第14話 エリュシオンから来たモノ
世界中の魔術師が、世界中の魔法師が、世界中の魔に魅入られた者たちが、求めてやまない魔の果て、魂の座、エリュシオン。
そこに至った者は、域を外れ、永遠を得る。
死なない身体、尽きることのない魔力。できないことなど何もない。世界を創り変えることすら、容易いだろう。
誰も、そこに至った者はいない。だが、存在は知られている。必ずあると、魔に関わる者なら誰もが知っている。
何故知っている?
それは、エリュシオンから来た者がいたから。
その領域から来たモノがあるから。
111の刻印に分割され、彼らはそれを守る。アルスガンドの守護者はエリュシオンから来た何かを守る。それを世界に利用されないために。
エリュシオンから来た何かは、莫大な力の権化。その力の一端を受けて、彼の身体は大きく変化した。
漆黒の身体、影を纏い、彼の身体は二回りほど大きくなり、深紅の布を首に巻く。
はっきりと見えるのは赤い布と、光る赤い眼のみ。頭の先から足の先まで黒く染められたその姿は、正しく人を超えた者。
首をゆっくりと動かし、彼は周囲を見る。周囲の兵士たちは皆、その異様な姿に恐れおののいていた。
誰も何も言えない。誰も何もできない。ただ一人を除いて。
「せ、セレニアさん……どうしたんですかあれ。あんな服持ってましたっけ?」
ファレナは恐怖することなく、疑問をなげかけた。その姿をみたセレニアは、ある意味で感心して、ファレナの傍で静かに答える。
「ふふふ……あれは魂の座から来た怪物だ。どうだ、恐ろしいだろう?」
「怪物? よくわかりません」
「幸せな奴だ。ふふふ、まぁこれほど頼りになる味方もいない。見ていろ。魔を超えるということがどういうことか、教えてくれるぞ」
首を上下に揺らす。それだけの動きに、兵士たちは槍を持つ手を震わす。
その姿に、ふがいなさを感じたロンゴアド兵団副団長ベルクスは大きな声を上げて号令を放つ。
「馬鹿者が! 姿に惑わされるな!」
大きな声は広間に広がり、兵士たちは皆一様にその声で震えを止める。
「よし! さぁ一斉に」
言葉はそこで終わる。兵士たちは見た。ベルクスの巨体が一瞬で壁に叩き付けられるのを。
気が付けば、ベルクスは壁にめり込み、ベルクスがいたところには漆黒の魔物と化した彼が立っていた。
言葉を失った。兵士たちも、聖光騎士であるラーズも、リーザも。
その静寂を破ったのは、勇気ある一人の兵士だった。自分の真横に来ている彼に向かって、槍を突き出したのだ。
槍は真っ直ぐに、彼は、その深紅の布を翻しながら、黒い手で槍を払う。槍はまるでそこに最初からなかったかのように穂先を消した。
兵士が飛ぶ、殴られたのか、蹴られたのか、はたまた武器か。兵士を攻撃したものは誰にも見えない。ただひとりでに槍を放った兵士が飛んだ。
幸いなことに、その兵士が血まみれで空を飛ぶ姿を見て、仲間たちがやられる姿を見て、他の兵士たちは金縛りから融けたかのように動き出した。
大量に駆け寄る兵士たち。彼は、その兵士たちをただ見ていた。
大量に突き出される槍。逃げ場などない。
彼の、赤い眼が光った。
「エリュシオンからきた何かは世界を超えた存在。その力の一端は私の時を止める刻印や、師父の一瞬で場所を移動する刻印のように、人智を超えた力を見せる」
セレニアは隣に座り込むファレナに静かに語る。自らの一族を。自らが守ってきたモノのことを。
「あいつのは違う。あいつのは特別だ。あいつのは、エリュシオンからきた何かそのものを身体に宿す。その身体は常人の数千倍の速度をもつ。もはや誰も捕らえることなどできんよ」
彼に向けられた槍は、次々と折られ宙を舞い、兵士たちはまるで払われる埃のように、右へ左へと四肢を飛ばされて、吹っ飛ばされていった。
「触れれば人は死ぬ。加減などできない。死にたくなければ触れないことだ。ふふふ……」
セレニアが笑う。目の前に広がる光景に、ただ彼女は笑う。
まさに悪夢、兵士たちの腕が、足が、周囲に舞う。あっという間に赤い血は広間を覆い、煌びやかだった広間は血と肉の世界に変わっていった。
悪夢、あまりの恐怖に、聖光騎士であるリーザは立ち尽くし、ただ震えていた。
「そんな、そんな、そんな……!」
「姉さん術式を全て防御系に! すさまじい速さだが、威力そのものはそこまでない!」
「あ、あ、ああ……」
「姉さん! 何だあの化け物は! 魔術協会の馬鹿どもめ! あんなのがいるなんて聞いてないぞ!」
自らの身体を光らせて、ラーズは叫んだ。震え、剣を持つことすらできない自分の姉から彼を離すために。
「こっちだ! 僕が相手をしてやる!」
漆黒の怪物は、その赤い眼をラーズに向ける。ラーズは思った。こいつは人がどうこうできる相手ではないと。
自らの魔力を目いっぱい使って、ラーズは自分の防御力をあげる。その硬さはすでに鋼鉄以上。
ラーズは地面に落ちる兵士たちの四肢を踏みしめながら、走り出した。何とかしなければ、自分と姉が死ぬと思い、彼は必死になって走り出した。
「生きているんだ! 殺せないわけがない! うおおおおお!」
その判断が間違っていたということに、ラーズはすぐに気づく。
一瞬彼の視界に入ったのはセレニアの顔、それは完全に彼を馬鹿にして、笑っていた。
喰らってみて初めて分かる。その漆黒の怪物の攻撃手段。それは、ただ手を払っているだけなのだ。
速さと表現することすらできないほどの速さ。身体を走る衝撃と、一瞬視界に入る黒い陰は、ラーズの防御の術式を容易く貫き彼をまるで人形のように飛ばした。
一瞬で意識をどこかへと追いやられて、ラーズは壁に激突する。彼の鎧が砕け散る。
「あ、ああ! ラーズ! な、あ……私、そんな、ああ」
動いたことすらわからない。気が付けば、倒れる兵士たちに囲まれて、その中心に漆黒の怪物は立っていた。
「ああ、圧倒的だ。私もほとんど見えなかったよ。さて……」
セレニアが立ち上がる。ファレナもそれにつられて、立ち上がる。
彼は、漆黒の怪物と化したジュナシアは初めて分かるように動いた。ゆっくりと、リーザの方へと歩き出したのだ。
「やめ、やめて、こないで!」
声を震わせて、剣を投げ捨てて、リーザは完全に腰を抜かして、ジリジリと座ったまま下がる。それを追うように、ジュナシアは歩く。
「こないで! こないでください! ごめんなさい、ごめんなさい許して! 許してぇ!」
騎士の称号を持つ彼女は、涙を流して許しを請う。あまりの恐怖にその体裁を整えることすらできずに、ただ泣きじゃくって子供のように許しを請う。
目の前に広がるのは手足が散乱し、真っ赤にそまった広間。その光景と、漆黒の怪物に彼女は身体の芯から恐怖した。
「殺さないで、殺さないで、お願いします、こんな、こんなことしたくないんです! 本当は、騎士なんてしたくないです! お願いします、許して……」
壁に背をつけて、もうリーザは下がれない。眼を開ければ怪物が迫りくる。一歩一歩確実に、その距離は縮む。
リーザは、あまりの恐怖に、眼を真っ赤にして涙を流して、ひたすらに許しを請う。
その歩みは実際には短い時間だったが、リーザにとっては長い長い時間に感じられた。気が付けば、漆黒の怪物は彼女の目の前にいた。
その真っ赤な眼を彼女に向けて、真っ赤な布をなびかせて、大きな身体で彼女を覆いかぶさるように、彼は彼女の眼の前に立った。
「ひぃぃ!」
悲鳴を上げる。彼女の騎士としての威厳は全て消え去った。そこにいるのはただ恐怖に震える女一人。
彼は、その姿に、どこか哀れさを感じた。
いつの間にか彼の姿は元に戻っていた。元の、青年の姿に。憐れみを向けて、彼はしゃがみこんでリーザの肩を叩く。
「ひっ……」
ビクッと跳ねた彼女を見て、彼は眼を瞑り、ゆっくりと立ち上がった。
「セレニア、回復したか?」
「何とか出る分ぐらいはな、いくか?」
彼は頷く、リーザを尻目に、彼は下がった。
「兵士たちを早く治療するといい。まだ全員生きている。派手にみせたが、手足以外は壊していない」
まだ震えているリーザに、背を向けて彼は言葉をかける。リーザはその声を聞いて、涙を流したまま顔を上げた。
リーザが一瞬みたジュナシアの顔は、彼女を憐れんでいるかのようだった。
「……俺は、女は殺せない。だから、安心していい。君は殺さないから」
セレニアに聞こえないように、静かに彼はリーザに言葉を残した。それを聞いたリーザは自分の涙をぬぐい、よろよろと立ち上がった。
彼女が気づいた時には、彼らはいなくなっていた。それを理解した時、リーザは情けなさと、安心感でさらに涙を流した。
涙を流しながら、彼女は弟の下へと駆け寄る。そして思う。こんなものがあっていいのかと、人智を超えたモノに対する恐怖心を抱いて、涙を流しながら彼女は弟を治療するのだった。




