第52話 生き様
全てが漆黒に染まっていたその世界を、開いたのは漆黒の瞳。
永遠の闇。夢の中の過去。夢のような今。
貰った物があまりにも大きすぎたから、返すことは到底できない。
だからこそ、出来うることを。だからこそ、その時を。
「んー……結局ね。ここまでやってきて何だけど、救われる人って少ないと思うのよ」
「そう、ですか?」
「そうよ。結局、全ての人は救われない。私は何人も殺したし、あなたも間接的にだけど、千単位で人を殺している。そんな血の海の上に、築かれる未来なんて、素晴らしいわけがない」
「それは……そうですが……ですが……それでも……」
「そう、だからこそ私たちは先を作らないといけない。剣を止めた兵たちは私たちに先を託した。こうなることは想像はできていたけど、実際こうなるとは思っていなかった。素晴らしいと言うべきかしら。それとも、愚かだと断罪すべきかしら」
「それは、どっちでもない気がします」
「うん、ここからはもう、後世が語ること。私たちはもう評価はできない。そのままを、未来に。あなたが見たかった世界を未来に」
「はい」
「ねぇファレナさん」
「何ですかハルネリアさん?」
「もっと、自分のために生きなさい」
「……はい」
「そろそろ底。急いで探しなさいあの子の腕。私の魔力も結構限界よ。灯りは少ししかもたないから」
「大丈夫です。すぐ見つかります。だって」
――あんな眩しい手は他にないから。
それは、世界だった。ファレナ・ジル・ファレナが求めた世界だった。
偶像として生を受け、愛でられるだけの王女として存在し続けた彼女にとって、それは世界だった。
赤く輝く刻印は、世界を照らす明かり。漆黒の瞳は世界を映す鏡。
夢のような現実を。物語の中にしかなかった空想の世界を。
美しい世界を。
切断された左腕を、無造作に肩口に着けるジュナシア・アルスガンド。普通ならばそれで再生するわけがない。
だが、違う。その腕は、斬り落とされた自分の魂なのだ。彼の血は、ヴェルーナ・アポクリファの血はそれが分かれることを許さない。魂の形が崩れることを許さない。魂の器が壊れることを許さない。
故に、それは当たり前のように彼の肩に繋がる。ゆっくりあげられる左腕。小さく指を畳み、大きく指を広げ、全てが繋がったことを周囲に知らしめる。
オディーナが呟いた。
「来い……来い……!」
オディーナの顔はまるで子供のように、胸の高まりを強引に抑え込む子供のように。
彼は期待していた。ジュナシア・アルスガンドに。ジュナシア・アルスガンドがもたらす未来に。
「ジュナシアさん」
綺麗な声だった。今までで一番、澄んだ綺麗な声だった。ファレナが彼を呼ぶその声は、女神の歌のようで。
思わず、ジュナシアは振り返った。ファレナは笑っていた。
「やっちゃってください!」
一言、背を押すファレナの声。どんな鼓舞よりも、胸が高鳴るその声。
輝く赤い刻印。黒く光る世界の壁。
終わりを告げる鐘の音は、遠く遠く空の上で鳴り響く。
赤い刻印はジュナシア・アルスガンドの姿を変える。嘗ては忌むべき魔物として、今は全てを救う魔者として。
黒い腕が生える。黒い足が生える。黒い身体が生える。黒い頭が生える。深紅の翼が生える。深紅の瞳が輝く。
現れるはエリュシオンの魔者。全ての魔を超越した者。誰もついてこれない世界最高の魔者。
力が全身を走る。ビキビキと血管が震える。ビシビシと空気が割れる。
魔の極致をここに。漆黒のエリュシオンが今ここに。
「ウオオオオオオオオオオオオオ!」
溢れる魔力。その圧だけで、石造りの橋が削れる。
舞う石の欠片。眼に頭に、叩き付けられる石はオディーナの怯みを産みはしない。
周りに倒れるジュナシアの仲間たち。一人として意識のある者はいない。一人として無傷な者はいない。
だが皆が見ている。世界中の人々が、眼で見れずとも肌で、耳で聞けずとも感覚で、今この時を見ている。
始まりよりも、今この場にたどり着いた者達にとって重要なのは終わり。
エリュシオンの魔は人を許さない。全てを排するその力を、人としての意思が操る。
大きく踏み込んだオディーナ・ベルト―。両手に剣。その振りは人の域を超えている。
音よりも速く、光よりも速く、振り下ろされる剣は人の目には止まらない。誰も止められない。
もはやその衝撃は爆風。叩き付けられたオディーナの剣は、いとも容易く漆黒の身体と化したジュナシア・アルスガンドを斬り裂いた。一切の動きを見せず、真っ二つに割れる彼の身体。
漆黒の身体は裂けて割れて砕けて。一瞬影となって――戻る。
斬り裂くことなどできない。それを、滅することなどできない。
オディーナの身体は真後ろに吹っ飛んだ。漆黒の魔者は指一本動いていない。旗からみればそれは、一人で勝手に吹っ飛んだように見えただろう。
巨大な城門を突き破り、オディーナの身体は地面を滑る。そこは王都。世界で最も栄えた町。人々の笑顔が溢れていた町。
地面を剣で払い、その衝撃で起き上がるオディーナ。彼の鎧には大きな拳の跡がくっきりと浮かんでいた。
夢の――――
「いかん。いかんなこれは」
始まりは――――
「抑えられん。胸の高まり。ああ、ついにきたか。わかってる。わかってるさ」
あの日見た――――
「これが、私の最期だ」
――――憧れの中に。
溢れるは魔力。輝く両目は七色に発色して。オディーナの身体から立ち上る煙は抑えきれない魔力の波動。
人は救われなければならない。人の世界は永遠に栄えなければならない。
魔力は人の魂から生まれる物。魔力は世界を先へ進める物。故にそれは、無くなってはいけない物。
世界は人を救う。それは決められたこと。世界が人の窮地を感じ取った時、救世の主はこの世界に現れる。
一度目は負けた。二度目も負けた。では三度目はどうか。
「……さらばだ私よ。さらばだオディーナ・ベルトーよ。時は来た。あとは、終わりを迎えるのみ」
もはや、問いはいらず。理由はいらず。
時間が圧縮される。極限まで圧縮される。時間というモノがなくなる。
暗闇の中、小さな塵が浮いている。それは石、それは土、それは砂。舞って落ちるその間を捨てて。
一瞬だが永遠でもあって。
地面を蹴り、二人は走った。片やエリュシオンの魔者。片や救世の主。一歩で一気にその距離は縮まって。
オディーナは剣を振った。空間すら斬り裂くほどの勢いで。
ジュナシアは双剣を振った。彼の力に負けぬよう、赤と青の大剣となった双剣を降った。
極限まで圧縮された時間の中で。それらはぶつかる。音速など軽く凌駕して。二人の剣はぶつかる。
無音、されど轟音。
剣と剣が触れるごとに圧倒的な衝撃波が発生する。衝撃で周囲の家屋を薙ぎ払いながら、二人は剣を振る。
一合、二合、三合。
「うぬおおおお!」
オディーナの声が響き渡る。全てが圧縮されたその場所であっても、その声は大きく大きく、周囲を揺らした。
「うおおおおおおおお!」
声。喉が千切れそうな声。オディーナの声。
「おおおおおおおああああ!」
剣の速さは加速している。増々、増々。どこまでも、どこまでも。
火が見えた。漆黒の魔者と化したジュナシアの赤い眼の中に、火が見えた。
その火は町を焼き、人を焼き、魂を焼き、世界を焼いていた。
火の中に見える何人もの人の顔。嘆いて、叫んで、苦しんで。
刺し伸ばす手があった。白い手だった。次の瞬間に、その白い手は斬り落とされた。
人が泣く。人が哭く。人がなく。
「救えるのかお前に!」
オディーナの声が響く。
「救えるのか全てを!?」
オディーナの声が震える。
「貴様に救えるのか!?」
オディーナの声が、叩き付けられる。
ジュナシアの身体は吹き飛んだ。彼が持っていた二本の剣は粉々に砕け、圧倒的勢いで漆黒の身体は空を舞う。
火の玉のようになった漆黒のエリュシオンは、その勢いのまま王都の空を飛び、王城の城壁に叩き付けられた。身体を砕きながら、城壁を砕きながら、彼の身体は王城の中へと入る。
吹っ飛んだ足。吹っ飛んだ左腕。瞬時に再生させて、ジュナシアが見たのは大きく穴の開いた城の壁だった。
深紅のマントを広げて飛び込んでくるオディーナ。その顔は、壮年のオディーナの顔ではなかった。その顔は、青年時代の彼だった。
砕け柄だけになった双剣を投げ捨て、ジュナシアはオディーナに飛び掛かる。拳を握り、顔を砕かんとそれを突き出す。
小さな欠片になるジュナシアの右拳。オディーナの剣が月の光を反射させて白く輝く。
「アルスガンド! お前たちは卑怯者だ! それだけの力がありながら、全てを救おうとはしない! 俺は救いたかった! 皆、皆救いたかった! 外を見ろ! 海を見ろ! 世界を見ろ! 争いのないところなど一つもない!」
その言葉は、確かにオディーナの言葉だったが、その口はもうオディーナの口ではなかった。
「賊を何人殺した!? いったい幾つの内戦を止めた!? 何故、何故人は殺し合う!」
その剣技。どこまでも加速して。漆黒のエリュシオンと化したジュナシアでさえもうついて行けない。
斬られ再生し、斬られ再生し、斬られ再生し――――
「馬鹿どもが! 馬鹿どもが! 馬鹿どもが! 結局! 結局人は殺し続ける! いつまでだ!? いつまでなんだアルスガンドぉ!」
意志が、強まる。二人の意志が高まる。
「だから、俺はあの方の言葉に従った! あの方は! この世界を変えてくれるお方! まさにこの世界にとっての女神なのだ! うおおおおおおお!」
嘗て、三人の老人がいた。魔術師の祖、魔法師の祖、魔導士の祖。魔法使い、刻印師、術師、歴史と共に様々な呼び名を得ていった彼らが目指したのは、争いのない世界。
人が誰しも、幸せに生きられる世界。
三人はそれぞれの方法でそれを目指した。人のために魔を広げた者。人のために魔を使った者。人のために魔を封じた者。
オディーナ・ベルトーもまた、その世界を目指した。彼なりの方法で。
悪を斬り、人を助け、皆を幸せにする。それこそが彼の生き方であり、彼の方法だった。
だが結局一人の力で変えられるほど、一人の力で守り切れるほど、人の世界は優しくはない。
「人は、生きて死ぬ。等しく人の運命ではあれども、等しく幸せに生きて死ぬことはない……例えるならば、伝染病。隔離された一人の村人。ほっておけばそれは広がり、全ての村人を殺す。お前ならばどうする?」
ジュナシアは魔力を右手に込めた。突き出すと同時に魔力が弾となって撃ち出された。
空間を歪めるほどの魔力の弾。軽々と銀色の剣でそれを弾き、オディーナは迫る。
「俺は一人の村人を焼き殺すことを選んだ。それで多くの村人が救われたのだ。それが正しいと思った。だが、それで終わりではない。同じ環境に生きているのだ。次の病人が現れた。今度は三人。さぁ、どうする?」
オディーナは剣を振る。ジュナシアの黒い四肢を切断する。飛び散るジュナシアの血もまた、黒色だった。
「当然殺して焼いた。今度は灰を地面の奥深くに埋めることにした。だが、また病人だ。どうやらその村そのものが、すでに汚染されていたらしい。さぁ……どうする?」
すぐさま再生するジュナシアの四肢。だが、着実に、確実に、ジュナシアの魔力は消耗している。
オディーナの剣は更に成長していく。救世の刻印。その力の一つ、無限の成長。
「結局、俺は全ての村人を村ごと焼いた。徹底的に、徹底的に。涙を流す兵もいた。俺も涙を流した。だが、涙を流すことで救える命など、一つたりともない。俺は、村人を救いたかっただけだったのに……だけだったのに……!」
オディーナの眼から涙が落ちた。その一瞬を逃すジュナシアではない。突き出された漆黒の腕は一瞬でオディーナの頭を弾き飛ばした。
飛び散る肉。飛び散る脳。だが、次の瞬間オディーナの頭は元に戻っていた。
救世の刻印が持つ再生能力。無限の再生。
「アリア様は、優しかった。王妃という立場でありながら、俺の言葉を聞いてくれた。手駒に対してのやさしさだったのかもしれない。だが、それでも俺はあの方を否定はできない。傍にいるだけで安心できた。傍にいるだけでよかった。あの方は、俺の言葉を聞いてくれた」
ジュナシアの輝く赤い眼はオディーナの剣をもう見ることができない。ジュナシアは下がった。部屋の扉を砕き、廊下に出てオディーナから距離を取る。
ジュナシアの身体がくの字に折れ曲がって横に吹っ飛んだ。吹っ飛んだあとで気づく。オディーナが一瞬のうちに距離を詰めてジュナシアを蹴り飛ばしたことを。
「俺は、あの方に想い焦がれた。結局、手を触れることすらできなかったが、それでも、ああ、それでも幸せだった。あの方のためなら、俺は……自分を捨てることすらできる……だが、だが!」
よろよろと起き上がるジュナシア。彼の意識はすでに消え去りそうになっている。エリュシオンの魔者としての身体は不滅。エリュシオンが支えている故に不滅。
その上で意識が消えそうになっているということは、即ち。
「あの方はお前を見た! 何故だ!? 俺の方が強い! 俺の方が強くなった! 何故だ!?」
オディーナが剣を突き出す。何度も何度も、何度も何度も。執拗に剣を突き立てられた漆黒の身体は黒い血を飛び散らせる。
限界が近い。ジュナシア・アルスガンドの、魔力の限界が。魔力が切れれば、意思のない怪物となってしまう。暴れるだけの物になってしまう。
だが今刻印を解けば、たちまち死んでしまうだろうことは、ジュナシアにはわかっていた。だが、もう限界だった。
「……わかっている。俺は、あの方を受け入れた男。お前は、あの方を否定した男。アリア様は、否定して欲しかったのだ。月のエリュシオンを呼ぼうとする自分を誰かに――」
――――結局、勝敗を分けたのは意志だった。
生きようとする意志。常に今を見る意志。
過去に溺れた者には決して到達できない今。
魔力が限界に達し、漆黒の身体を失った彼がとった行動は、触れることだった。刻印が刻まれた左手でオディーナの剣を握る右手に触れることだった。
「訳がわからないことをペラペラと……勝手に言ってろ」
111ある刻印は、現在使用されているのは2つ。残り109。
一つ使って108。二つ使って107。その数に限りはあれど、十分すぎる数である。
オディーナの右手に輝く円形の刻印。色は白。奇しくも彼が想い焦がれていた王妃が持つ色。それは何重にも、何重にも重なって。
刻印は、魂に刻まれる魔の証。刻印は魂の世界から魔力を引き出し、この世界に干渉するほどの力を与える。
一人の人間に、二つの刻印は決して共存せず。
アルスガンドの刻印は、アルスガンドの血宿る情報がなければ、身に定着することはなく、定着しない刻印は、その宿主を喰らい――そして――
「救世の刻印がどんなに効果があったとしても、勝てるのか? たった一つの刻印が、100の刻印に勝てるのか?」
百に重なった刻印は、アルスガンドの血の下にあったとしても猛毒。一族以外のモノにとっては尚更。
オディーナは剣を落とした。何が起きたのかわからないといった表情で、右手に輝く刻印を彼は見ていた。
みるみるうちに若さを取り戻していたオディーナの顔が元の壮年の顔に戻る。それをそのまま通り越してどんどんと、どんどんと彼の顔は老いていく。
「アルスガンドの長として、授ける。おめでとうオディーナ。これでお前も、刻印師だ」




