第51話 オディーナ・ベルトー
足が震える。確実にいつもと同じ動きはできない。
落ちる血は慣性のままに。石の橋に赤い線を描く。赤い線は夕日に照らされより赤く、より朱く、より紅く。
深紅のマントは風に靡く。それは間違いなく、自殺行為。
だがそれでも足を止めない。赤い剣を地面に擦り、火花を走らせながら彼は走る。躊躇なく、ただ真っ直ぐに。
踏み込み、振り払う。勢いを殺せばそこで終わる。もう戻れない。戻る体力がない。
ジュナシアの剣はオディーナの銀色の剣に受け止められて、大きな大きな音が鳴った。その場にいる全ての人に伝える、最後の攻防を告げる音。
オディーナは笑っていた。手に伝わる痺れを感じながら、笑っていた。楽しかった。今この瞬間が楽しかった。だから笑った。
何もかもが主のために、女王陛下の剣となることを選んだ彼を真っ向から否定し、殺そうとしてくる男。自分の死が決定づけられてもそれでも膝を折らない男。その男の存在が、何とも嬉しくて、楽しくて。
オディーナは剣を払った。ジュナシアはもはや踏ん張ることすらできない。オディーナの剣の勢いのままに、遥か後方へ飛ぶ彼の身体。
それでも、彼は、ジュナシア・アルスガンドは表情を崩さない。無表情で、鋭い眼をして、オディーナをしっかりと見ている。
痛みが無いわけがない。
苦しくないわけがない。
魂の大半を斬り落とされたのに、それでも彼は前を見る。決死ではなく、勝つために。それが何とも強くて。それが何とも美しくて。オディーナの胸に、忘れていた熱いものが蘇ってきた。
――ああ、きっと自分は、この眼を求めていたのだ。
吹っ飛んでいくジュナシアと交代するように、二つの陰が飛び掛かってきた。一人は雷鳴を剣に走らせて、金色の鎧を身に纏い駆けるランフィード。もう一人はその部下であるボルクス。
「オディーナ・ベルトー! 覚悟!」
凛々しき若き王。ランフィード・ゼイ・ロンゴアド。粗削りながらその剣は間違いなく覇者の剣。鳴る雷鳴に、耳が震える。
ランフィードとボルクスは同時に剣を振り下ろした。左右逆方向、二か所から同時に。一本の剣しか持たないオディーナにとってそれは、防ぎようがなかった。防ぐ必要もなかった。
身を屈め、すさまじい速度で銀色の剣が走った。その剣閃、走った跡が辛うじて見えるその剣の道。あっという間にそれはランフィードの剣を叩き折り、ボルクスの鎧を切り裂いた。
飛び散る血。ボルクスの血。
「ぐおっ……!」
「ボルクス!」
力強くオディーナは剣を振り抜いた。当然のように、振り抜いた後の動きしか目に見えなかったが。
ランフィードの黄金の鎧が真っ二つになった。黄金の鎧はロンゴアド国が国宝、代々の王が纏って来た最高の鎧。
それがいとも簡単に切り裂かれた。いや、鎧があったからこそ、その程度ですんだ。
勢いのままに地面を滑るランフィード。腹部を押え座り込むボルクス。
「僕たちでは時間稼ぎにも……ならないのか……!?」
ランフィードが呟く。ボルクスが歯を食いしばる。
「若き王よ。あの方が本当に死の契約を交わさせたのは先代ロンゴアド国王のみである。誇りに思うがいい。あの生き方は、他の王にはできん」
オディーナが賞賛するロンゴアド国が王の名誉。膝を折り、自国のために頭を下げた先代の王。最期は自国のために、反逆の道を選んだ王。世界最高の王。
その誇りが、古臭い価値観が、騎士としてのオディーナの心を打った。素晴らしき、生き様かな。
オディーナの眼に、曲刀が滑り込むのが見えた。
「貰った……!」
アラヤ式剣術。その剣の走りはまさに瞬速。眼にも止まらないその剣がオディーナの首に向かって走る。
低く、低く、地面を這うように屈み真下から振り上げるその剣は、元聖皇騎士が首席、ネーナ・キシリギ。単純な剣技だけでその地位を得た女性。
オディーナは頭を横に曲げた。彼の首、その寸前をネーナの剣が走る。文字通り紙一重。
ネーナは剣を返す。それよりも速く、振り下ろされたのはオディーナの剣。その剣の速さは、ネーナの剣の比ではなかった。
剣を返すよりも速く、剣を引くよりも速く。ネーナの肩口に落とされたオディーナの剣。身を躱そうと身体をひねっていたことが幸いしたか、オディーナの剣はネーナの左足を斬り落とし地面に突き刺さった。
落ちる鞘。カランと言う音と共に飛び散る赤い血。倒れるネーナ。
「ぐっ……!」
「自国を救ってもらった恩義か。アラヤの国を捨てたお前が、最後に選んだのは生まれ故郷か。裏切り者めと罵ろうか。よき忠義だと称えようか」
膝から下を失ったネーナの頭上にオディーナの剣が光る。首を断てば死ぬ。それは当たり前のこと。
唐突に、オディーナは掲げていた剣を背に背負った。少し遅れて数発の火球が銀色の剣にぶつかる。
火花の先。振り返るオディーナが見た物は剣を突き出して突っ込んくる赤髪の剣士。リーザ・バートナー。
身を翻しオディーナはそれを躱した。リーザの背に回り振り上げられるオディーナの剣。
「……む」
振り下ろそうと足に力を入れた瞬間に、オディーナは気づいた。目の前を通るリーザの身体は、ただの霞だということに。
消えるリーザの像。オディーナは剣を誰もいない空間に払った。
「そんな!?」
最初は声。遅れて身体。リーザの剣が砕け散って、彼女の身体は真後ろに吹っ飛んだ。
地面を滑るリーザ。彼女は衝撃で呼吸が苦しいのか、苦悶の表情を見せた。
「魔術師の才。剣技。そして容姿。騎士としての才はやはり相当なものだリーザ・バートナー。私にこのような攻めを見せる。我が剣を剣で受け止める。心も見事成長したな」
一歩、一歩、オディーナは足元に倒れるネーナを無視してリーザの方へと足を踏み出した。いつでも殺せるネーナよりも、何かができるリーザの方が危険だと、彼は思ったから。
時が止まる。
凍る背筋。本能のままにオディーナは高速で剣を振る。
何かが当たる感触。手に伝わる衝撃。目の前を飛ぶ銀色の短剣。
「ちっ!」
舌打ちが聞こえた。オディーナは遠くに黒い影があるのを見た。
「シリウスの、娘か。やはり、面白……いっ……!?」
それは、オディーナが見せる何度目かの焦りの表情だった。オディーナが剣を構えたところに二本の剣が現れた。
遅れて出る、漆黒の衣装に身を包んだ身体。音もなく忍び寄り、音もなく繰り出された双剣の一撃を受け止めれたのは、歴戦の経験の成せる技か。
突然現れたイザリアの身体。肩が触れるほどの超近距離。イザリアは剣を小さく回した。
その距離のまま、無数の連撃がオディーナを襲った。
「秘蔵の娘か……自慢するだけはあるな……」
眼にも止まらない双剣の攻撃。次々と繰り出されるそれを、オディーナは剣で捌いていく。超近距離のまま、振りが制限されるその距離で二人は高速で打ちあった。
時が止まる。
走る痛み。オディーナの脚に一本の短剣が刺さった。この戦いにおいて初めて見せるオディーナの血。
「イザリア!」
「セレニアさん合わせて!」
オディーナの目の前に二人いた。短剣を逆手に握るセレニアと、双剣を振るイザリア。二人の身体捌きは素早く、正確だった。
高速で襲い来る四本の剣。さしものオディーナも下がるしかなかった。
三人の間に火花が散る。セレニアとイザリア、二人のアルスガンドの攻撃を一本の剣で受けきるオディーナ。一対一ではきっと、あっという間にやられていたことだろう。
加速する。加速し続ける。火花はいつしか閃光になって。
時が止まる。
青く光るセレニアの左手の刻印は、時を止める刻印。止まった時の中では全ては動きを失う。
だが、引きずり込めば別。セレニアが引きずり込んだイザリアの身体は、止まった時の中を悠々を動き。
経過を飛ばし、加速に繋げ、オディーナの剣の速さに二人の速さを追いつかせる。
その仕組み、気づかない彼ではない。
一瞬だった。カッとオディーナは眼を見開いた。
イザリアの剣を払い落とし、セレニアの剣を受け流し、更にもう一振り。今までよりももっと速く。何よりも速く。
舞ったのはセレニアの血。剣閃すら見えず。それはまさに究極の剣。
赤い物の中に、白い物が見える。黄色い物が見える。
それがセレニアの腹部の中だと判断するのに、時は必要なかった。
「セレニア!?」
眼を見開いて崩れ落ちるセレニア。赤い水を空に吹きだして。思わず大声を出して固まるイザリアに、容赦なく降ろされる銀色の断罪。
「しまっ……たっ……」
右から左脇。一瞬で両断されたイザリアの身体。切り口から零れ落ちる金属と肉の混じった部品は、彼女が人の身体ではないことを知らしめる。
セレニアの上に落ちるイザリアの上半身。二人とも一瞬で意識はなくなり――
「強い。加減ができんかったすまん。さすがはアルスガンド。この歳でここまで極められるか。素晴らしき一族かな」
オディーナは血に頬を濡らしながら満足げにそう言った。世界屈指の暗殺者の一族。その一族に対しての賞賛は、もはや言葉にできず。
「うおおおお!」
声を高らかに、叫びながら突っ込んでくるランフィード。すでに鎧は砕け、自分の命を守る物はない。だがそれでも、逃げることはできない。退くことはできない。王として、男として。
「せぃやあああ!」
恐怖など微塵もない。駆けるリーザ。剣はすでに大半が砕け散り、残るは鍔にのこった少しの刃だけ。だがそれでも彼女は走る。抵抗することが、今の自分の役割。
「ああ、見事。素晴らしきかな。素晴らしきかな!」
オディーナは嬉しかった。ここまで抵抗してくれることに、ここまで自分を恐れてくれないことに。
ランフィードは背を斬り裂かれ、リーザは腹を突き刺された。あっという間に倒されても、それでも誰の目にも闘争心は無くなっていない。
すでに終わりは決まっていても、それでも抗う者がいる。美しいと、ただ美しいとオディーナは思った。
「オディーナ・ベルトー」
彼を呼ぶ声がした。男の声だった。ジュナシア・アルスガンドの声だった。
ゆっくりとオディーナは振り向く。微笑みながら。
「日は落ちた。あとは暗闇が支配するのみ。今夜は満月だ」
滴る水。黒く、赤く、輝く刻印は、何よりも赤く黒く。
「お前が見る最後の月だ。眼に焼き付けろ。さぁ、最期だ。華々しく、散って見せろオディーナ・ベルトー……!」
傷だらけで黒い血に染まったその腕は、赤く紅く朱く輝いていた。




