第39話 夢幻の月
そこは、地獄。
鉄格子に囲まれて、叫び声と怒号に包まれて、白い肌を黒く赤く染めて少女は石の上に倒れていた。
その眼は全てに絶望し、光の一欠けらもなく。痛みすらももはや慣れきってしまっていて。
胸にこみ上げる何か。それはあっという間に口からあふれ出る。血と胃液、混じったものが床を汚す。
そこは、地獄。
生きているということ後悔させられるほどの地獄。
汚れきった自分の身体、その心、日に数度、代わるが代わる飽きては責められ、責められては飽きられ、治療されては痛めつけられ。
目元から溢れる涙。思い出されるのは家族と過ごした記憶。楽しかった時の記憶。
もはや脚は動かない。腕も動かない。逃げ出すことなどできない。
そこは監獄。砦の中の監獄。征服という夢を叫び侵略してきた兵たちが作った楽園。
少女はただの村人だった。少女が住む国を奪いに来た軍勢が、食料を得るためにたまたま立ち寄った村に住んでいただけの、村人だった。
村はそこにいた全ての人たちの命ごと何もかもを奪われ、焼き払われた。
彼女の故郷はもうこの世界のどこにも存在しない。
血と泥と、鉄と体液と、涙と悲しみと。過去を奪われ、今を奪われ、未来を奪われ。
少女に罪はあるのだろうか。生きていることが罪なのだろうか。生き残ってしまったことが罪なのだろうか。
白百合を積むことに心を奪われ、一人死から免れた少女。彼女は叫んだ。心の中で叫び続けた。殺してくれと、家族と同じように、殺してくれと。
摘んだ白百合は、いつの間にか手から離れて、純白は黒く汚れて。
美しい夢を、眠ってい間だけでも美しい夢を。夢の世界を。夢の幻を。
「復讐に意味などないと、人は言う」
積み上げられる身体。積み上げられる頭。それは木でできた人形のようで、しかしそれは、決して人形ではなく。
流れる血は、大きな水たまりとなって光輝く。ゆらゆらと蝋燭の火を写して、その赤い水面は輝く。
「復讐は復讐を産むと、人は言う」
その血は白い身体を濡らして、何よりも強く、美しくその肢体を輝かせる。
銀色の刃を手に持ち、虚ろな目で赤い水を踏む白い女。全身を血で濡らして、血浴びをしながら少女は一人、溜息をつく。深く、深く、深く。
「復讐しても誰も喜ばないと、人は言う」
蠢く人の形をしたなにかに銀の刃を振り下ろす。飛び散る赤い水。白い肌を、濡らし汚して。
「だったら、あれは、何?」
血の海の中心で、一糸まとわぬ姿で全身を血にぬらす少女は、笑っていた。心の底から笑っていた。
愉快だった。痛快だった。自分を嬲り続けた怪物たちを斬り刻むのは、とてもとても愉快で、痛快だった。
笑っていた。笑い続けていた。飽きることなくただただ肉を斬り続ける少女は、笑い続けていた。
「楽しかったな……うん、楽しかった……肉を、肉をね……あいつらの口に入れてやったの。私を嬲った男たちの肉を、切り取って口に入れてやった。泣きながら、自分で自分の肉を、食べてた」
彼女は笑っていた。玉座に座って彼女は笑っていた。
美しい白い肌を月に照らして、輝く黄金色の髪をなびかせて。
「汚れた私。汚れてない私。同じ顔、同じ身体。違うのは、魂だけ。エリュシオンの形だけ」
ガラス玉のように割れて消えた過去の記憶。楽しくて、懐かしくて、そして二度と思い出せない記憶。
「復讐は、人を前へ進める最高の道具。白百合を手にしたままの私が、白百合を失った私に勝てるわけがない。勝てるわけが、ない」
玉座に座る純白の女王。凄まじい魔力の奔流が、玉座の間全てのカーテンをなびかせる。
「だから私が手に入れる。この世界最高のエリュシオン。私は私が欲しがっているモノを手に入れる。私が想う彼を私が手に入れる」
光は揺れる、暗闇は揺れる、月が輝く。
「リケドルトの城が落ちました。女王陛下」
「そう」
石でできた扉の向こうにいる男の言葉に、そっけなく、興味もなく、その一言だけ彼女は答えた。そ例外は無音。風が窓を打つ音だけが響き渡っている。
扉の向こうから気配が消えた。もはやあの男に興味はない。この世界に興味はない。
彼女は笑っていた。玉座に座って一人笑っていた。そして泣いていた。
胸を打つ何か、心を動かす何か、それが何であるかは、彼女にはわからない。まだわかる時ではない。
彼女は見た。遥か遠くにいる何かを。醜悪な自分の姿を見る、何かを。
血に濡れた白い腕を伸ばして、何かを掴もうと手を揺らす。しかしその手が何かを掴むことはない。
外から漂ってくる夜の匂い。鉄の匂い。血の臭い。彼女がその臭いが、心の底から嫌いだった。
光が揺れる。血が流れる。臭いが溢れる。ファレナ王国のどこかで血が流れている。
遠く、遠く、遠く、遥か彼方に追いやられた彼女の故郷は、淡く切なく、夢のようで。
うっすらと笑う口元。優しく微笑みを浮かべる彼女。
「結局、人は戦う。抑圧すれば反発し、慰めれば増長する。人がいる限り、死は無くならない」
それは誰かに伝えるための言葉ではなく――
「なんて、醜いの。世界は、人は、どこまでもどこまでも、残酷で、醜悪で。でも、すごく、すごく……すごく綺麗……」
空に浮かぶ月は全ての人に平等に光を届ける。
人のために、自分ができることをしようとする純白の娘。
自分のために、人の全てを奪おうとする純白の娘。
二人のファレナが同じ月を見ていた。伸ばす手は、互いに交錯することは決してなく、その間にいる何かを、二人は必死に求めて。
夢幻の彼方へ。最後の理想郷へ。二人はただ力の限り、手を伸ばした。




