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漆黒のエリュシオン  作者: カブヤン
最終章 白百合の中で空を仰げば
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第37話 夢想

 血の海、赤い剣、青い剣、赤い足、泣き叫ぶ人、すがる女性、鳴る心臓。


 頭の中を走るその記憶は、誰の記憶か。幾度の喜びを感じ、幾度の悲しみを感じ、感情は右に左に。


 全ては、アルスガンドの記憶。百を超えるアルスガンドの名を持つ男たちの記憶。


 それは、戦いの歴史。幾多の命を奪う歴史。


「本当は名前、欲しかったんだ。でも言えないだろうそんなこと。お前と呼ばれる度に、心の中でお前じゃないって、言い返していた」


 片膝を抱え、丘の上に座る少年。空に浮かぶ記憶の映像の下で、彼は一人そこに座る。


 少年の言葉は誰にも届かない。


「最初……最初は、いつだっけ。日付まで覚えてないな……刻印を得る前に、母さんが連れて行ってくれた時、見てるだけでいいって言われたんだけど、相手に見つかって、咄嗟に短剣を投げて、首に刺さって……何て言うか、ああ、何も感じなかった。すごく怖いことだと思ってたんだけど、何も感じなかったな」


 少年は近くにあった草を引き抜く。手を広げて、風に乗せてそれを飛ばす。


 人を殺すことは、これと違いはない。


「それが酷く怖かった。だから、逃げた。その日から何だかんだと理由をつけて、村から出なかったんだ。いつか、何も感じないということに慣れそうで。人でなくなるようで」


 火が浮かんでいる。触れれば熱い。離れれば暖かい。遠くに行けば何も感じない。


 これが、触れても何も感じなくなってしまったら、二度と暖かさを感じれなくなりそうな、そんな不安が心を襲い続けている。


「……皆、そうなのかな。いやきっと、違うんだろうな。誰の記憶にも、人を殺せるようになるのが怖いなんていう記憶、ないもんな」


 流れてくる記憶の渦を、ただ静かに見上げる彼。記憶はただの記録。それに拘る必要はないし、それを知って意味などはない。


 それはただ、数百の人の歴史を一人の人に集めるだけの、走馬燈。


「母さんを殺した時に、人に戻らなきゃよかった。あれは最悪だった。最悪の……気持ち……そうだな。あの時知ったよ。人を殺すのは最悪だって。でも、母さん以上に殺しにくい人間、いるか? いないだろ? なぁ、いない、だろ?」


 丘に一人、見下ろす下は何もなく。聞こえるは人の声。言葉ではなくただの声。


 彼自身が理解しようとしていないから、それは理解できない。


「……はぁ。結局、全ては過去なんだ。これに、意味などないし、見る気もない。もういい。言いたいことがあるなら、こそこそするなよ。いい歳なんだからさ」


 過去に何があったとしてもそれは過去だから。少年はいつの間にか青年になって。赤と青の双剣を携えて。ジュナシア・アルスガンドは遠くを見る。


「結局、何がしたかったんだ? ああ、まぁ尊敬はしていたさ。15で当時の長に剣で勝って、長になったんだ。俺じゃ無理だ。15当時の俺じゃあなたには勝てない。刻印を使えばわからないが……それは、無しだろ?」


「あれは無しだろ。規格外だ。まぁ俺のもそれなりに反則的な刻印だったけどさ。ありゃ無しだ」


「今やれば、どっちが勝つかな……なぁ、父さん」


「そりゃ十中八九お前だ。俺は歳をくって体力落ちたしな」


「はぁ……」


 暗闇から現れる黒い男。ジュナシアはそれを見ることはしなかったが、それが誰かはすぐにわかった。


 子供のような顔をして、二人は記憶の海を見下ろす。


「アルスガンドの記憶はな息子。血の記憶なんだ。一つ眠る度にそれは少しずつ思い出されて、そして忘れる。きっと起きたら、お前は今この夢を忘れるんだ」


「何の意味があるんだこれに?」


「意味なんかねぇよ。長の儀式は、魔力の譲渡だ。人は魂から流れ出た魔力は血に伝わって、肉に伝わって、んで、残る。血や肉はその人間の魔力が残る。土に還ってバラバラにならない限り、な。長になる儀式ってのは、あそこにある長たちの肉体から魔力をほんの少しだけ移す儀式なんだ」


「ああ……だから、あの空間はアルスガンド以外だと入ることすらできないのか」


「そうだ。魔力の譲渡はその本人でなければ身体の機能を奪うこともある。アルスガンドの長は誰よりもアルスガンドの血の濃さが要求されるのは、そういうことだ。まぁな、俺がフラフラしてたせいでお前の代で血がかなり薄くなったんだが……ダメ元でやってみるもんだなおい」


「ダメ元……はぁ」


「へへへ、魔力は魂の欠片。魂にはその人の人生が記録される。だから記憶が流れ込んでくるこれは、そのおまけみたいなもんだな」


「全く、これじゃ寝た気になれないぞ。血と戦いと、碌な記憶がないじゃないか」


「そう言うなって、直ぐ慣れるさ。まぁ悪いことだけじゃないんだぜ。ほら、見えないか? あそこ」


 男の人差し指の先、暗い丘の下、無数の記憶の壁の奥に、それはあった。


 それは、手だった。その記憶の主の手。目の前の布を広げて交差させたり折り曲げたり、布を両手で広げながら、ゆっくりとその視線は下に落ちる。


 記憶に映る、赤毛の赤子、布を必死にその赤子に巻いて、だが巻いた先から解けてきて、それを押し込んで、また緩んで解けて。


 声が聞こえた。独り言だった。いっそ針で止めてやろうかと、その声は言った。


「俺は、こうなると思ったんだ息子。ああ、決していいことじゃないんだが、それでもエリンフィアの記憶がお前に残ってくれる。それを望んだ。全て忘れると思うがそれでも、お前の中にあいつを残してやりたかった」


「こんなことしなくても、残るさ。父さんの倍は母さんと一緒にいたんだ。眼を瞑れば、いつでも姿を思い出せるし、いつでも声が聞こえる。でも、まぁ、ありがとう」


「かわいくないやつだなぁ。まぁ、いいか……実は俺、知らなかったんだ。死ぬまで知らなかった。エリンフィアがハルネリアの子を腹に入れたなんて知らなかった。だからその、赤髪だった時、本気で浮気されたと思ったよ」


「馬鹿だな」


「まぁな……俺のばあさんが赤髪だったから、そっちから来たんだと無理やり納得させたんだが気が気じゃなかった。まぁエリンフィアの本来の髪の色知ってるやつなんか呆けた老人たち以外にいないんだけどさ。まぁなんだ、外で子供作った俺がいうことじゃないんだがな」


 本当に残念な人だなと、ジュナシアは思った。生前は威厳溢れる長だった父が、ここまで人間臭かったということが、どことなく残念で、どことなく嬉しかった。


 羽が舞う。心の中に。その羽に乗って、周囲が白くぼやけていく。


「そろそろ起きるか息子」


「なぁ……何で、ハルネリアに会わなかったんだ? いつでも会えただろう?」


「うん? ああ……それは……何て言うかさ……あるだろ。何て言うか、こう、そりゃ、年寄りになって死ぬ前には会おうと思ってたよ? でもさ、タイミングがさ……何て言うか、一度会っちまったらもう二度と……なんだ……会わないことに耐えれなさそうで……」


「自分勝手だろう。あれは、父さんを待っていた。ずっとずっと、きっと、今でも。アルスガンドの村に入った時のあれの顔、みせたかったよ」


「……悪いことしたなぁあいつには。でも、勘弁してくれよ。俺、そこまで強くなかったんだ」


「情けないな」


「ああ、そうだな……なぁ息子、一つ、頼みがあるんだ。聞いてくれるか?」


「無理を言うなよ。起きたら忘れるんだろ? どうやって聞けばいいんだ」


「そこを何とか曲げてさ。いろいろ規格外だったんだお前は。無理やり覚えるぐらいわけないだろ?」


「無茶言うなって……はぁ、まぁやってみるよ。で、何だ? 誰かが俺の肩を叩いている。そろそろ起きてしまう。急いでくれ」


 だんだんと世界が白くなっていく。気がつけば、すでに丘の上以外は真っ白な光に包まれていて。


 舞う白い羽。浮かぶジュナシアと、その父親。


「ああ、その、なんだ……いろいろ思うところあると思う。でもな、ハルネリアの思う通りにしてやってくれないか? あいつは20年近く泣き続けた。もう、いい加減さ。楽にさせてやりてぇんだよ」


「それは……」


「頼む。あいつを、母親にしてやってくれ」


「それは……俺は生まれてずっと母さんの子だったんだ。今更、他の人が母だと言われても、心がついて行けない」


「深紅のマントはヴェルーナの国宝なんだ。あれの魔道具としての価値はその双剣以上なんだ。それを、ポンと出したんだぜ。まぁ、道具の価値じゃねぇけどさ。あいつは、それほどまでにお前を欲しがっているんだ。あんなに明るくなったしさ。なぁ、もう暗い顔して欲しくないんだよ俺は」


「見て来たようなこと言うが、父さんは記憶だろ? 魂でもないのに何でそこまで……いや、夢の中だからと言われればそこまでだけどさ」


「頼む。俺が本気で惚れた女だ。幸せになって欲しいんだよ」


「母さんにバレないところで何度浮気したんだあんたは……」


「まぁ男だからな。娼婦だけじゃあなあ……ま、人の事言えないだろうが。お前もイザリアの相手した次の日にセレニアの相手したりしてたじゃねぇか」


「それは……待て、何で知ってるんだ? まさか見て……」


「いやいや、俺、お前の記憶の中の俺だから。さすがに息子の情事覗く趣味はねぇって」


「くっ……何て夢だ。早く覚めろ」


「なぁ息子、ハルネリアをさぁ」


「わかった。わかったよ。母と呼ぶのは……まだ、その、きっかけがさ。でも……ああ、そうだ。そうだな。深紅のマントは貰うよ。王にも……ぐ……なるよ」


「絶対だぞ?」


「わかったよ。早く消えてくれ父さん」


「へへへ、ありがとよ息子。もう死ぬなんて考えるじゃねぇぞ。向こうに着たら叩き返すからな」


「……わかったよ」


「へへへ、いい子供作ってくれたぜハルネリア。いい子供産んでくれたぜエリンフィア。ちょっと頭固いが最高だ」


「……さようなら父さん」


「ああ」


 その一言を残して、全ては消えた。それは記憶の夢。血の過程。


 白い光に包まれて、気がつけば闇の中。ゆっくりと瞼を開ければその眼に飛び込んでくる太陽の光。


 朝。鳥は鳴き、霜が草を濡らす。


 胸に伝わる柔らかい肌と、温かい体温。寝ぼけ眼に自分をみるその顔は、見慣れたいつもの顔。


 アルスガンドの長の家でジュナシアは目覚めた。嘗て彼が住んでいた家。いつも彼が寝ていたベッド。傍らには見慣れた顔。一瞬、過去に戻ったかのように彼の頭は錯覚した。


 でも違う。声が聞こえない。村人の声が。朝になれば訓練に出かける子供たちや、畑に収穫に出る大人たちで村は賑わっていた。今は静か。誰もいない。何も聞こえない。


 肩に掛けられたセレニアの手の上に、彼の手が重なる。


「セレニア、早いな。お前の方が早いのは珍しい」


「お前が、ガタガタ動くから……」


「ん……変な夢でもみたかな……悪かったなセレニア」


「なぁ、お腹が、すいた……下にいこう……」


「寝ぼけてるのかセレニア。行っても何もないぞ」


「あれ……? ああ……そうだったな……今はもう誰も……」


「いや……ハルネリアが一晩で毒抜きしてみせると言っていたな。何かできてるかもな。セレニア、着替えてハルネリアたちのところへ行くぞ」


「うん……わかった」


 今は全てが過去。過ぎ去った思い出。


 思い出の故郷でやることは全て終わった。ここからは未来のために。


 赤と青の双剣を身に着け、彼は窓を閉める。日の光が家に入らないように、彼はカーテンも閉める。


 もうこの家に用はない。


 全てに別れを告げて、彼はその家を後にする。全てを過去にして、彼は未来に進む。


 村の中心の広場にはすでに皆が待っていた。ハルネリアに深紅のマントを手渡されて、彼は迷わずそれを羽織る。自分の物だから、迷うこともない。


 ハルネリアから投げつけられる木の実。彼はそれを口にして、二度噛む。唇がしびれることも、身体が拒否することもない。食べても大丈夫だと判断して、彼はハルネリアに向かって頷く。


 深紅のマントを風に揺らして、彼は村の出口に向かう。ここから始めるために。ここから終わらせるために。


 唐突に彼の腕が絡めとられた。深紅のマントの中に滑り込んでくる黄金色の頭。その頭の主はマントの中で彼の身体にしがみ付く。悪戯っぽい顔をして。ファレナは笑う。嬉しそうに。楽しそうに。


 少しの間もなく、ファレナの腰はマントの上から蹴られ、彼女は強引にマントから引きずりだされた。木の実を手に、セレニアが微笑みながら、しかし眼だけは怒りながら、ファレナの引っ張っていった。


 周りは変わった。彼も変わった。でも変わらないものもあった。


 声が聞こえる。村人の声が。今はいない村人の声が。


 聞こえないはずの声を聞くのもこれで最後。心の中で一言、行ってくるとだけ言い残してアルスガンドの長は旅だった。人を救うために。


 ――彼の旅立ちを、村人は花を掲げて見送った。

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