第30話 世界で一番無垢な少女
――光を見ました。
漆黒の光を。手を伸ばせば、その黒い瞳は簡単に手に入りそうで。でも、それはできなくて。
その光の中で、生まれて初めて見た光景にあったのは彼の顔。
――美しい。
人の顔は美しい。手も美しい。
キラキラと輝く世界。何かが動いている、というのが見える世界。
上を見れば、そこは石でできた天井。シャンデリアが日の光を浴びてキラキラと輝いている。
窓を覗けば青一面。空。輝く空。青、という色は知らなくても、それは青色。言葉は後、眼の情報が先。
――そう、美しいって、こういうことなんだね。
嘗ての彼女は、ただの飾りだった。ただの物だった。父親も、母親も、彼女を人としては扱ってはいなかった。もちろん愛情はあった。だがそれは愛玩動物を愛でる愛情以外に何物でもなく。
彼女の眼は光を感じるとができないと気が付いたのは侍女の一人だった。その後、その侍女は城から出ることを許されなくなる。
幼く、光を見ることができない白い王女は、その日から一歩たりとも城の外へ出されることは無かった。正しく飾り、正しく物。大事に育てられると言えばその通りではあるが、彼女にとっては正しく虚だった。
だからこそ彼女は何も感じない。その感情は他人からは大きく振れているかのようにみえるが、その実、彼女は何も感じていない。
愛情を知らない。
憎しみも知らない。
恐怖も知らない。
喜びも知らない。
ただ生きているだけの人形にそんなものが備わるはずもなく。彼女の心はいつまでもいつまでも虚ろで、空っぽなのだ。
だが、だがそれは一度の衝撃で変わる。
きっと、彼女は世界に恋をしたのだろう。一方的な恋。想い焦がれて、身をよじるような恋。文字通りの一目惚れ。
止まっていた彼女の心は、演技だった彼女の生は、その瞬間に全てが本当に変わった。嬉しかった。楽しかった。暗闇の中で凍っていたファレナの心はその時一気に溶けだしたのだ。
しかしながらまだ凍ってる部分もある。それは彼女にはきっとわからない。それを理解した時、ファレナは本当の意味で絶望するのだろう。
だから知らない方がいい。彼女の周囲の人々は、人にあまり興味のないセレニアでさえ、そう思っている。
そう、そのままがいい。皆そう思っている。
だが忘れてはいけない。眼を見開き、世界に挑み始めた彼女の時間は進み続けているということを。
無意識なのだろう。そこまで意識などしていないのだろう。
彼女の眼を治した彼女の一目惚れのもっとも中心にいる名が無かった男が、彼女に頼った。それはきっと、そうしなければいけないからそうしただけで、彼にとってはそこまで大事ではなかったのだろう。
だがファレナにとって、本人が気づいているかどうかは別として、それは大事だった。
胸が弾んでいた。心が喜んでいた。彼に応えたい。彼女はその一心で迷宮を走る。もし彼の期待を裏切った時は、それはとてもとても悲しくて、苦しいこと。そんなことになることは嫌で、そんなことになるという未来はとても”怖い”。
少しだけ、彼女の時計の針が早くなった。
「はぁはぁ……あった、ありました。ナイフ二本。ということは……この階段は、上に登れるこの階段は……!」
駆け足で彼女は階段を昇っていく。長い長い螺旋階段。大きな大きな螺旋階段。足を踏み外すことはないだろうが、三半規管が揺さぶられるのか、階段を上っているだけで眼が回り始める。
「はぁはぁ、疲れます。すごく疲れます。ということは、私、今登ってるんですね。はぁはぁ……やっぱり、これは、本物の階段!」
一心不乱に彼女は登っていく。とっくの昔に魔道具の効果はほぼ切れている。身体強化の魔道具がただの石となったことで、ファレナはすさまじい息苦しさと疲れを感じている。
世界最高峰をさらに登る塔。常人の身体でついていけるはずはない。
「はぁはぁ、気持ち、わるいです。でも、でも……!」
それでも走る。足を止めたら、彼女の知らない恐怖に襲われるから。
目がかすむ。頭が痛む。吐き気が止まらない。呼吸が荒くなる。
緩やかな階段だが、そこまで長くない階段だが、それでも普段そこまで身体を動かさないファレナにとっては地獄のようなきつさだった。
走りは、歩みに変わったとしても、それでも彼女は進む。ぜぇぜぇと息を切らせて。
「はぁはぁはぁ……」
「うんうん、頑張りますね。いやぁー健気だ。やはり私の見込んだ通り、あなたはよい足掻き方をする」
「はぁ……!?」
見上げる。螺旋階段の上。どこまで続くその階段の中腹に、真っ黒のフードを被った男が座っている。
フードから覗く口元は、笑っていた。
パチパチと音が鳴り響いた。軽い音。見れば、その男は両手を叩き合わせ、拍手をしていた。
賞賛する気持ちなど一つも感じられないその軽い拍手は、何とも言えない気味の悪さを感じさせる。
「はぁはぁ、はっ……し、ってます。あなた、見たことある……」
「うんうん、初めてではないですからね。いやぁ光栄だなぁ。ファレナ王国が始祖、世界を一度は統べた『戦女皇ヴァルキュリエ』ファレナ女王の名を受け継ぐ姫君が、私を覚えててくださるとは。それだけで果ててしまいそうです」
「はぁはぁ……ナイフ、ナイフ……」
ファレナの手に光るのは小さな短剣。柄の中心にある透明のガラスの中には、真っ赤な血が入っている短剣。
習った通りに魔力を込めようと彼女はそれを握る。
「無駄ですよ。私はね、魔術師としての名として『魔域統師』と呼ばれています。私の術式は、私の領域に魂を閉じ込めること。魂とは人の魔力の根源。故に、魔力を封じるも同じ」
「どうして……あの人から頼まれたのに……反応、しませんっ……」
「おかしいでしょう? 魔力が切れたのなら、姫様は走ることすらできなくなるはず。でも走れる。そりゃ身体に負担は大きいでしょうがそんなのこの環境だ。魔力が満タンの常人でもこれだけ高い山ならばそうなる」
「ううっ」
ファレナは短剣を握りしめる。強く。どこかで切ったのか、はたまたその刃で自分を傷つけてしまったのか。彼女の手には、血がにじんでいた。
それでも何も起こらない。その魔道具である短剣はいくら意識を集中させようとも何もかわらない。
「あなたはね。頂上についた時にすでに、私に捕らえられていたのですよ。くくく、私に近づけば近づくほどあなたの魂はより強く私に捕まっていく。どんな魔道具かは知らないがそんなもの発動できるはずないでしょ?」
「ふぅ、ふぅ……そんな、皆さん頑張っているのに……」
「無力、あまりにも無力。取り柄はその美しさだけ。お飾りはお飾りらしく、城の中で命を終えていればよかったのです。籠の中の鳥は外に憧れる、でも外は思い描くそれとはあまりにも違いすぎるのです。そして気づくのです。籠こそが、自分にとって最高の場所だったのだと」
「あなた、あなたは……あっ」
崩れ落ちる。何とか意地で身体を支えていたファレナの足は、今唐突に力を無くした。
広い螺旋階段で、膝から崩れ落ちたファレナは、肩を小さく揺らしながら手に持つ短剣を握る。何とかしてそれを発動させようと、力がでる限り握る。
「兄は王妃を手に入れました。私には地位以外は何もない。どうせあなたは殺されるのです。ここであなたを手にしたとしても、誰も文句はいいますまい。くくく、一体どんな顔を見せるのか、どんな足掻きを見せるのか、楽しみでなりませんな」
その黒いフードを被った男は階段を降りてくる。一段一段。男が階段を降りてくる度に、ファレナの胸の苦しみは大きくなる。
胸から自分がえぐり出されていくような感覚に襲われる。とてつもない違和感、とてつもない嫌悪感。
「あなたは私の物になるのです。まずは手足、そして身体、頭、魂。どれだけ耐えれるのか、どこまでできるのか。くくく、ああ、それにしても美しい。本物だ。王がファレナの名を与えた理由がよくわかる……」
近づく男の手には青白い光がある。それに触れれば何かが終わると感じさせる光を持つ手を、前に着きだして男は階段を降りる。
もう短剣が発動することは無い。それをようやく理解する。
ならば、手に持ったモノの使い道は、あと一つしかなく――――
迫る黒いフードの男、覗く口は、眼は、ただ愉悦に染まっている。
一段、二歩歩いて、一段、ゆっくりと男は螺旋階段を降りてくる。
きっと、これからすることに恐怖は無い。そもそも、いつだって恐怖はない。
無垢なままに、善悪を解する前に、一つの理解を奪い去られたその白き少女は、酷く、酷く冷静だった。
眉一つ動かさない。これから自分がやろうとしてることは、酷いことであることは間違いない。無垢な少女は静かにその時を待つ。
思い出す。自分が見た最初の景色を。記憶の中の、どこまでも吸い込まれそうな漆黒の眼を持ったその人は、困惑しながらも、どこか満足げだった。どこか安堵していた。
優しさなど微塵も感じさせない眼であったはずなのに、今はその眼から優しさを感じる。
だからこそ、それは美しい。心の底から美しいと感じる。
少女は立ち上がる。疲れ切った足、もはや酸素を失い、青ざめた顔をした少女はそれでも立ち上がる。
右足、左足、交互に一歩ずつ、合わせて二歩。たったそれだけ、それだけで届く。
「なんだと!?」
突き出された両手で握られた短剣は、真っ直ぐに男の胸に突き刺さる。彼女を捕まえようと、抱きつこうと両手を広げていたことが災いした。男は咄嗟に防ぐことすらできずに、その短剣を胸に迎え入れる。
「ぐごっ!?」
うめき声、フードから覗く口は歯を食いしばり苦悶の表情をしているのがわかる。
「私は、守ります。私の光を。だから殺されません」
抜く。短剣を抜く。預かり物なのだ。手放すわけにはいかない。スッと抜かれたその短剣には真っ赤な血がへばりついていた。
「うっ、肺を……しまった、まさか、こんな小娘が、ここまで躊躇なく刺せるとはぁ……!」
「私、知ってます。たぶん私、普通じゃないんだと思います。だってあなたが苦しんでるのを見ても、全然後悔しませんもの。ふふふ、むしろやってやったって感じです」
ファレナは感じていた。魂の束縛が弱まっていくのを。身に着けていた石が再び効果を発揮する。
呼吸が楽になる。身体の疲れが嘘のようになくなる。手にした赤い血がへばりついた短剣が、輝く。
「ちぃ、回復の術式に魔力を回したせいか。厄介な、まるで殺気が無かったから反応できなかった」
男は、そのフードが捲りあがるのも構わずに飛びのいた。フードの下からは、まるで女と見間違うほどの美しい顔がでてきた。
その端整な顔を歪ませて、男は痛みに耐える。黒いローブの胸元は赤黒くにじみ、そこから勢いよく血が出てるのがわかる。偶然にも、短剣は胸の動脈を一直線に貫いていたのだ。
「対峙してわかる。ファレナ姫よ。お前は、人ではない。究極の無垢、真っ白の心。そんなもの、人が持てるはずがない」
「あなたに言われたくはありません。もういいです。あなた嫌いです。私あなたが嫌いです」
ファレナは短剣を逆手に持ち替える。そしてしゃがみ、階段に真っ直ぐ突き刺した。
光る。短剣を中心に輪ができる。円がいつつ、空に浮かび上がり、ひとつずつ短剣を中心に地面に重なる。
輪が広がる。真っ赤な光を発して、五重の輪。
「召還陣だと、魔法か?」
「殺してもらいます。彼に殺してもらいます。覚悟してください。あの人、すっごい強いんですから。あなたなんて、簡単に殺してくれます」
「ぬっ……」
血の召還陣。短剣に入ってる血は、アルスガンドの後継者。ジュナシア・アルスガンドのモノ。
光は大きく、立体的に、五つの輪は等間隔に空中へと浮かぶ。地面の短剣を中心にして。
――現れる。紅の髪。
「くっ……こいつか! また面倒なやつを! ファレナ姫侮れなかったか!」
「あっ!? えっなんで!?」
光の中から現れた人は、長い紅の髪を持つ女性。本を片手に、その顔は勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
周囲に展開するは大量の本。書の魔法師、ハルネリア・シュッツレイが螺旋階段の中腹に現れた。
「はぁい、呼んでくれてありがとうお姫様」
「えっ何でです!? だって、ジュナシアさんが出てくるはずなのに!」
「ふふふ、世の中にはね。ちょーっとおかしなこともよくあるのよ。さぁ、下がってなさいお姫様」
「え、ええ!? ちょっと待ってください!」
「相手は待ちませんよ。下がってなさい。彼がいいならもう一回召喚しなさい。次は介入ないから彼が出てくるはずよ。呼んでこの結界、完全に解除させて」
「もう……わけがわかりません……」
ファレナは階段を数段駆け下りる。残されたのは、大量の本に囲まれるハルネリアと、それを見下ろす男のみ。
「魔紅書女。ブックマスターハルネリアか。噂はかねがね聞いていたが、実際目にするとすさまじいな。これほどの魔力、そして魔法。尊敬の念すら抱くよ」
「そういうあなたは魔術協会首席教導者、魔域統師、レイドール・マックセル。最高幹部の一人。それであってる?」
「大正解。よく覚えていたね私の長い肩書を」
「本部がだんまりになるはずだわ。これじゃ戦争じゃない。魔術協会と魔法機関の」
「だったら、会わなかったことにするかい?」
「だぁめ。ちょっとやりすぎたわあなた。私に対してね。だから殺すわ。しっかりここで殺すわ。その上で、あとはもみ消します」
「ほぅ……さすがにあれを知られてしまっては許せないかね。まさか魔法機関の執行者があんな過去を持っていたなんて」
「……殺すわ。確実に」
螺旋階段は螺旋を描く。彼女たち二人を中心に。ただ対峙する。互いを殺すために。
誰かがそれを見ている。何を考えることも無く、それを見ている。
――時が進む。最後に向かって。




