第29話 深き迷宮は誰を捉えるか
黒くて、黒くて、黒い人。その人は寂しい眼をして、月夜の中一人佇む。
泉の傍にでその双剣を地面に突き刺して、どこから取り出したのか葉巻を取り出してそれを口にくわえる。
じりじりと葉巻の先が赤く燃える。赤は葉巻を昇って、その赤が通った道は灰となって、そして灰は音も無く地面に落ちる。
赤髪の彼女は、息も絶え絶えで、今にも落ちそうな意識を必死で留めてその人を見る。彼女の傍には同じように血を流している者たちが倒れている。
「ふぅー……生きてる、か。何だ、俺も腕が鈍ったかな。やぁれやれ、仕事なんざ頭首になってから数年ぶりだしなぁ」
葉巻を口にくわえて、その人は銀色の剣をくるくると回して進む。進む先には赤髪の女性。彼女の周辺に散乱する本のページたち。
もはや指一本動かせれない。彼女は死を覚悟していた。願わくば、どうか、苦しまないように。
「悪く思うなよ。お前たちが勘違いしたのが悪いんだぜ。あれは俺じゃないって、何度も言ったのになぁ」
黒い服、黒い髪、黒い瞳、冷たくて、寂しい眼。その人は、一切の躊躇など無くその双剣を彼女の首に当てる。
腕を広げれば、彼女の首は胴から簡単に離されるだろう。よかった、と彼女は思った。拷問などをする人ではなくて、よかったと彼女は思った。
「……ああ? ちょっと待て。お前なんか勘違いしてねぇか? 違う違う、死ぬんじゃねぇぞ」
彼の双剣が光る。優しいその光は、暖かく彼女を包む。
痛み、痛みが蘇って、そして消える。まるで時間が巻き戻るかのように、彼女の身体は再生していく。
その黒い人は、やれやれといった風に鼻から葉巻の煙を吐いて、面倒そうに眼を細めて彼女の傍にどかっと座る。
「悪いが死んじまった奴はしらねぇぞ。あーっと恨むなよ。お前らの勘違いなんだからな。俺は魔術師じゃないし、そもそも仕事以外じゃ人は殺さない。っと、死んじまったお前の仲間は別な」
葉巻をプッと吐き捨てて、彼は立ち上がる。その双剣を背に仕舞って、その人は風のように、幻のように、消え去った。
残されたのは数体の死体と、赤髪を持つ女性だけ。傷ついたはずの身体をさすっても、傷など一つもない。仲間を殺された怒りよりも何よりも、自分の身体に起こった不思議な現象に関して、彼女は頭がいっぱいだった。
――それがあの人との最初の出会い。
「違う、こんな綺麗じゃない。この世界は、もっと、もっと、もっと、もっと、醜い。だって、だって、だって持って行ったじゃない。私の子、持って行ったじゃない」
遠くから見ていた。赤い髪の魔法師はそれを遠くから見ていた。その光景を、映像を。
涙を流してそれを否定する。浸りたいと思うその甘い時を、彼女は否定する。
ハルネリアは否定する。彼女の後ろには漆黒の闇。それこそが彼女の心。
「魔術師、覚悟なさい。あなたは私の心に踏み入った。必ず殺す。そこで気持ち悪い顔で見てるあなた。必ず殺すわ。私は、あなたを許さない」
静かな憎悪。表情を変えることなく、ハルネリアは冷たく言い放つ。
夢をかき消して、歩くその先は白い雪原。ハルネリアは静かにその雪の上を歩く。高い塔に向かって。
大量の本を空に浮かべて歩くその者は、魔法機関埋葬者第六位、『魔紅書女』ハルネリア・シュッツレイ。ただその赤髪をなびかせて、彼女は静かに怒った。
一方で、ハルネリアが目覚める少し前に塔に入ったジュナシア・アルスガンドは塔の中を進んでいた。塔の中の、迷宮の中を。
行けども行けども階段階段。進んでいる気にもならない。
「かれこれ、どれくらい歩いてるんでしょう……あの、私ちょっと飽きてきました階段」
「疲れたかファレナ」
「いえ、そこは大丈夫なんですけど。まだ魔道具が効いてるみたいで。やっぱりお馬さん使ったのは正解でしたね」
「そうか」
言葉とは違って、ファレナの顔には疲労が見えた。魔力自体が切れかかってるのだろう。彼女は時折、深く息を吐く。
進む先は階段、右にそれても、階段。左にそれても階段。きっと階段から飛び降りたとしても階段があるだろう。
ジュナシアは常にその眼で魔力の中心を探していたが、それらしきものは見当たらなかった。どうしたものかと、彼は歩きながら考える。
ふと、彼は足を止める。ジュナシアが足を止めたところは、階段の踊り場。少し広くなってる空間。
「どうしたんですかジュナシアさん」
「いや……」
おかしい、光景がおかしいのは相変わらずだが、それ以上に魔力がない。これほどの空間、魔力すら感じないなどということはおかしい。
「……ファレナ。少し聞くぞ」
「はい」
「今お前には何が見えている? できるだけ正確に、見えてる物を言ってくれ」
「は、はい、えーっと……」
ファレナはキョロキョロと周りを見まわしている。この光景を形容できる言葉を探しているのだろうか。うーんと唸り、言葉を一つずつ発していく。
「赤い、絨毯。白い扉と、大きなシャンデリア、えっと、階段。螺旋階段が……いっぱいあります。上から下までいっぱい」
「わかった。もういい。ちなみに、俺はその螺旋階段。見えない」
「へっ?」
答えが見える。きっと一人でここに立ち入っていては、それは見えなかっただろう。
彼はナイフを取り出した。その本数両手合わせて10本以上。それを流れるように周囲に投げつける。
ナイフは遠く、彼方まで一瞬で消えていく。暗闇の中に、消えていく。
「ファレナ。これは迷宮のようで迷宮ではない。捕らわれたのは肉体ではなく、その視界と、記憶」
「は、はい」
「お前は見たか? ここに来る前、夢を」
「いいえ? なんですそれ」
「そうか、ならばやはり捉えられるのは夢に心がある者だけ。いいかファレナ。俺は階段は見えているが、上へ行く階段は無いんだ。常に下にしか行けない。上に階段はあるが、あれは上に登るためのものじゃない」
「そ、そうなんです?」
「塔は上に登れるものだ。なのにそれが無い。いいか、俺はたぶん、君よりも深く術式にかかっている」
「はい」
「だから君が見つけるんだ。この術式の中心、君だけで見つけてくれ」
「はい……ってええ!? ちょっと待ってください! 私がですか!?」
「頼む。君しかできないことだ」
「えぇ……うーん……やりますと言いたいですけど、やり方がわからないですよ……」
「ナイフを投げた。適当にだが、全方位に20本投げておいた。たぶん、どれかは何かに突き刺さっている」
「は、はぁ……」
「いいか、君の見ている光景はたぶん、現実と幻が混ざっている。違和感しかない空間だろうが、そのどれかは、現実にあるものだ。俺が投げたナイフも同じ、現実にあるものだ」
「はい」
「ナイフが刺さっているのが現実にあるものだ。それを辿って進め。先へ進め。そうすれば、必ず術者が出てくる」
「え、ま、まさか、私にそれを殺せと?」
「できるならそうして欲しいが、できないだろう。君はこのナイフをその術者がいる空間のどこかに刺してくれ。それこそ足元に突き刺してくれても構わない」
「は、はい、え、何です、このちっちゃいナイフ」
「召喚の式が入っている魔道具だ。俺の血をこの柄の中に入れてある。これを刺して魔力を込めれば俺はそこににいける。魔力の込め方はハルネリアに教わったな?」
「はい、えっと、それだけでいいんです?」
「それだけでいい。術者の前に立てば、もう術式の中心はそこにあるようなものだ。この厄介な幻術、すぐに解除してみせる」
「……わかりましたジュナシアさん。私、行きます。がんばります。いつまでもジュナシアさんやセレニアさん、それにリーザさんに頼ってばかりじゃダメですものね!」
「妨害は無いとは思わないが、強くはないだろう。これほどの術式だ。展開しながら攻撃ができるほど余裕はないはずだ」
「はい! いざとなったらこの白い退魔の鎧で大丈夫です!」
「頼むファレナ」
「はい! 頑張ります!」
ジュナシアは笑いかける。ファレナはその顔を見て、少し頬を赤らめた後、一つ頷き、顔を上げてその階段のある空間を走り出した。
離れてみて分かるその光景。ジュナシアの眼からは真っ暗闇にしかみえないところを、彼女は迷わず走って行くのだ。
それを見届けると、彼はその場に座り込んだ。眼を瞑り、少しでも体力を温存しようと身体を休める。
迷宮を解除するために、ファレナは一人、先へと進んでいくのだった。




