第59話 深淵へ至りし願いを
それは、多すぎる犠牲だった。
双方の兵が入り乱れて剣を槍を、繰り出している。盾も鎧もそこに至っては意味などない。
死んでいく。次々と死んでいく。一人の女のために死んでいく。
正面に現れた巨大な門。そこを守る巨大な人。常人の二倍の身長がある。常人の二倍の力がある。
剛腕から繰り出される戦斧の一撃で、五人の兵が砕け散った。血と肉と、内臓と骨と、全てが混ざった何かが四散する。
勝ちたいと願った人たちは、いつの間にか死にたくないと思うようになって。兵士たちは叫んだ。思い思いに叫んだ。勇敢に、悲壮に、哀愁に、愛憎に、様々な感情が叫びに乗せられ、血の戦場に響き渡った。
知らないはずの光景に、胸が震える。旗を片手に人を戦いに誘ったファレナ・ジル・ファレナは、その光景から眼が離せなかった。
「結局、私がやったことは人に死にに行けと言ったのと同じ。一人一人、家族もいたし、夢もあった。でも、私が殺した」
その声は、ファレナ・ジル・ファレナの声ではなかったが、ファレナという人の声ではあった。自分と同じ顔。自分と同じ身体。自分と同じ心。赤い鎧に身を包み、槍を片手に兵士たちの前に立つ彼女は、確かにファレナだった。
赤い女が振り返る。涙を流して振り返る。涙を流しながら笑って振り返る。
「私は勝った。あの巨体を持った男を、数十人掛かりで倒して、城門を魔術で突き破って、私は勝った。嘗て、この大陸の大半を支配していた国はこれで終わった。終わった後に残っていたのは、何だと思う? ねぇ私、アレは何でだったと思う?」
唐突に、世界が変わる。立っていたのは炎の中。石の建物の中で、炎に包まれていた。
周りにいたのは剣を持った兵士たち。皆憎しみに染まった表情で、ファレナを見る。存在自体を許せないと言った風な顔で。
兵士たちは走った。自分の鎧が炎に包まれ溶け落ちていくことも構わず、彼らは走った。主とした少女を殺すために。
旗を立てる。魔力を込める。ファレナの周りに防御陣ができる。
「あっ」
声が漏れた。兵士たちは防御陣に身体ごとぶつかり、一瞬で灰となって燃え尽きたから。魔術も、剣も、矢も、全てを弾くその防御障壁。生身で触れれば、当然のようにこうなる。
殺すつもりはなかったと言いたかったが、それは言ってはいけない気がした。
「まぁ酷い。でも安心して。これは生きてるわけじゃない。これは、悪夢。彼らは本来ならば、私の魔術で消滅している。うん、彼らは、裏切ったの。いや違うかな……裏切ったのは、私、なのかな。私は、国を治めなかった。だってまだ子供だったから。信頼できる人に、新しい国を任せた」
現れる王。煌びやかな衣装に深紅のマント、金色の王冠を身に着けた男は、恐怖に顔を引きつらせていた。
男が背を向け走ろうとする。ゆっくりと上がるファレナの手。彼女は感じていた。これは自分の手じゃない。これは、私の手じゃなくて、『私』の手であると。
業火は王を焼き、彼はしばらくのたうち回ったあと、煙を吐き死んだ。人が焼けた匂いが鼻に刺さった。
「私が任せた男は、小心者だった。自分が王となったことで、彼はその地位に固執した。力のある部下を何らかの理由をつけては殺し、彼の周りには彼を肯定する人しか置かなかった。私がそれでは駄目だと言ったことで、彼は私を殺そうとした。まぁ、返り討ちですけどね」
赤いファレナが黒く焼け落ちた王を踏みつけてそう言った。王だったモノは粉々に砕け、人の形を失った。
「私は、生きてる意味が分からなくなった。その国を創った意味がわからなくなった。だから私は旅に出た。世界中、いろんなところを見て回った。そして、見えた物は、人の果てだった」
周囲が茜色に染まる。夕日が全てを赤く染めている。
耳に飛び込んで来たのは叫び声。眼前に広がるは荒野。茜色の荒野。武装した集団が、町を襲っている。
転ぶ子供。その背を貫く槍。槍を持った男は、うっすらと笑みを浮かべている。
松明を片手に、いたる所に火を放つ男。する必要はないだろうに、わざわざ人がいる方へと火を向けて、人が焼け死ぬ姿を笑ってみている。
路地裏では逃げ遅れた女が殴られ、倒され、凌辱されている。
ここは地の獄。人の果て。ファレナの胸を襲ったのは、嫌悪感。
死んでもいい人たちだと、ファレナは思った。そんな風に思ってはいけないと、すぐさまそれを否定した。
「そして私は武器を持った者たちを皆殺した。躊躇なく、惨たらしく、片っ端から殺して殺して、殺し続けた。夕日が落ちきって、月が空に現れる頃にはそこには、誰もいなくなっていた」
月の下に、広がる赤い町。歩くたびにファレナの純白のスカートを血で濡らす。歩くたびに、足が地で濡れる。
べたべたと、べたべたと、靴の裏に着いた何かが歩くのを邪魔する。
「そして私は、また戦った。その町を救うために、その人たちを救うために」
繰り返し、繰り返し、ファレナを慕う人たちが目の前に現れては、その死にざまが浮かぶ。
頬に伝う涙はすで無く。血の水面に映った自分の顔は、酷く冷たい顔になっていて。
最初は、綺麗だった。
戦争がない世界があれば、それはとてもとても綺麗で、楽しくて、幸せで。
自分のような不幸な弱者を、作ってはいけない。強者に支配される世界などあってはいけない。命はもっと、重くて。人はもっと、生きるべきで。
涙を流すのは、少ない方がいい。
「でも、でもねファレナ。そんなこと、あり得ないのよ。皆が幸せに笑って暮らせる世界なんてありえないのよ。だって、だって……私はそれを手に入れる手段として、人を殺す道を選んだから」
死んだ人間は、もう笑わない。
幸せなど、死んだ後には訪れない。
あるのはただ、生きたという事実だけ。人は死では救われない。
「笑っているだけの人なんて、幸せになっているだけの人なんて、そんなのただの人形。だから、人は人である限り、決してすべての人が幸せになれる道を選べない。人はどうしようもなく、どうしようもなく、愚かで、醜くて……私は、人だった。だから、選べなかった。だから……選ばなかった」
笑うファレナ。泣くファレナ。どちらがどちらか、もはやわからない。自分ではわからない。
赤いファレナが手を伸ばした。綺麗な綺麗な白い手は、赤い血がべっとりとついていて。
白いファレナが手を伸ばした。綺麗な綺麗な白い手は、同じく真っ赤に染まっていて。
「だから、人は帰るべきなのよ。エリュシオンの彼方に。心と身体を捨てて、人は初めて救われる。それは、死じゃない。それは、生でもない。私が探し出した、最後の救い。さぁ『私』。手を出して。私の手を取って。この私の世界で、人が救われるのを待ちましょう。じっと待ちましょう。ね?」
優しい言葉だった。優しすぎる言葉だった。心が解けるほど、優しい言葉だった。
きっと、正しい。
その答えはきっと、正しい。
救いが微睡の中にあるというのならば、永遠に夢の世界で揺蕩うことはきっと、何よりも気持ちよくて、何よりも幸せで。
だからきっと、正しい。何もないことこそ、救いだというのならばそれは、正しい。
だから、手を伸ばす。だから、旗に力を籠める。
「お母様、お母様、お母様……やっぱり私は、お母様が大好きです。あなたが、酷いことをしているのは知っています。あなたが、世界にとって悪だということも知っています。ですが嫌いになれません。どうしても嫌いになれません」
「どうして?」
「だって、お母様しかありませんでしたから。私の、少なくともあの光を見るまでは、私にはお母様しかありませんでしたから。私は、お母様の声しか覚えていなかったですから。だから私は……私は『私』になったとしても、目の前にいる『私』をお母様と呼びます」
「おめでたい子。あなたは、私に殺されようとしたのよ?」
「それでも、私はあなたが大好きです」
両手で握る赤い旗。確かにこれは、血の色、それでもその中央にあるのは白い翼。
どんなに血で染まろうとも、決して染まらない純白の翼。
旗を持つファレナの手は真っ白だった。一つの血の染まりも、濁りもなく、真っ白だった。綺麗な綺麗な、手だった。
「だから、私はあなたを止めます。それがあなたを殺すことになるのならば、私は、あなたを殺します」
手は真っ赤に染まっても、決して身体は染まらない。心は染まらない。純白の王女は、ただただ純白で。
血の丘に一人。白き少女が立つ。光り輝く金色の髪を風に揺らして。
「できると思っているの?」
血の皇女が問いかける。身も心も真っ赤に染まった少女が問いかける。
「やってみせます」
旗が輝く。魔力の防御障壁が広がる。
「そんな防御壁で、私の魔力を抑えきれるの? ねぇ私、わかるでしょ?」
「わかります。私ですから、私は私のことなら全部分かります。でも、私は、私を、あまり知らないですよね。だってこの旗に染み込んだ血が、誰のものかよく知らないんですから」
「……誰のものか?」
旗が輝く。白く、赤く、青く。様々な色を放って、色を混ぜて、旗が輝く。
「これを染める血は、私たち九人の血。その中にはもちろん、あの方の血も入っています。あの方の、漆黒のエリュシオンと成ったあの方の、血も入っています」
「十戒? 十戒の旗? ヴェルーナ・アポクリファの、あの魔法使いが作った……まさか」
「私は、ただここに来ただけのお飾りではないんですよ。ねぇ、私、わかりますよね? 私と、この戦いにこれなかったボルクスさんの分の、力はすでに解放されてます。ねぇ、その意味、わかりますよね!?」
「忌々しい……結局最後に立ちふさがるのは、老人どもの呪いなのね……!」
飛びのくファレナ・ユネシア。片手にはいつの間にか槍が握られていて。くるりと空中で身を回転させ、遠く血の丘に彼女は立つ。
「第一から第二、血の解放の許可を与えます。ファレナ・ジル・ファレナ。ボルクス・ヴァンガード」
旗は、光に。ファレナが許可する力は絶対防御。城の中の一室でその人生のほとんどを過ごした彼女にとって、守られることは人生そのもの。
そして第二の力。ボルクスの、ロンゴアド兵団団長としての彼の生が旗に与えた力は、参陣。兵団を束ね、王の下に現れることを人生としていた彼にとってそれは、当たり前の力。
旗が輝く。周囲に光の柱が昇る。その数は7。負傷してこの場に来ることができない男を除いた解放者たちの数。
地の丘、少女の心の世界に、彼らは現れる。アルスガンドの長、ロンゴアド国王、アルスガンド最後の生き残り、機械仕掛けの暗殺者、世界最高の魔法師、その魔法師が弟子、純白の王女を守る騎士。
「私たちは解放者。お母様、あなたを解放します。この赤い世界から」
巨大な月が空に浮かぶ。ゆっくりとそれは大きさを増して、この地に降りようとしている。
もはや時間にして1時間足らずで世界は終わってしまうのだろう。結末は、あっけなく、時間とともに迫る。
終焉まで1時間。最期を止めるのは最後の抗い。少女は旗を翳した。いつかと同じように。
――――最期の解放の時、来る。




