽く置かれるのは黒い手袋。ジュナシアの刻印を覆っていた手袋。
「えっ? これって」
「アルスガンドの刻印を覆う手袋は、本来は最も親しき者にだけ預ける物だ。必ず受け取りに来ると誓いを立てて……今は君が持っててくれ」
「わ、わかりました!」
「ハルネリア、時間を稼ぐ。いざとなったら俺ごと撃て。倒せなくとも、この山に封じ込めることはできるはずだ。あの魔法なら」
「なるほどね。わかったわ。でもいいの? あなたの刻印って確か……」
「倒しきれないのはわかっている。だから時間稼ぎだけだ。さぁ下がれ。広い場所に出れたんだ。俺の近くにいる必要はない」
「……わかった。ファレナ姫様。下がるわよ。邪魔になる」
「は、はい!」
ファレナとハルネリアは駆けだした。ジュナシア一人を残して。
いつの間にか、朱色の魔物は塔から出ていた。その眼は彼にしか向けられていない。明らかに、あからさまに狙いは彼一人なのだ。
彼は、双剣を取りだす。それをくるくると回して。いつもと違って、腰を落として防御の構えを取る。
――逃げろ!
頭の中では依然として警告の声が鳴り響いているが、これ以上は逃げれない。だから立ち向かう。
だが気づいていた。彼は気づいていた。目の前にいる魔物は、まがい物ではない本物なのだと、即ち、まがい物である自分よりも、一段上にいる存在なのだ。
笑った。ジュナシアは自虐的に笑った。勝てないのに立ち向かう。生きて帰ることを第一に考えてきた彼とは思えない行動に、彼は笑った。
――そんなに言うなら、やるだけやってみるがいいさ。私は知らないぞ。




