第36話 最後の長
両手に剣。それは決して折れることのない人の剣。
遥か遠く、全ての人が忘れるほど昔、それには夢があった。永遠に続く人の痛みを、輝く印で払う彼には、願いがあった。
「我が一族よ。我が子たちよ。どうか忘れないでくれ。我らの力は、人を救うための力であるということを。決して、決して溺れるな。力に、悪意に」
その言葉自体は遠い過去に消え去り、一族も守護者から暗殺者へと変わった。血を残すために、幾多の血を流し、結局、彼の願いは閉ざされてしまった。
人が生きるのに意味などはない。ただ生まれて、ただ生きて、ただ生を終える。それに意味などはない。
どんな人間でも、どんなことをしたとしても、生きた先に死ぬ。それが道理。それが真実。
生に意味などはない。
花弁が舞う。涼やかな風が吹く。
一万の年、数万の月、数百万の日、過ぎ去りし時は膨大。たどり着いた確かな記憶も、誰かの想いも何もない。人が生きるにはあまりにも長すぎる年月。
だがそれでもたどり着いた。膨大な時を重ねて、数多の生の涯てを経て、ついにたどり着いた。果ての先。終焉の杭。永遠の長。救世の王。
――彼はここから始まるのだ。
「うっぐ……もはや……魔力が……頭首様、今少しの力を、長を定めるための最後の力を……私に……!」
もはや座っているというその行為自体がかなり肉体的に辛いのだろう。彼の首は、腰は、自分の重さに負けて震えていた。
アルスガンドの最期を語るために老い続ける肉体を生かしてきたルシウスはもうすぐ死ぬ。そのことはもう誰の目からも明らかだった。
哀れなものを見るかのようにセレニアが立ち尽くす。そして彼は、静かに、ただ無言で頭を下げるルシウスを見下ろす。
浮んだのは疑問。今ルシウスは、消えそうな己の命全てをかけてそれを行おうとしている。それがルシウスの生涯において最後の仕事になるだろうこと、それを彼は知っていた。
だから、彼は疑問に思った。こんなものが、お前の最期でいいのかと、彼は疑問に思った。
だから、彼は聞いた。
「ルシウス、このまま静かに眠ることは、できないのか?」
アルスガンドの一族は世界で最も死に近い一族。そして、世界で最も生に近い一族。
生や死に意味などはない。どんなに華やかに生きたとしても死んだらそこで終わり。例え肉体が腐らず残ったとしても、それはただの入れ物。ただの置き物。
だからこそ、精一杯に。生死に意味などないからこそ、精一杯に。
「できません。私の悲願。頭首様の悲願。エリンフィア様の悲願。それは、あなたの名をアルスガンドにすること。アルスガンドの長にすること。恥ずかしくも生き残ったアルスガンドの年長者として。私はそれを成し遂げねばなりませ……ぐっ……」
立ち上がろうとしていたルシウスの脚が急に力を失った。大きな音を立てて土埃をあげて彼は倒れ込んだ。
必死に顔をして、ルシウスは地面を這う。もはや立ち上がることすらできないのだろう。しかしそれでも、ルシウスは進む。刻印の壁に向かって。
「もう、いい。何の長だ。皆死んだ。結局、お前に聞いてもよくわからない。よくわからないうちに皆死んだ。だから、もういい。名も、貰った。正直まだ何というか、呼ばれてもしっくりこないんだが、それでも名も貰ったんだ」
それは優しい声だった。彼は優しい声で、ルシウスに話しかけた。歩きながら、ルシウスをゆっくりと追いながら。
「ルシウス……もういいんだ」
ルシウスは進む。息を切らしながら、地面をゆっくりゆっくりと這いながら。
ゆっくりゆっくり、歩くよりも当然ゆっくり。
「はぁはぁ……ああ、一つ、一つだけ、私個人のことを一つだけ……セレニア、我が娘よ。聞いてくれ。返事はしなくてもいい。お前は私と話したくはないだろう。だから、返事はしないでもいい」
その言葉に、酷く哀しい顔をしたセレニアが反応した。彼女はゆっくりと歩き、だがゆっくりと這うルシウスからは一定の距離を取って、ゆっくりゆっくりと彼女はついて行く。
「きっと、恨んでいるだろう私を。任務任務と、外に出てばかりでろくに構わなかった。そして……イセリナの死を知らなかった。償いとしてイザリアを共に暮らせるようにしてもらったが、逆に駄目だったらしい。イザリアは結局、死ぬまで私の眼を見てくれなかった……ははは、愚か者だ。私は」
セレニアは何も言わない。何も言う気が無いのだろう。ただゆっくりと彼女は歩く。
「だが、私は、イセリナが私の本当の妹だと知らされても尚、それでも好きだった。母さんには……セオドアには悪いが……私は……間違ったことをさせられたとしても、それでも、愛していた」
セレニアの足が止まった。もはや追う気がなくなったのだろうか。苛立ちを見せて、彼女はその場に止まった。
「……セオドア。彼女は、そんな愚かな私を愛していると言ってくれた。だから、私は彼女を愛した。必死にイセリナを忘れようと、任務も我武者羅にこなした。でも、でもね……一番じゃあ、無かったんだな……大好きだった。きっと、いやセオドアを愛しているのは間違いない。でも、一番じゃ……」
小さく、音にならない程小さく、セレニアは舌打ちをした。憐れんでいたその顔は、いつの間にか苛立ちに包まれていて。
だから嫌いなんだと、セレニアは心の中で口にする。
「私は愚か者だから……忘れられなかったから……でも、でもさ。セレニア。君だけなんだ。君だけが、アルスガンド様の、若様の傍にいるんだ。君だけが、救世の刻印に抗ったんだ。血が薄いと、若様に近づけるなと、長老たちに言われ続けたセレニアだけが……ここまで着いてこれた」
床にうつ伏せになって進むルシウスの顔は誰にも見ることはできないが、彼は微笑んでいた。嬉しそうに涙を流しながら彼は微笑んでいた。
「自信を持ってくれよ。セレニアは、綺麗だ。一番だきっと。ねぇ、若様、こいつ、いいでしょう? ねぇ、いい子でしょうこいつ。精一杯背伸びしているけど、本当は優しい子なんですよ……」
「ああ、そうだな。セレニアは俺が貰うぞルシウス。大丈夫、一番だから。大丈夫」
ピクリと反応するセレニアの眼を、彼は真っ直ぐに見る。迷うこともない。偽ることもない。
「どうぞ、貰ってやってください。できれば……二番とかは、創らないでくださいよ。頭首様といい、その前の先代といい、ここ数代妻を多く娶る傾向がありますからね」
「ああ……そんなことしないさ」
「はは、イザリアが聞いたらまた暴れちゃいますね……いや今は、成長したかな。若様、随分とイザリアにはご執心でしたが、本当に一番なんですか? もし、他にも誰か気になる人がいたりは?」
「あ……その……なんだ、それは……」
「おやおや、怪しいぞこれは。セレニア気をつけるんだぞ。気がついたら二人目三人目が増えてるぞ。頭首様もそうだった。本当はハルネリア様以外にも相当……ああ、これ以上は駄目かな。まぁこれあの人の二つ目の秘密なんですけどね。ハハハ」
刻印の壁の前に通じる道には数段の段差があった。ルシウスは腹を打ちながらそれを上っていく。
少しずつ、少しずつ、もうほんのわずかで、刻印の壁。
「……セレニア」
何か話してやれと、彼は促す。ルシウスはもうあとわずかで死ぬ。死ぬ前に、言葉をかけてやれと彼は言う。
大嫌いだった父親。それでも父親。ここで何かを言わなければ、きっと後悔が残る。セレニアはそれを知っていた。しかしそれでも、言葉が出なかった。口が動かなかった。それはただの意地。不要な意地。
だがそれは、彼女にとって何よりも超えれない壁。
「はぁはぁ……」
ルシウスは刻印の壁に到する。壁をよじ登り、壁を背にし、辛うじてルシウスは立ちあがる。最後の力を振り絞って。
ようやく向けたルシウスの顔。その顔は深く、ただ深く愛しさをもって彼らを見ていた。アルスガンドの長の子である彼と、自分の子であるセレニアを見ていた。
「古の、アズガルズの魔導士が極めし魔導。111の刻印、それら全てを、アルスガンドの名の下に」
謳う風。輝く壁に飾られた刻印。手に刻まれた刻印。
「よろしい、ですか。アルスガンドの長に与えられるものは、刻印を壁から人へ譲渡する能力、だけです。刻印は、アルスガンドの血が無ければ身に触れただけで全ての魔力を奪い取り消え去ります。そう、実際、長の能力は、今は意味がないのです」
「そうだ。意味などない」
「ですが、意味があります。刻印の譲渡は、長の意思があれば世界中どこでも行うことができます。もし、若様が、セレニアと子を成したのならば、その子に刻印を継がせることもできます。そう、継ぐ、ことができるようになるのです」
「……それが、大事なのか?」
「大事です。いいですか。血の濃さなど関係が無い。刻印は、アルスガンドの血統であれば誰にでも刻み付けることができます。ここに入れない召使の物も、刻印だけは得ていたでしょう? そういう、ことです」
「ルシウス……一つだけ、最後に一つだけ教えてくれ」
「はい……」
「古いアルスガンドの長が書いた書に、刻印の壁が何か強大な力を封印しているという記述があった。いったいそれは、何なんだ?」
「想像は、ついているはずです」
「……本当にこの壁の向こうがエリュシオンなのか?」
「はい、といいたいところですが……たぶん、違います。刻印は、確かにエリュシオンの力をこの世界に引きずり出すもの。ともすれば、エリュシオンは刻印と繋がっているはず。皆そう思うはずです。ですが、それは今代で、若様がここに出てきたことで少し事情が変わりました」
「どういうことだ?」
「エリュシオンに繋がっているどころか、エリュシオンに入ってしまった人がここにいるのです。ははは、壁の向こうにいませんよね若様は」
「……ああ」
「若様の中のエリュシオンは、今この瞬間も、少しずつ少しずつ大きくなっていっています。わかります、よね。魔力消費もエリュシオンからの魔力の供給に押し負けて、段々小さくなっているはずです。数年前よりも今の方が、ずっと長く刻印を発動できているはずです」
「その通りだ」
「きっと、それが答えに繋がるのでしょう。魔導とエリュシオン、アルスガンドと、刻印。魔と人」
「……ああ」
「ふふ……では……」
歌う。壁が歌う。音を立てて輝き、壁が歌う。
輝く刻印の壁。その光はもはや太陽のよう。際限なく、際限なく輝いていく。
光がルシウスの姿を浮かび上がらせる。弱弱しい身体を、必死に支えながら。彼は歌う。
「集え。アルスガンドの魂。積み重ね、束ね、刻印を成して、集まれ。数千数万数億数兆。重ねて人の命と成れ。命じる。一つ、汝は腐敗するなかれ。二つ、汝は力に溺れるなかれ。三つ、汝は全ての人の剣なり」
数える言葉は刻印。アルスガンドが心に刻みこむ言葉の刻印。
「四つ、汝は全ての人の希望なり。五つ、汝は……愛を忘れること、なかれ……汝に名を、名、を……う……」
光の中のルシウスの身体が崩れた。もはや限界だった。
倒れ込むルシウスの身体。眩しい光の中、その身体に伸びる手があった。青い刻印と青い指輪を光の中に溶け込まし、ルシウスの身体をその手は支える。
駆け寄ったセレニアの手は、しっかりとルシウスの身体を支える。そして立たせる。力づくで、強引に。
「ここまできたら最後までやってよ……なぁ……!」
「ありが、とう。セレニアは、やっぱり、いい子だなぁ……」
再び掲げられるルシウスの手。今度は止まることはない。今度は、最期まで、止まることはない。
「汝に名を、アルスガンドの名を。永劫続くアルスガンドが名と、全ての刻印を、汝に。これよりは汝がアルスガンド、なり……」
膨大な光、ついには視界の全てを失わせて。その光は一点に集まってアルスガンドの名を得た彼の身体に吸い込まれていく。
光が集まる。光が入り込む。光が魂を包む。
無数の声が聞こえた。何を言ってるかはわからなかったが、賛美していることだけはわかった。
アルスガンドの名を得た彼の魂に次々と言葉がかけられていく。聞こえない言葉が。
『ありがとな』
その言葉だけは何故か聞き取ることができた。懐かしい男の声だった。
突然に、唐突に光は無くなる。全てが夢の中のできごとだったかのように、光は全て消え、見慣れた刻印の広場が目の前に広がっていた。
そして見た。目の前に真っ白になって崩れるルシウスの身体と、それを必死で支えて立たせていたセレニアが。
「セレニア、もういいんだ」
彼はセレニア声を掛けた。優しい声で。
「もういい……」
セレニアは手を離さなかった。もう一度彼は呼びかけようと思ったが、やめた。歯を食いしばって、ただただ支え続けるセレニアを、彼は待った。
セレニアがその手を放すまで、彼はただただ、待っていた。




