第64話 月光のエリュシオン
輝き吹き荒ぶ魔力の渦の中心に、旗が立っていた。舞う白百合の花の中心に、旗が立っていた。
風に揺れる赤い旗。白い翼が描かれたそれは、空からの光を受けてそこに輝いていた。
旗の根には真っ白な少女がいた。心臓を貫かれ、満足そうに息絶えている彼女は、地面を血で赤く染めている。
白百合は染まることはなく、地面だけを赤く染めていく。血の上に咲く白い花。それは彼女の人生そのものだった。
満足そうに、嬉しそうに、死に絶えた彼女の顔。揺れて壊れる世界の中、そこだけは時が止まったかのようで。
綺麗だった。間違いなくそれは、綺麗だった。
人は死ぬ。いつかは死ぬ。誰でも死ぬ。
だがこれほどまでに美しく死ねた者はいただろうか。これほどまでに綺麗な死体はあっただろうか。
世界は揺れる。世界は壊れる。アズガルズの大地は、空に浮いているからか地の揺れを感じることはない。
世界は揺れる。
壊れる前に、必死に揺れる。
「止まってない……?」
月は止まらない。
全ては壊れ続けている。
もはや月は人の手を離れた。
もう月光のエリュシオンは止まらない。
揺れる。空高く、まだ空高くにいるはずの月から溢れる魔力の奔流が、世界を揺らす。
「僕たちは、間に合わなかったのですか」
ランフィードが問いかける。淡々と、極めて心を落ち着かせて。
皆が見上げる。空を見上げる。
巨大な月に昇る白い光を見る。
――さぁ、じっくりと味わっていくといい。
――これを逃せば、きっともう二度と、見ることができないだろう。
――そう、これが、これこそが
――人のための理想郷である。
いつからそれはそこにいたのだろうか。
巨大だった。あまりにも巨大だった。
距離感がおかしくなる。ただただ、巨大。ただただ、壮大。
巨大な二本の腕。巨大な二本の足。巨大な胴体。巨大な頭。
生える翼は、遥か彼方まで。あまりにも巨大すぎて、大きさが距離となっていた。
空を昇る白い翼の彼はそれから比べればあまりにも小さい。
彼が挑むそれは、正しく人の歴史そのもの。
彼が対峙するは世界の果て。人の理想郷。魂の座。
全ての人の行きつく先、輝ける『月光のエリュシオン』
星の外で、それは雄大に手を広げる。全てをその身に受け入れて、それはそこに存在する。
過去から現在、生きた全ての人がそこにはいる。
安らぎを、ただ安らぎを。
否定する者は、決して許さない。
さぁ――
「ウゥゥゥゥ……」
大きく唸る月の魔物。唸り声は、全てを揺らす。
赤い眼で、真っ直ぐにそれを見るジュナシア・アルスガンド。純白の身体に太陽の光を写し、彼は月の前に立つ。
腕を広げる。これ以上はいかさないと言わんばかりに。彼はその背に星の息吹を感じる。
人が、生きていた。
今まで何人もの人が生きていた。
彼の背にした星の中で、生きてきた。
人は、決して素晴らしい生命ではない。
人は全てを殺し、人は人を殺す。決して人という存在は素晴らしいものではない。
だが、終わらせてはいけない。
愛しい人がいる。親しい人がいる。愛しい人がいた。親しい人がいた。
だから、終わらせてはいけない。
さぁ、これを壊そう。巨大な人の成れの果てを壊そう。
月を壊そう。
全ては、未来のために。全ての者達の未来のために。
さぁ――――
「報いを。全ての人の報いを受けろ。エリュシオンよ」
彼は飛んだ。真っ直ぐに飛んだ。月に向かって飛んだ。
その体格の差など関係ない。彼は剣を握り、月を斬り裂かんと飛んだ。
黄金に輝く腕が伸びる。月のエリュシオンは、彼を捕まえんと腕を伸ばした。
その腕を、山のような腕を躱して、彼は腕に沿って飛んだ。
腕を昇るように、飛んでいった。そのまま、飛んで月を――――
「それで」
声が、聞こえた。
「お前はどうなんだ?」
声。
「お前は何人も人を殺した」
男の声。
「お前は何人も人を不幸にした」
女の声。
「お前は何人も泣かせた」
子供の声。
「お前は何人も壊した」
老人の声。
「人は、醜い」
老婆の声。
「人は、汚い」
赤ん坊の声。
「お前は悪くない」
母親の声。
「でも許されない」
父親の声。
「報いを受けろ」
自分の声――
「え? 本当にあなた一人でどうにかできると思ったのですか?」
ファレナのこえ――――
彼は爆ぜた。黄金の腕の上を飛んでいた彼は、そのまま爆ぜて四散した。
腕が千切れ、足が千切れ、首が千切れ、翼が千切れ。
細かく、細かく、細かく。
彼は光の粒となった。一つの欠片も残さずに、ジュナシア・アルスガンドは消え去った。
月はあまりにも巨大。人は、その前ではあまりにも小さい。
だから、彼は消えた。より小さく、より小さく、より小さく。そのエリュシオンに飲み込まれて、純白のエリュシオンという理想郷は消えた。
声も、何も出せなかった。
剣を振ることも、何もできなかった。
当然だ。当たり前だ。必然だ。
だって、大きいんだから。その理想郷は、全ての人の理想郷なんだから。
だから、消える。触れれば消える。小さな世界は大きな世界の一部になる。
「だからさ、外に出すしかなかったんだよ。わかったかな? ジュナシア・アルスガンド」
久遠の救いを。
魂に久遠の眠りを。
さぁ、邪魔者はいなくなった。救いを与えに行こう。星に降りよう。人々を救うために。
月光のエリュシオンは進む。人々の前に舞い降りるために。月は進む。
空しく輝くそれに、意志はない。ただ降りて、ただ迎え入れるだけ。安らかな眠りを全ての人に。理想の世界を全ての人に。
もう何も考えなくていい。
もう何もしなくていい。
ただ、眠り続ければいい。
それが世界の終わりだと言うのならば、終わりを与えよう。
全ての人に、終わりを与えよう。
魔の果てはこんなにも、美しくて安らかなのだ。さぁ、塵に還るがいい。芥に還るがいい。それこそが、救いである。
月は舞う。神は舞う。全ての救いは舞う。
月光の下に。人は今、終わりを迎える――――




