第60話 白くて白い少女のために
覚悟できていたと、言えるのならばそれはどれほど救われたか。
それは皆、わかっていた。気づいていた。そうなって欲しくないから、見なかった。
それしかなかったと言えば救われるのか。いや、それは、きっと違う。
だが言わずにはいられない。
『それしかなかった』と。
全ては血の丘の上で。彼らは前へと進む。終焉を告げる赤色の皇女を殺すために。
死が救いならば、どれほどよかったか。
消えることが救いならば、どれほどよかったか。
至る今を。輝く今を。真っ直ぐに見て、観て、視て。
そしてきっとそこにいる者は忘れない。今を忘れない。今までを忘れない。
救いは誰のために。
「リーザさん! リーザさんの旗を!」
「き、期待しないでくださいよ! 昔から私、こう、土壇場だとろくなことがないんですから! 爆発とかしたらすみません! リーザ・バートナー、血の使用を許可します!」
「リーザさんがいて、私は友達の意味を知りました……ありがとうございます。第三の解放はリーザ・バートナー」
第三の解放は、最後まで彼女を守った騎士リーザ・バートナー。溢れんばかりの才に恵まれながらも、決してその力を自分のために使わなかった者。
故に、それで解放されるのは、守護。仲間を守る力。
その場にいる全員の身体を光が包み込んだ。それはファレナが旗に宿る防御障壁と同じもの。全ての魔を退け、全ての攻撃を防ぐ、絶対防御。
ファレナが自らの防御ならば、リーザの能力は他者の防御。人を守る。それを貫き通したリーザの血の能力は正に騎士そのものだった。
防御障壁を身に纏い、その者たちは走る。眼に前に迫るは赤い兵。首のない兵もいる。骨だけになった兵もいる。内臓が飛び出た兵も、腕がない兵も、足がない兵も――五体満足な兵は一人もいない。
それは、ファレナ・ユネシアのために死んでいった者達。十人、百人、千人。眼前を埋め尽くすほどの兵の数。
そのど真ん中を、彼らは進む。身体に纏った障壁で兵たちをかき分けて、時に剣を、時に魔法を使って。次々と、次々とその過去を消し去っていく。
「忌々しい……忌々しい……!」
悔しそうに、苦しそうに、ファレナ・ユネシアは兵の海の奥に立つ。血の丘は彼女の心。そこにある全ては彼女の心。故にそれを壊されるということは、それを蹂躙されるということは、最高の否定。
「ハルネリアさん! 旗を!」
「あなた、それの意味がわかってるのね? 本当にわかってるのね?」
「わかってますハルネリアさん! だから、ください! 私に最後をください!」
「ああ……私、本当に悪者ね。血の使用を許可します。ハル……いいえ、シルフィナ・ヴェルーナ・アポクリファ」
「最後まで、ありがとうございました。本当に、あなたがいなければ私はここまでこれませんでした。第四の解放はシルフィナ・ヴェルーナ・アポクリファ」
第四の解放は、ヴェルーナ女王国第一王女にして世界屈指の魔術師殺しとなったシルフィナ・ヴェルーナ・アポクリファ。彼女は常に、過去に捕らわれたまま生きてきた。
簡単に消せるはずの腹部の傷。消せば失う、子を宿したという事実。だから残した。自我を失わないために。夢を失わないために。
救われた今も、彼女の腹部には一本の傷が残っている。子宮があった場所の真上。最後まで閉じなかったその場所。だからこそ彼女の人生に、血に宿った力は、生誕の力なのだ。
生まれ出るは魂の力。すなわち魔力。その力はリーザの力に乗ってその場にいる者全てに及ぶ。
その場にいる者全員、急激に身体が回復していくのを理解した。魔力が回復していくのを理解した。
魔力を得たことで先頭を行くジュナシア・アルスガンドがエリュシオンの魔者になる。その脇にいたセレニアがその場から消える。
全ては圧縮される。迫る大量の血の兵は、一瞬にして砕け散り血しぶきだけの存在となって消えていった。
次々と生まれる赤い兵士。生まれた端から砕け散っていく兵士。時間の概念などなく、速さの概念などなく、もはや誰も彼らを止めることができない。
「全くもう……うまくいかないものね……!」
そう呟いて、ファレナ・ユネシアは両手をあげた。現れたのは、巨大な城。
それに見覚えがあった。それは、ファレナ王国が王城。立ちふさがる巨大な城壁は、今かの国に存在する物よりも大きく、高く、そして赤い。
血の王城。
「マディーネさん!」
「はい! どうか、どうか救ってくださいこの世界を! あなたならできます!」
「マディーネさん! 本当はハルネリアさんが大好きなんですよね! すごく好きなんですよね!」
「はい! あの人は私のお母さんです! 魔術師だった両親を殺したとしても! 私はあの人が大好きです! 育ててくれたあの人が大好きです! お母さんのお嫁さんになりたいんです!」
「あ、いや……そ、そっちですか? が、頑張ってください!」
「はい! 血の解放を許可します! マディーネ・ローヘン!」
「ありがとうございます。あの、楽しかったです。マディーネさんがいて、楽しかったです。第五の解放は、マディーネ・ローヘン」
第五の解放は、他者の命を喰らって生きていた魔術師の子、マディーネ・ローヘン。幼子を手にかけなかったことで我が子を失ったハルネリアが得た、彼女の子供。
厳しく、優しく、失ったものを取り戻すかのように育てたその子供。ハルネリアは思った。もしその子が、復讐を選んで自分を殺したとしたら、それは自分にとっては救いになるかもしれないと。
だがマディーネは一切の憎しみなど持たなかった。彼女が愛する母親に、憎しみなど持つわけがなかった。
歪みに、絡まり続ける彼女の愛。絡まったまま真っ直ぐに伸びたそれは、愛しさと恋心が入り混じって。
故に彼女の血が持つ力は、代替。代わりなどいないからこそ、代わりになれる。唯一無二の、代替品。
漆黒のエリュシオンと化したジュナシアの肩にハルネリアの手が置かれた。流れ出るは圧倒的魔力。ファレナの旗の力で、デメリットなく自らの力を他者の力に渡せることができる。自らの力の代わりを、他者の力で代用することができる。
より強い魔力で刻印の枷を外す。漆黒のエリュシオンの背の、赤い翼が更に二枚増えた。
低く、低く、唸り叫ぶ漆黒のエリュシオン。彼の放った魔力の弾は、目の前の赤いファレナ城を一瞬で蒸発させた。
爆風が周囲に吹き荒れる。城は消え、赤い丘へと戻る。
「ああ……こんな時に……ああ、疼くわ……ふ、ふふふ……ひひひ……」
赤い丘の上で、自虐的に笑うはファレナ・ユネシア。この世界は彼女の心。砕け壊れるのは、彼女の心。
そして現れたのは杖を持った一人の老人だった。老人が地面を叩くと、何体もの巨大な石の巨像が現れた。
老人は、笑顔で前を向く。現れた石の巨像は、両手を開き地面を揺らしながら走り寄る。力強く、力強く。
「ランフィード陛下! 旗に力を!」
「はい……実は、恥ずかしながら、私はあなたをただ守るべき者としてしか見てませんでした。しかし、あなたは言葉を発してくれた。私に、僕に、我が国を、世界を救えと言ってくれた。今へ来るために背を押してくれた」
「そんなことはありません。ランフィード陛下が、選んだんです。困難な道を進むことを」
「ありがとうございます。しかし、あなたが一言言ってくれなければ、僕は今ここにいなかった。ありがとうございます。よくぞ、ここまで来てくださいました。さぁ! 行ってください! 我が名はランフィード・ゼイ・ロンゴアド! 我が力を君に!」
「ありがとうございます。本当に……ありがとうございます。あなたがいてくれて、本当に力強かったです。第六の解放は、ランフィード・ゼイ・ロンゴアド」
第六の解放は、ロンゴアド国が現国王ランフィード・ゼイ・ロンゴアド。世界で最も若き王は、全てにおいて恵まれていた。
しかし、彼はそれに溺れたことは一度もない。王族として、誰よりも模範であれ。誰よりも強くあれ。誰よりも勇敢であれ。彼の人生は、自戒の人生だった。
心も、身体も、強くならなければならない。誰よりも強く、鮮烈に、王とはそういうもの。
彼が持つ力は強化。自らを鍛え続けた彼の人生。強くならないわけがない。
巨大な石像は腕を振り下ろした。それを受け止めたのはセレニアの細い腕。
小さな短剣を片手に、普通であれば押しつぶされてしまうのは確実なのに、彼女は巨像の腕を受け止めていた。強化の力で、受け止めていた。
巨像を横合いから力任せに叩き壊すイザリアとリーザ。地響きを鳴らして倒れた巨像は、そのまま血の丘へと消えていった。
他の石像たちが前に出る。小走りに前に。前に。
「ふふ、その老人は魔術師が始祖。私の師。突破できて? ふふふ……ひひひ……」
ファレナ・ユネシアは笑う。老人は髭を擦りながら、微笑む。
心の中に現れた老人は、常に笑顔で。ファレナ・ユネシアは気づかない。彼女の心にいる老人が何故笑っているのかということに気づかない。哀しいかな、気づかない。
「イザリアさん!」
「思うんですが、私の血作り物なのですが、大丈夫なのでしょうか?」
「きっと大丈夫です。だって、オートマタの血は魂と繋がってますからね」
「そうですか。あの、私は、あなたのことをよく知りません。ですが、あなたが長様を想ってくださっていることは、わかります。長様も、気づいていませんが、きっと心のどこかでは……正直にいいます。妬けて仕方がありません。死ななければよかったと、何度思ったことか」
「えと、あの人は、イザリアさんにだけ、自分の身の回りを任せます。服を任せたり、身の回りを任せたり。あの人は、あなただけは自分から使います。あなたを見るあの人の眼は、優しくて、セレニアさんに見せる、親しさよりももっと、何というか、慣れてて……」
「あの人、人見知り激しいんです」
「大丈夫です。あの人は、あなたを大切に思ってくれてます。そうじゃなかったら、あんなに優しい顔になりませんよ。妬けるって、私の方ですよ。だって、あの人、私には……ううん、もう、いいですね」
「……ええ。私からは、もう何も言えません。ですがありがとうございます。作り物の心ですが、救われた気がしました。血の使用を許可します。銘は……いいえ、名はイザリア」
「ありがとうございます。どうか、頼みます。あの人を頼みます。第七の解放、イザリア」
第七の解放は、一族屈指の才を誇りながらも、世界という凶刃に死したアルスガンドの戦士イザリア。
生まれ育ち、アルスガンドの子を支えることを義務付けられた彼女は、魂だけになっても、仮初の身体になっても、それでも尚、彼を支え続ける。
死すら断てない、彼女の生き様。ただただ実直に、愚直に愛し続けた彼女の人生は、正しく愛の人生。
故にその血の力は求愛。ひたすらに求める心。
セレニアは短剣を一本投げた。遠くに刺さるその短剣。周囲にいた巨大な石像はまるで操られたかのようにそれに惹きつけられる。
目の前の者達を殺すよりも、短剣の下へ行きたい。その姿は雌に釣られる雄のよう。
巨像が全て背を向けた。その背に、赤と青の双剣が刺さる。
まるでパンを斬り裂くかのように石の巨像は斬り裂かれていく。ランフィードが、リーザが、ハルネリアが、マディーネが、彼に続かんと巨像に襲い掛かり、次々とそれを破壊していく。
石が舞う。土が舞う。巨像が砕け散る。漆黒のエリュシオンは老人に襲い掛かる。
老人は杖を正面に翳し、巨大な魔術障壁を創り出した。エリュシオンと化したジュナシアの身体がそれにぶつかり止まった。
光の壁を貫かんとジュナシアが剣を繰り出す。光の壁はそれを止める。
「魔力では殺せない。その老人は、世界最高の魔術師。魔を止める方法、当然知ってる。エリュシオンの魔でも関係ないわ。ふふふ」
ファレナ・ユネシアが笑う。他人事のように、淡々と状況を説明しながら。
赤い丘から血が噴き出す。空を地を、赤く染めていく。
空に浮かぶ月は巨大で。もう手を伸ばせば届きそうで。
「セレニアさん! 力をください!」
「……いい、のか?」
「はい!」
「私は、わかるんだ。私たちだけには、わかるんだ。眼が、眼がさ。魔力の流れが見える眼なんだ。だから、わかるんだ。なぁ、いいのか? なぁ?」
「あ、えと……大丈夫、大丈夫です。だって、わかってましたから。こうなることはわかってましたから。うん、だから、いいんです」
「こんな……こんな、こんなことって……救われない。これじゃ救われない……!」
「私は、このために産まれたんです。このために生きてきたんです。セレニアさん。お願いします。行かせてください。大丈夫です。きっと大丈夫です」
「何が大丈夫だ! くそっ……くそっ! 望めば、もっと違う、最後もあった。望めば……何故こうなるんだ。何故……こんなのお前が救われない!」
「……セレニアさん。いいんです。私はたぶん、もう救われてます。あの人が光をくれてから、楽しいことばかりでした。本当に、本当に楽しい事ばかりでした。普通の人が一生かかっても経験できないようなことを、沢山経験できました」
「馬鹿が! お前にとってあんな、あんなに苦しい道が、楽しいわけあるか! もっとあるんだ、楽しいことが! 望めば……お前を、二番目の妻にさせてもいい……お前が望めば……!」
「嘘でも一番にしてくださいよそこは……ふふ、じゃあ、その、うん、帰ったら……帰れたら、そうしてくれますか? 取り下げ、無しですよ。だから、帰る場所、残しましょう?」
「う、ああ……くそっ……くそ……許可、する。私、セレニアが……」
「ありがとうございます。意外と、泣きますよねセレニアさんって。うんどうか、お幸せに。どうか、私の分まで……でも青い指輪は、まだちょっとお借りしますね。第八の解放は、セレニア」
第八の解放は、アルスガンドの長が最後に傍に置く者セレニア。
腹違いの姉であるイザリアとは違い才に恵まれなかった彼女は、ひたすらに彼の傍に立つべく鍛錬を行った。それこそ、死に物狂いで。
アルスガンドの長と、その妻に弟子入りし、命を削って技を高める毎日。全ては、彼の傍に立つために。全ては、姉を超えるために。
ただひたすらに上を見て、彼が最も信頼し、愛する人となったセレニアの人生。全ては自分のために。自分が愛する人がために。自分の希望のために。
セレニアが持つ血の力は成長。何もしなければ埋もれていた一人の少女の生は、自らの努力でついに最高点へと至った。
ジュナシアは刻印を解除した。老人が展開する障壁は、魔では突破できない。
純粋に、剣で。技で突破するしかない。
どんなにあがいても、どんなに願っても、それは不可能。魔力の流れが見えるとは言え、その流れを止める一点をつくのはあまりにも難しい。
だが、人は成長する。今は無理でも、鍛錬を続ければ、成長し続ければ、いつかは、いつかは。
その結果があるからこそ、彼は一瞬のうちにその魔術障壁の魔力の点を見切り、そこに青い剣を突き立てた。障壁はいとも簡単に砕け散った。
微笑む老人。ジュナシアは踏み込む。赤い剣を大きく振りかぶりながら。
そして老人の首は、真っ直ぐに真上に飛んだ。頭が無くなった老人の身体は静かにその場に膝をつき、倒れ、赤い丘へと消えていった。
全ての障害は消えた。その世界にいるのは、ファレナ・ユネシアただ一人。
勝敗は決しても、決着をつけなければならない。即ち、ファレナ・ユネシアを殺さなければならない。
月が迫る。もう残り時間はあとわずか。ファレナを殺さなければならない。
「ジュナシアさん」
背にかかる声に、身が震える。月を呼ぶ術式の起点は、赤色の皇女ファレナの魂。彼には、それが見えている。
見えているから、視たくない。振り返りたくない。
「力をください。私を殺す力をください」
ジュナシアの眼に浮かぶのは、ファレナの笑顔。何かを言うべきだった。何かを言わなければいけなかった。だが、言えなかった。
彼の口は、ある一つの言葉しか発することができなかったから。
行くなと、ただそれだけしか言えなかったから。
月は迫る。時間は迫る。人が終わる時が、刻一刻と迫ってくる。
世界が終わる。全てが終わる。だから、でも――――
彼は、言葉を発することができなかった。




