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漆黒のエリュシオン  作者: カブヤン
最終章 白百合の中で空を仰げば
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第50話 全ての者に瞬きを

 不思議と痛みは感じてなかった。


 流れでる血も、一瞬で止まった。


 普段ならば言ってのけるだろう。腕一本ぐらいがどうした、と。


 だが違った。今この瞬間において、それは文字通り致命的で。


「アルスガンドの刻印は、魂に直接刻み込まれる魔の陣。それは手の甲に現れてはいるが、実際手の甲にはない」


 血に染まる剣を払い、夕日を背にオディーナは語る。赤く染まる空、赤く染まる橋、暗い谷の底。


「魂に刻まれた魔の印。それは、腕を斬り落とされたとしても瞬時に身体の他の場所に現れる」


 オディーナの眼は哀しみに染まっていた。終わってしまったという哀しみ。これで全ては終わったという悲しみ。穏やかに、死に往く世界をただ見て。


「だが、我が剣は違う。我が剣はアズガルズの石でできている。あの方が削り出し、創り上げた魂喰いの剣。聖光騎士が持つ対魔の剣とはモノが違う。これは、魂を断つ剣である」


 ゆっくりと、オディーナは剣を下ろした。騎士団のマントを風に揺らし、大きく大きく立ちふさがる最高の騎士は一人、哀しみに染まった顔で彼を見る。致命の一撃を受けた彼を見る。


 死に往くジュナシア・アルスガンドを見る。


「お前は、一年以内に、いや刻印の発動際を斬ったのだ。数か月内に老いて死ぬ。あの男のように。刻印を断ち切られたあの男のように。まぁ……お前たちと同じように言えば、報いを受ける、というのだろうな」


 幾多の、敵を殺して、幾多の、恨み言を聞いて、幾多の、血を浴びて


「日が沈む……最後の太陽だ。眼に焼き付けておくがいい。これこそがお前が断ち切ってきた者たちが見た光景だ。私は、お前が老いて死ぬまで待ちはしない。今日ここで、お前は死ぬのだ」


 それでも生きてきた今が、終わりそうになって。


「父に詫びるがいい。母に詫びるがいい。貴様が生を願った全ての者達に詫びるがいい。所詮人は、生きれば死ぬ。ああなんとも、なんとも容易く、虚しいものよな」


 オディーナの顔が、声が、優しさと悲しさに包まれていた。世界を混乱に落とした者とは思えないその姿。きっとこれこそが、彼自身の姿なのだろう。


 慈悲深く、愛情にあふれ、人の死を悲しむ。


 ジュナシアの耳に小さく水が跳ねる音が届いた。彼の左腕が橋の下、渓谷の最深部の水辺に落ちた音だった。


 その音は、彼以外には誰も聞こえてなかった。聞こえるはずがなかった。


 ジュナシアは残った右手を肩まで上げた。深紅のマントが彼の肩に沿って広がる。


 バラバラと落ちる数十本の短剣。あっという間に彼の足元は短剣で埋まった。


 舌を少し出して、唇のすぐ横を舐めた。そこにあったのは自分の血。腕を斬り落とされた時に飛んだ自分の血が頬に着いていたのだ。


 少しの塩辛さと鉄の味臭い。生々しい口当たり。血は肉の元であると知らしめるその感触。


 地面を見る。夕日に照らされてわかりにくいが、自分を中心に血が放射状に飛び散っている。オディーナの剣圧で飛び散ったのだろう。


 ジュナシアはその場で右足を踏み込んだ。大きく、ドンと音が鳴る。地面に落ちた大量の短剣が浮いた。


 それを丁寧に、右手に握った赤い剣で払う。重心を、位置を、狙いを、向きを、威力を、勢いを。丁寧に丁寧に、だが迅速に、眼にも止まらない速度で調整して。


 そして打ちだされる。大量の短剣。まるで刃の雨のように。そこにあった数十本の短剣がオディーナの身体に向かって飛んでいく。


 おろしていた剣を慌てて振り上げるオディーナ。この場において、初めて見せた彼の驚きの表情。


 降り注ぐ刃の雨。数十人の兵を一気に排除できるその技は、アルスガンドの長が得意としていた技でもある。


 オディーナは剣を振った。力強く大きく。それだけで刃の雨は塊となって地面に落ちた。


 そしてもう一度、オディーナは剣を振った。続けて迫りくる短剣を払い落とした。


 さらにさらにもう一度。段々とオディーナの剣は速度を増す。段々と、段々と。ついにその剣は、その場にいる誰の目にも映らなくなった。


 音だけが鳴り響く。ジュナシアは次々と、次々と短剣を撃ち出す。何十本も何十本も。どこにその剣があったのか。際限なく剣を撃ち出す。


 それは実際、ほんの僅かな時間だったのだろう。撃ち出した剣は気がつけば全て橋の上に落ち、オディーナが打ち落とさなった刃は彼の遥か後方、王都への門に突き刺さった。


 それは、明確な意志。ここで死にはしないという意志。


 胎児の頃から持っていた、彼の存在意義そのものでもある生きるという意志。


 オディーナは微笑んだ。嬉しかったのだ。何が嬉しいのかはわからないが、彼は嬉しかったのだ。


 駆けだしたジュナシアの姿に、オディーナは微笑んだ。哀しみに染まっていた眼は哀しみを忘れ、今の彼の顔はただ、喜びに満ちていた。


 無謀ではない。


 無意味でもない。


 それは明確に、明確に意味のある行動。生きるための最善の行動。


「ボルクス! ジュナシアを助けるんだ! 行くぞ!」


「無茶せんでくださいよ国王陛下ぁ!」


 兵をかき分けて、飛び出した二人の男。ロンゴアド国国王ランフィードと、ロンゴアド兵団が団長ボルクス。


「マディーネ、ゲート刺して! 戻りで使うから!」


「本当に橋降りるんですか!? 下見えませんよ!?」


「下はある! 落ちてればちゃんと着く!」


「魔力殆どないんですから無茶ですって!」


 赤い棒を交差させて、橋に突き刺す魔法機関が埋葬者のマディーネと、本のページを急いで捲るハルネリア。


「正直、近接戦を仕掛ける意味が分かりません。あの剣の振り、未来視ですら追いつきません。短剣がなくなったのならば魔術で遠距離から攻めるべきです」


「イザリア足が速い! 私に合わせろ! お前遠距離戦闘する気ないだろ!」


 城塞の中から飛び出し、風のような速さで兵を躱し走る二人。イザリアとセレニア。




 ――これらこそが、彼が得た今までの全てだった。




 アルスガンドの一族に生まれた彼は、名が無かった。長の子であるということ以外、彼は自分を表現できる術を持たなかった。


 だから彼は一人だった。常に一人だった。どんなに愛情を注がれても、どんなに想いを寄せられても、それでも彼は一人だった。


 受け止める『彼』というものがなかったから。


 だが今は違った。何人もの者たちが彼を認めている。


 その強い意志を、その強さを、その弱さを、皆が認めている。


 きっかけは一人の少女だったかもしれないが、今この場で彼を助けようという者を作ったのは間違いなく彼自身の生きた結果である。


 ファレナ王国の兵たちは誰も止めなかった。もはやこれは侵略戦争ではない。これは人の歩みそのものだから。


「リーザさん、ネーナさん。貴女たちもジュナシアさんの助けを」


「え、あの……姫様は?」


「私は戦えませんからね。だから、手を取りに行きます。私の手を取ってくれたあの手を」


 日は傾く。地平の彼方。太陽は山に隠れすでに見えない。


 空には白く光る月。この月は、誰の最期を見る月か。


 オディーナは笑った。声を出さず、優し気に笑った。これでは自分は物語の悪の王ではないかと思って、目の前に迫る英雄たちを見て、笑った。




「ああ、いいな。これは何とも、心地がいい……」

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