第65話 君と歩く理想郷
歩いている。
歩き続けている。
光り輝く世界の中、輝く道を歩いている。
頬を撫でる風は、優しく、温かく、そして冷たい。
彼は歩いていた。黄金に輝く道を歩いていた。先の見えない道を歩いていた。
どこに向かっているのだろうか。どうして歩いているのだろうか。
足が止まらない。止め方がわからない。
歩く。歩き続ける。どこまでも、どこまでも、どこまでも。どこまで、も。
少しずつ、少しずつ、虚ろだった彼の頭は元へと戻っていく。戻る度に、頭の中に言葉が浮かんでくる。
何が起こった。ここはどこだ。自分はどうなった。
道は続いている。どこまでも、どこまでも。
道は、続いてきた。遥か彼方から、今まで。そして先まで。
彼は、ふと気配を感じて、横を見た。いつの間にか、彼のすぐ傍に一人の少女がいた。
彼女もまた、歩いている。前を見て、嬉しそうに微笑んで。
目線だけを、彼の方へ向けて、その綺麗な横顔を、少し傾けて。
そして少女は言葉を口にした。
「こんにちは。いい天気ですねジュナシアさん」
その言葉は、寸分たがわず彼女の物だった。ファレナ・ジル・ファレナの物だった。
声が耳に届いた瞬間に、彼の胸はどくんと大きく脈を打った。
「ふふ、そんなに驚かなくてもいいんですよ。ここはエリュシオンですからね」
その声も、その仕草も、その匂いも、消えたはずの彼女そのものだった。
思わず、眼が潤んだ。
「ふふふ、大丈夫ですよ。私はここにいますから」
彼は、手を伸ばしたい衝動に駆られた。ファレナを抱き寄せたい衝動に駆られた。
一度無くしたからこそ、想いは強くなる。だが、それでも、彼は手を出すことはしなかった。
二人は歩く。光り輝く道を歩く。どこまでも、どこまでも。
「あの、ずっと聞きたかったことがあるんですけど、いいですか?」
そういいながらファレナは顔を向けた。あまりにも綺麗な顔だったから、彼は何も言えなかった。
「どうして、私に光をくださったんですか?」
どうして――?
何故、あのようなことをしたのだろう。彼は自問する。
震える少女があまりにも哀れだと思ったから?
助けてやりたいと思ったから?
ただ何となく?
いろいろな答えが頭に浮かんでは消えた。全てがその通りで。全てが少し違ってて。
いろいろと考えて、しばらく唸って、彼は返答した。
「見て欲しいと、思ったから」
「何を、見て欲しいと思ったのですか?」
「いろんなものを」
空を見る。遥か彼方まで金色の空が広がっている。前を見る。道は延々と続き、地平の果てはぼやけて見えない。
左を見る。黄金の大地がどこまででも広がっている。
右を見る。微笑むファレナの顔がある。
道は、生。彼と、彼女だけがその道の上を歩いている。
「……俺を見て欲しいと思ったんだ」
「え?」
「君は、俺を見てなかった。いや、うん……そうだ。君は何も見てなかった。ただ、そこにいて。ただ、座ってて」
「はい」
「だから、何て言えばいいんだ。そんなの、殺せるわけないだろう? だから治してやった」
「えと……全然わからないんですけど」
「勘弁してくれ。うまく言葉にできないんだ」
「は、はぁ……わかりました」
不満そうに、口をとがらせてファレナは前を向く。足は止まらない。
「ファレナ」
「はい」
「この道は、どこまで続いているんだ?」
「どこまでも」
「どこまでも?」
「そう、どこまでも。あなたが望むならば、永遠に」
ファレナが笑った。それは楽しそうであり、優しそうであり、微笑ましくもあり、そして――
「ここはエリュシオン。魂の理想郷。本来であれば、人の心を持ったままくることはできない。人の身体をもったままくることはできない。でも、あなたは来てしまった。最初で最後の、例外」
冷たく、笑う。
「ジュナシアさん。何が欲しいですか? この世界はあなたの望む物全てを用意できます。あなたは、エリュシオンの王。魂のための世界において、あなたは唯一の生きた人だから。あなたは何でもできます」
「なんでも?」
「はい。なんでも。私のように、人の世界になくても目の前に出すことができます。そう、もういない人でも」
「そんなものに、意味などあるのか」
「どうでしょう? でも会いたかったでしょ? 私に会いたかったでしょう? あなたはわたしを求めているのでしょう? あなたが、わたしをつくったのでしょう?」
彼の身体を何かが走った。目の前のファレナの笑顔に、ファレナの姿をしたなにかの笑顔に、彼の肌が粟立った。
「あの時別れをあなたは告げて、そして私の望むがままに、送り出した。斬り刻まれて、砕けて、光となって消えていく私を見て、あなたは、何を思いましたか?」
その声は、確かに彼女の声だったが、それでも何かが違った。
甘かった。とろけそうなほどに甘かった。
「ええ、そうです。その通りです。偽物ですよ。ここにあるものは全部偽物。でも、どうです? 私の声、違いますか? 私の姿、違いますか? 触れてみますか? 私の身体。隅から隅まで、触れてみますか? いいですよ触れても。いいですよ。好きなだけ、抱いてもいいんですよ」
「やめろ」
「ええ、やめます。私はこんなことは言わない。でも……ふふ、ふふふ……でも、でも……もう、あなたはどこへもいけない」
ファレナは彼の前に立った。冷たく微笑みながら。そして彼女は、両手を広げる。
「もう、あなたは誰も殺さなくていい。心の中で、何度懺悔しましたか? もう、誰も殺さなくていいんです。あなたは、ここにいればいいんです」
「駄目だ。駄目だ。もう、たくさん殺した。自分のために、たくさん。だから、止まってはいけないんだ」
「いいんですよ。だって、ここはエリュシオンなんだから。殺した人も皆ここにいます。皆、みぃんな……殺したことは、もうなくなりました」
「馬鹿な。無くなりはしない。俺は、俺は咎人だ。どんなに綺麗ごとを言っても、俺は罪人だ。だから、だから行かないと」
「どこへ行くのですか?」
「皆を救う。まだ生きている。まだ生きてる人はいるんだ。無駄にしない。君の死を無駄にしない。母さんの死を無駄にしない。父さんの死を無駄にしない。俺が殺した全ての人の死を、無駄にしたくない」
「うん素晴らしいですね。いい意志です。さすがですジュナシアさん。でも、それって意味あるんですかね?」
「何だと?」
「ねぇ、ジュナシアさん。私思うんです。死んだ人って、結局、死んだままですよね。あなたが思う、例えば、平和な世界、ですかね。それを手にしたとしても、死んだ人は、そのままですよね。生き返ったりはしない。もちろん、感謝の言葉なんて発したりはしない」
「……当然だ」
「戦争の中で家族を失った人はこれからもずっと泣き続けるし、恋人を失った人はその喪失感を死ぬまで抱え続ける」
「……ああ」
「誰も救われないじゃないですか。ねぇ知ってますか? 私たちが解放した人々の中にも、死にたいと思ってる人が少なからずいることを。ねぇ、知ってますか?」
「それは……想像はつくが……」
「ねぇ、救えますか? 大事な人を失った人たちを。死んでしまった人たちを。ねぇ、あなたはその剣で、あの人たちを全て救えますか? 皆を、救えますか?」
「それは……」
「ここにいれば救われる。ジュナシアさん、見てください。あれ、見覚えありませんか?」
「あれ?」
ファレナが顔を向ける方向を、彼は見る。光輝く道の奥を、彼は見る。そして気づく。
いつの間にか、自分の立っている場所が分かれ道になっていた。左は先ほどと同じ、延々と続く長い長い道。
逆側、右の道。そこには、一軒の家が建っていた。木で組まれた、大きめの家――屋敷と呼んだ方がいいだろうか。
小さな庭に、女性が座り込んで花の根に水を与えている。やりすぎないように、ゆっくりと、じっくりと、手探りで。
「イザリア?」
それは、彼がよく知るイザリアそのものだった。小さな花を苦労して立てて、苦労して育てている。使用人の服が、土で汚れている。
そしてそのすぐ傍。イザリアの背に立つ者。つまらなそうに短剣を片手でくるくると回してイザリアの姿を見ている者。
彼の母親。
「母さんまで……ファレナ、どういう……あ」
それだけじゃなかった。そこには、皆がいた。一軒だけだと思った家は、気がつけば数十の数に増えていて。いろんな人が、そこで暮らしていた。
光しかなかった世界に土が生まれていた。空が生まれていた。空気が生まれていた。
そこは、村だった。小さな村だった。彼のよく知る村だった。
子供たちが走っている。使用人たちが農作物を抱え歩いている。
そして村の中央、岩の上。胡坐を組んで微笑ましく村人を見るひとりの男。彼の父親。
「全てが、あります」
ファレナが言った。ファレナの形をしたエリュシオンが言った。
「あなたが失った全てが、この先にはあります」
ファレナの口調で、エリュシオンは彼を誘う。
「大好きな母。尊敬する父。初恋の相手。愛しい人。そして、あなたがこれから築くであろう、家族すらも、あそこにはあります」
小さな赤ん坊を抱えるセレニアがいる。直感で、彼にはそれが自分の子であることが分かった。
「村だけじゃない。遠く、そうヴェルーナの地も、ロンゴアドの地も、世界中全てが、あそこにはあります。全ての場所で、人が暮らし、人が笑い、人が生きています。ええ、そうですよ。偽物ですよ。虚像ですよ。でも……でも、あるんですよ?」
いつの間にか、ファレナの顔は彼の真横に来ていて。優しい声で、愛しい声で、それは誘う。理想郷を見せて。夢を見せて。ゆめをみせて。
「あなたが失った家族が皆います。大丈夫です。みぃんな、あなたの知っている通りの人たちです。ふふ、ふふふ。ねぇ、ここで永遠に過ごせますよジュナシアさん。永遠です。もう、誰も死にません。誰も、あなたを置いていきません」
その言葉があまりにも優しいから、彼の眼にはいつの間にか涙が流れていた。進めば、あの場所へ進めば、忘れかけている母の声が聴ける。父の声が聞ける。失った村人の声が聞ける。
あそこにあるのは、幻想。全てを失わなかった今。だがそれでも、それはそこにある。
「さぁ、行きましょう? 私と一緒にいきましょう? 大丈夫、私もいます。もう消えません。もう、離れません。ふふ、ふふふふ……ははははは!」
――ああ。
「違う……違う。やっぱり、違う。知っていた。これがあることは知っていた。違うんだファレナ。違うんだ月光の……エリュシオン」
「……違う?」
「くそ、違うんだ。確かに、ああ確かに、幸せだ。あそこに行けば、あそこにいれば、どれだけ救われるか。行きたい。行きたいさ。くそ、涙が止まらない。母さんの胸に飛び込みたい。父さんに文句を言いたい。イザリアを抱きしめたい。セレニアと子を愛でたい」
「していいんですよ?」
「駄目だ。違うんだ。あそこには、魂すらない。何もない。何もないんだ。やっぱりだ、やっぱりそうだった。魂の座だと、人の理想郷だと、違う。違う違う! 違う!」
「ふ、ふふ」
「お前は違う。エリュシオンではない」
「そう……その通り。私は、月ほどの巨大でありながら、エリュシオンとして完成していない」
「お前は、魂の座ではない」
「そう。ここには人の魂など一つもない。あるのは、複製された魂のようなもの。それが私の、エリュシオンへ至る術だった。私はねジュナシア・アルスガンド。私の中に過去から今までの全ての人の魂と、記憶を複製し続けた」
「膨大な、量」
「そう、膨大だ。私は私の中に魂の複製品を創り続けた。君も知ってるかな。ファレナ・ユネシア。彼女が自らの子宮の中で自分を創ったのと似たようなことを、私はしたのだよ。まぁ、肉体は不要だったから創ってないがね」
「どこまで侮辱を……」
「それはね、月となった今もやめていない。まぁ今喋ってる私も、私の複製だがね、膨大な魂の複製品すべての人の魂が私の中にあるのとそうは変わらないはずだ。どうです? ちゃんとファレナ・ジル・ファレナでしょ? ふふふ」
「俺が殺した全ての人を、俺が生かせれなかった全ての人を、お前は侮辱した。報いを受けろ月光のエリュシオン。報いを受けろ、偽物」
「君は私よりも不完全なエリュシオンだ。私を滅ぼすには、私と同じ存在になる必要がある。つまりは、魂をその身に宿す必要がある。ふふふ、全ての人の魂だ。もう消えて、エリュシオンに飲まれてしまってる魂だ。どうする漆黒のエリュシオン。どうしますかジュナシアさん?」
「黙れ。それ以上ファレナを汚すな。ファレナ・ユネシアを汚すな。偽物の魂だと? お前と一緒にするなよ。あいつが創ったものは、複製品ではない」
「ふふふ……あはははは!」
「奇跡はすでにあった。そうだ、ファレナ、君が生まれたことが、証明だった。そうだ、エリュシオンはもうあるんだ。すぐ傍にあるんだ」
「……は?」
「アズガルズ、一万年。届いたよ。ついに届いたんだ。ああ、そうだ。もうあったんだ。もうそこは、エリュシオンだったんだ」
「何を言ってるんだ?」
「人をなめるな月光のエリュシオン。人は生きているから前に進む。見せてやる。お前がたどり着けなかった、エリュシオンに」
「――は?」
「母さん、父さん、俺の存在と、ファレナ、君の存在が、俺に見つけさせてくれた。さぁ、見ていけ。そして消えていけ。最後に言おう。月光のエリュシオンよ」
――報いを受けろ。




