第53話 終わりの先の救いを君に
全てがあった。富も名声も、地位も賞賛も、人が欲しいと思うであろうありとあらゆる物があった。
だがそんなものはどうでもよかった。よくなってしまった。
「何がしたかった?」
自問。答える者はいない。
「これでよかったのだ。本当に?」
自答、更に自問。疑問は晴れない。
「願いを叶えてやりたいと思ったことは、間違いではないはずだ。だが、これでよかったのか?」
答えが見つからない。
歩き続けた先に、無数の屍の先にあった今という場所。全ては終わった。終焉は来た。だがそれでも、胸に何かが残っている。
オディーナ・ベルトー42歳。世界で最も強い人間にして、世界で最も弱い人間。
演技でもなんでもよかった。ただ笑顔を向けて、言葉をかけてくれる。それだけでよかった。
傍に立ち、声を聞いて、意思を伝えあう。きっと、あの人が自分の心を語ったのは自分だけ。
それがたまらなく幸せで。それで心の底から満足して。触れたいとすら思わないほどに、愛しさを感じて。
全ては終わった。全ては叶った。きっと彼女は笑うだろう。高らかに笑うだろう。世界の中心で、壊れる人達を見ながら、アリア・セーラ・ファレナは笑うだろう。終焉を迎えて笑うだろう。
結局、結局は、終わりだけが彼女にとって救いなのだ。終われなかった彼女にとって、皆と一緒に終われることこそが救いなのだ。
終わりは来た。もう戻れない。今という時はただの余り。
今にはもう、意味がない。
「オディーナ。お前はもう終わった」
その通り。
「百の刻印はお前の身体を崩壊させる。気づいてるか? もうお前は、剣を握っていない」
その通り。急激に力が失われている。
「終わりだ。これで終わりだ。お前はもう、救世の声を聴けない。遠い昔にどこかの誰かが人に埋めた救世の刻印。そんなもの、俺たちが必死に守り続けてきた刻印に、勝てるわけがない。人は、アルスガンドを滅ぼすことができない」
砕け散ったはずの赤と青の剣が彼の手にある。あの剣は無形。持ち主の意思でいかようにも形を変える。無形だから、砕けるという形をとることもない。
そんな剣、卑怯ではないか。
「このまま死ねオディーナ。俺たちは先に進む。確かにお前は強かった。だが、俺たちが勝ったんだ。あとは……」
――ああ残念だ。
――伝えなければならない。
「お前たちに、人に、『あと』は無いのだアルスガンド」
すでに、終わっているのだから。
足が動く。まだ辛うじて。剣を握る力はもうないが、歩くことはできる。
ゆらゆらと、ゆらゆらと、オディーナは歩く。歩くたびに体の中の何かが切れる。
泡が弾けるように。一つずつ一つずつ、オディーナがオディーナとして存在するための、何かが切れる。
扉を押し、前を見る。ああ、ここは城の最上階。奥へ行けば王の間。途中の扉を開ければ、ファレナ王女が暗闇の中十数年過ごした部屋。その隣は王に据えられた名もなき魔術師が自分を呪い続けた部屋。
アリア王妃がファレナ王女に何かを話している声が聞こえる。本を読んでいるのか。いつもいつも同じ本で飽きないなと、思った。
歩く。壁に手を当てて。痛いと身体が言うよりも前に、頭が痛さを感じる。
歩く侍女たちの姿が見える。恐縮しているのか。自分に対しては誰一人笑顔を見せない。緊張した顔で、踵を合わして頭を下げてくる。美しい侍女に話しかけたい思いもあるのだが、これでは何も言えないではないか。
歩く。鎧が擦れる音がする。ああ、そういえば、この鎧に着いている赤いマント。正直戦闘には邪魔だと思う。騎士としては必要かもしれないが、時々身軽になってみたいと思う。アルスガンドのように。
酒瓶が転がっている。また誰か近衛兵が隠れて酒を飲んだのだろう。王族を守る兵としての矜持はないのだろうか。そんなことだから騎士と比べられるのだ。
歩く。幻想の中を歩く。現実の中を歩く。暗い。灯りなど一つもない。人など誰もいない。当然だ。城の中の人間は全て、自分が殺したのだから。
記憶の中の光景は、美しく誇らしく。煌びやかで楽しくて。だが今は、全てが過去。
「アリア様は……どうしようもなく人が嫌いなのだアルスガンド。家族を奪われ、故郷を蹂躙され、自己を凌辱され……人は争う。領地が欲しい。人が欲しい。相手が憎い。理由をつけては、剣を振る」
まだ見ぬモノを求めて。今を変えたくて。
歩けば歩くほどに、人は争いを振りまく。
「誇らしい騎士の物語。敵国を滅ぼし称賛される英雄たち。英雄たちの陰で泣くのは常に弱者。失い続けるのは常に弱者。弱いということは、罪なのか。だから裁かれるのか」
また、自問。知っている。自分は知っている。アルスガンドは自分の問いに決して答えないことを知っている。
何故なら、彼に問いかけていないことを知っているから。
「あの方の願いは、綺麗だった。失った過去を取り戻したい。ただそれだけだった。平和な、美しい世界を得るために、アリア様は立ち上がった。あの方の故郷を滅ぼした国を、完膚なきまでに蹂躙し。あの方を守れなかった自らの国を。その美貌で内側から滅ぼした」
戦いのない世界を創るためなら、どんなことでもした。
アリア・セーラ・ファレナはそう言っていた。どんなことでも、という言葉の中に、躊躇いの感情は微塵もなかった。
「現れたのは救世の主。アリア様は人を殺し過ぎた。魔術師の祖に師事し得たその魔術で、あの方は魔女となって暴れまわった。人を救うためではなく、ただ平和な世界を得るための殺人は、世界には認められなかった」
その時どんなに絶望しただろう。美しいと思っていたこの世界は、人の味方なのだ。大嫌いな人の。醜い人の。薄汚い人間たちの。
「だから、あの方は世界を壊すと決心した。アルスガンド。鍵を教えてやろう。鍵は三つ。アズガルズの大地。人の数。そして、『あの時』の状況」
終わりは、もう来ていた。
「アズガルズの大地は空に浮かんでいる。それは、鎖なのだ。エリュシオンをつなぎとめる鎖なのだ」
エリュシオンは魂の行き着く世界。安寧の世界。人が、失ってはいけない世界。
「人の数は増え続ける。全ての生物が人に置き換わるのも時間の問題だ。だが、人は人だけになっては生きていけないのだ。木々も肉も、全ては他の生物より得られる。故に全ての生命の中で人の数が過半数に達した時。人の種を救うために、世界は人の中にエリュシオンの魔物を作り数を減らす」
世界に埋まっていた3つのエリュシオンの魔物。真朱、青蒼、緑翠。全ては人を減らすために世界が選んだ救世の主。魔の果てに産まれたそれは、決して偶然ではないのだ。
「だが……ああ、お前は、例外だ。今の世は人の数は生物の数を超えていない。だから、例外だ」
絨毯が足に絡まる。足が止まる。目の前の扉を開ける。
目の前に広がる王座の間。誰もいない玉座の間。
「アズガルズは、その大地の上にいる全ての人間の犠牲の果てに、エリュシオンを繋ぎとめる鎖と化した。その鎖は、同じだけの犠牲と魔力がなければ決して切れることはない。同じだけの、同じ状況の、同じ……人の犠牲の……」
当時のアズガルズの人口は100万と少し。当時としては、最大の人口を誇っていた。
犠牲となった人は、100万人
「細かい数は、どうでもいい。だが、覚えは、ないか? 何故ファレナ王国は他国の兵を集めた? 何故人をあつめた? どこかへ攻め入るのか? 世界のほぼ全てを征服したのに? どこへ攻め入るんだ?」
アルスガンドの息子。ファレナ王女がアリア王妃より読み聞かせられた物語の中の英雄の名を与えられたジュナシア・アルスガンド。世界に光をもたらした英雄の名をつけたファレナ王女。なんとも、微笑ましい。
その男が、眼を見開いた。さすがに気づくか。当然だ。
「……100万以上の兵士は、その倍の人を呼ぶ。家族を呼び、仲間を呼び、友を呼ぶ。戦える、戦えない。関係などあるものか。もう、我々はそれを成した。即ち、生贄。即ち、処断。全ては問題なく。粛々と」
厳密に言えば問題はあった。救世の刻印はこの行為を決して許さない。だが、その仕組みはすでに破綻している。
人が救世の刻印を拒んだのだ。人は、守護者を裏切ったのだ。
だから、もう世界は人を救えない。救おうと動けない。決して負けない救世の主が、負けたという事実が世界の意志を混乱させた。
「エリュシオンは解放される。そして降りる。アリア様が手繰り寄せる。降りる先は当然、この世界。人の世界に、魂の世界が下りる。勝てると思うか? 人が勝てると思うか? 数兆、もしくはそれ以上。まさに無限の魔力の塊が落ちてくるんだ。まともでいられると、思うか?」
ついに足まで来た。崩れ落ちる身体を必死に捻り、何とか玉座にしがみ付いてそこに座る。
玉座に座るはオディーナ・ベルトー。見下ろすはジュナシア・アルスガンド。
「世界に現れたエリュシオンの魔物。悉くを打ち滅ぼしたのは漆黒のエリュシオン。もはや世界に、エリュシオンの魔物と呼べるのはお前だけ。わかるなジュナシア・アルスガンド。私の言いたいことがわかるな?」
エリュシオンを砕けるのはエリュシオンだけ。
「魔力の回復、どれだけかかる? 数日か? 数か月か? くくく……いいか、エリュシオンがこの世界に落ちるのは、あと数刻後だ。明日の日の出よりも早く、アリア様の魔術は完成する。つまりは、もう、終わったのだ」
勝ったと思った時に、負けを知らされる。ああ、そうだ。さすがのアルスガンドでもそうなる。そういう顔になる。
「終焉は来る。まず人は、その肉体を昇華させる。全ての人間が、時間差はあれど、全てエリュシオンの魔物になる。意思を奪われ、人であることを奪われ、魔力そのものの存在になる。もしかしたら他のエリュシオンの魔物のように、お前にだけは意志を示して襲い掛かるかもしれんな」
消えた心をつなぎとめたのが、魔に姿を変えながら人でいることができた者への憎悪。人の心の根源は結局は、憎悪なのだろうか。
「そして、消える。全てはエリュシオンへと。魂のあるべき場所へ帰る。そこには、死も何もない。死んだ者だって、そこにいる。間違いなく、間違いなくそこにいる。だから死には、意味などないのだ。私もただ、エリュシオンに帰るだけ……ああ、お前の父に会いたいな……いい酒があるんだ……」
「あそこは、墓場だ。何もないんだ」
「だが、いる。確かにいるんだ。アリア様は、そこに行けば、失った全ての人に会えると……だから、ああ、悪くはない。その微睡も、悪くはない」
「オディーナ。いいか、あそこは何も、何もないんだ……あるのは、無限という概念だけで、何もないんだ……!」
「それでもいい。それでもいいんだ。たとえ何もなくとも、それが救いになるのならば、それでいいんだ」
口を真一文字に結び、顔を伏せるジュナシア・アルスガンド。何とも悔しそうだ。この男は、きっと知っている。人の身ながらエリュシオンに立ち入れるこの男は、きっとその中を知っている。
だからこそ、そう言える。だが、何もないなら何もないで、それでいいと、私は思う。
輝く刻印。崩れる。身体が崩れる。気づいているのだろうか。ジュナシア・アルスガンドは気づいているのだろうか。お前は、救世の主を三度退けたのだ。
母の愛。父の意地。そして自らの手。世界はお前に三度負けた。お前がいたから、三度負けた。
だから、きっと、いや間違いなく――
「エリュシオンが救いではないというのならば、お前が救え……アリア様を救え……何とかして見せろ……この世界はもう、お前に賭けるしかなくなっている……」
手が崩れる。足が崩れる。胸が崩れる。ああ、これが、刻印に飲まれるということか。魂が人の形を失っていっている。
もう、口が動かない。最後に一言、言い残したことを言っておこう。オディーナ・ベルトーとしての自分が、言って、残したいことを。
「あの酒は20年物なんだアルスガンド。一気に飲むなよ……もったいないだろう?」
そして、全ては消えた。もう私に、オディーナ・ベルトーという人間には結末を知ることはできない。
だが、そうだな。願うなら、ハッピーエンドがいい。ここまでやったんだ。その終わりが、救えない者ではあってはならない。
最期はせめて、美しく。失った一輪の白百合の中で空を見上げて。
どうか救われてほしいと、思うよ。




