第61話 ファレナ・ジル・ファレナ
吹き荒ぶ風は木を薙ぎ払い、人を飛ばし、建物を破壊する。
巨大な津波が海岸に押し寄せる。それは木を土を押し流し、濁流となって全てを押し流す。
大地は揺れ、地は裂け、上にあった物を次々と飲み込んでいく。
ありとあらゆる天災が降り注ぐ大地。この光景こそ天変地異と呼ぶにふさわしい。
巨大な月はその魔力の奔流と、そのものの質量によって世界を揺らす。それは足掻き。最後の足掻き。世界がエリュシオンになる前の、最後の足掻き。
世界は身をよじり、もがき苦しむ。今を変えたくないと、抵抗する。人々はもはや何もできない。震え身を寄せ合い、そして死んでいく。それ以外に何も、何もできない。
違う。
「魔法障壁! ほらあなた達も! 世界最強のファレナ騎士団でしょうが! しっかりしなさい!」
激が飛ぶ。魔法師ラナ・レタリアがファレナ王国の王城前で魔法師たちを整列させ、叫んでいる。
魔法師たちは皆思い思いの方法で防御壁を出す。風を雷を、払うために。
王都には近くの村から集められた人たちがいた。避難に時間は無かった。故に人たちの人数はそうは多くは無かったが、それでも彼らは守るべき人だった。。
せめて、最後は人を守り続けたい。そこにいる全ての魔法師たちがそう思った。そこにいた全ての兵たちがそう思った。
少数の人を、数千人のファレナ騎士団兵士と、数百人のロンゴアド国兵と、数十人の魔法師と、その他、様々な兵たちが、人たちが守っていた。
それに意味があるのかどうかは、たぶん誰もわからない。数十人を守るために、1万近い人たちが帆走する。それに意味があるのかは、わからない。
きっと世界は終わるのだろう。きっとこのまま、人は滅びるのだろう。
疑う者は誰もいない。だがそれでも、少なくともそこにいる者達は諦めてはいなかった。
丘の上で、巨大な魔法障壁を眼の前に展開し、ゆっくりと空を見上げる赤髪の女王。遠く、北の空を見て、遠く、月の形を見て、女王は小さく溜息をつき、そして言葉を口にした。
「理想郷。安息の地エリュシオン。何とも、禍々しいものだな。何とも、恐ろしいものだ、な」
死ねば天へ魂は昇り、身体は地に還り、永遠の眠りの中、人は夢を見る。
光の夢を見る。
無の奥に、無限があり、夢幻がある。
だが、現実はなくなる。幻はどこまでいっても、幻。
だから、決してそれは救いではない。
死ぬことが救いになることはあり得ない。
だから、決してそれは許されない。
許すことはできない。
夢は夢のまま、微睡の奥で、ただ見ることができるならば、それでいい。
だから、これは――――
「あの月を呼んでいるのは、私。ファレナ・ユネシアという一人の人間。これを止めるには、この世界に存在するその一人を滅ぼさなければ、なりません」
理解はしていた。
「つまりこの世界を救うためには、ファレナという人間がいてはいけないのです」
誰よりも理解はしていた。
「どうか、許可を。あなたの力をください。私を消すために」
彼の背で、彼女は白い手を伸ばし笑っている。いつもと変わらない笑顔、いつもと変わらない口調。
どうしてそんな風にできるのかと、彼は思った。そしてすぐに、その答えに気付いた。
「たった1年ほどですが、いろんなことがありましたね。いろんなお話をしました。いろんな物を見ました。いろいろ……いろいろありました」
彼は振り返ることができない。彼が彼女を救い出したのは、こんなところへ連れてくるためではなかった。
「17年、瞼を開けてもそこは闇の中でした。覚えてるのは声と、ベッドの感触だけ。起きて、声に言葉を返して、食事を口に入れていただいて、そして眠る。延々と、それの繰り返し。でも、この1年は、違いました」
何故助けたのか、彼は考えた。たぶんそれは、死ぬ間際に母親に向かって伸ばした手が、あまりにも哀れだったから。あまりにも見たくなかったから。たぶんそれは、いや間違いなく――自分のためにやったことだった。
「青い空。緑色の草。茶色い樹。石の建物。歩いて、触れて、視て、見て……楽しかった。すごく楽しかったです。光の世界は、こんなにも綺麗なんだって。光の世界は、こんなにも楽しいんだって。だから、感謝しています。心の底から感謝しています。あなたに、感謝しています」
でも、彼女は感謝の言葉を告げる。何度も、何度も、何度も。
笑っている。美しく、優しく、可愛らしく、その顔が、何よりも尊いと思ったから、彼は振り向かず言葉を発することもせず。ただ立っていた。
「十分です。私は、十分に楽しみました。十分に幸せでした。まるでこの世界は夢のよう。私がどんなに想像しても、想像しきれなかったこの世界は、本当に夢のよう。私は、この世界が大好きです」
違う。
それだけが幸せではない。
だからその選択は、してはいけない。
「私は、世界を救います。こんなにきれいな世界なんですもの。守れるのならばそれは、とてもとても、素晴らしいことだなって思います。こんなに綺麗で美しい世界なんですもの。終わらせちゃ駄目です。駄目ですよね」
彼の頬を伝う暖かな物。母を右手で刺し貫いた時から、一切流すことは無かった涙。何年かぶりに流れたそれは、彼の心を揺らす。
こんな結末を与えてしまうぐらいならば、あそこで死なせるべきだったのではないかと、彼は思った。
そんなわけはないと、すぐに彼は思い直した。
結局、結局は、誰も止めることなどできないのだ。彼自身、その選択をしなければならないと思っているから。もう誰も止められないのだ。
「……私の人生は、あなたたちから見ればすごく短いものに見えたのだろうと思います。でも、ジュナシアさん。あなたがくれた光の世界は、私のそれまでの17年の生よりも長い生となりました」
「そんなに楽しかったか?」
「はい」
「そんなに幸せだったか?」
「はい」
「そうか。ああ、ならよかった。助けた甲斐があった」
「はい」
もう、覚悟などという問題ではない。心の準備など、一生出来やしない。
だから、彼は言った。もう二度と言えないのならばと、ここで言った。
「名前をありがとうファレナ。俺は、君のおかげで救われた」
「はい、どういたしまして」
「許可する。アルスガンド、ジュナシア・アルスガンド」
「……はい」
それは、死の宣告そのもの。
旗が赤く輝く。強く強く、輝く。
ファレナは歩く。彼の背を超えて。追いかけていたジュナシア・アルスガンドの背を超えて。
ファレナの手を引く者はもういない。彼女の前を歩く者はもういない。彼女の横を歩く者はもういない。
全ては、過去。
全ては、夢。
彼女にとって夢のようだった世界を守るため、彼女は自分の未来を捨てる。
正しくそれは、救世の主と呼ぶにふさわしい姿だろう。
もう二度と届かない白き姫の背。もう二度とその手を掴むことは無い。
ジュナシア・アルスガンドは涙を流しながらその背を見ていた。両手の赤と青の剣が月の光を受けて輝く。
ファレナ・ジル・ファレナは一人歩く。自分と同じファレナの下へ。赤い旗を片手に。
「そんなに、人が好きなのファレナ」
「はい」
「そんなに、世界が守りたいのファレナ」
「はい」
「そんなに、私を殺したいの、『私』」
「はい」
「だったら、一人で死になさい」
ファレナ・ユネシアは赤い槍を地面に突き刺した。それは地面の中で数十本の槍に分裂し、曲がり、ファレナ・ジル・ファレナの足元から飛び出した。
数十本の槍が、ファレナ・ジル・ファレナを貫く。足を腕を、胸を心臓を、首を喉を、頭を――
――もう、痛みは無い。
「え、死なない? 何で?」
――もう、言葉はいらない。
「忌々しい……作り物のくせに!」
――刺さった無数の槍が爆発した。身体が四散している。
――もう、身体の機能はいらない。
「魔力の流れが止まらない? まさか、この量、まさか……!?」
――もう、私はいらない。
「ヴェルーナ・アポクリファ! こんなものを私に持たせるなんて! どこまであいつらは! あいつらはぁぁぁぁ!」
――もう逃げられない。気づいた時には、手遅れ。
旗が輝いた。強く、強く輝いた。
旗から出た光は、真っ白い光。全てを飲み込む光。不思議とそれは、とても美しい色をしていた。
まるで花のように、輝き広がる純白の光。それは、どこまでもどこまでも、赤い丘の果てまで、ファレナ・ユネシアの心の果てまで広がって行く。
白かった。ただただ白かった。
白く輝く光の中で、彼らは確かに見た。ファレナ・ジル・ファレナの姿を。笑う彼女の姿を。
そして聞こえた。透き通るような声が。彼女の声が。
「ありがとうございました皆さん。本当に、本当にありがとうございました」




