第33話 アルスガンド
誰かが伸ばした腕を払いのける漆黒の影。そこに、慈悲などない。それに、意志など無い。
あるのは遺志。万年の時を経ても朽ちぬ遺志。
それは常に世界の陰に。華々しく人を救う魔法師たちとは対称的に、ただただ陰に。
漆黒の腕は、銀の刃を握る。全てはアルスガンドを名乗った最初の人間の遺志のため。永遠と彼らは陰を行く。
「アルスガンドの一族は、力を得た。誰よりも誰よりも、俺たちは強い」
「だから溺れてはいけない。力に溺れてはいけない。私たちは、私たちのために戦ってはいけない」
「だから意志を持ってはいけない。生きたいと願うことすら、私たちには罪」
語る三人のアルスガンド。一人は赤色の血が混じり、一人は才に見放され、一人はその肉体を失った。
彼らは帰って来た。彼らの故郷へ。焼け落ちた彼らの故郷へ。
そこには、家があった。そこには、畑があった。そこには、鍛冶場があった。そこには、牧場があった。
彼らの記憶の中の村が、そこにはあった。
風が流れる。声が聞こえる。気配を感じる。
子供の声、男の声、女の声。賑やかな声が、彼らには聞こえた。
それを見ても、彼は、ジュナシアという名を貰った彼は、何一つ感じないだろうと思っていた。故郷に対する悲しみや、懐かしさなど、感じるわけがないと思っていた。
だが違った。聞こえたのだ。声が聞こえたのだ。声を感じたのだ。彼に駆け寄ってくる子供たちの気配を感じたのだ。
遠くで手を挙げて、自分を呼ぶ声を感じた。
しゃがみ込んで無表情で花畑に花を植える愛しき人の姿を感じた。
背に寄りかかり、優しく声を掛けてくる恋しい人の姿を感じた。
大きな声で笑いながら、自分の怪我を一つずつ確認する母の姿を感じた。
村の中心にある岩の上に座る、厳しい父の姿を感じた。
全ては幻で、全ては想像で。だがそれでも、彼は感じた。故郷の全てを感じた。
そこに、人はいない。生きてる人はいない。
焼け落ちたはずの家々は、この土地にある再生の力によって元に戻ってはいたが、人は戻らない。死んだ人間は、そこで終わるのだ。
墓があった。無数の墓が。嘗て、ジュナシアとセレニアが二人で創った百を超える墓が村のいたるところにあった。
一つ、アルスガンドの長の屋敷の近くにある墓だけが掘り返され、その中にいるはずの、彼が最も愛しさを感じた女の身体だけが無くなっていた。イザリアを埋めたところだけが掘り返されていた。
「私は……いいえ、私の元となった、イザリアという人間はとても執念深い人間でした。彼女の刻印の力は加速。時を圧縮するほどの加速。それはきっと、彼女が、早く未来になって欲しいと願って、得た能力なのでしょう。彼女は、欲しかったのです。許嫁としての自分ではなく、その先、妻としての自分が」
語るイザリアの魂を持つオートマタ。どんなに魂から記憶を再現したとしても、どんなに肉体を記憶通りに創ったとしても、それは終わった記憶。
つまり、彼女はイザリアではない。肉体を失った瞬間に、イザリアという人間は死んだのだ。彼女はイザリアに極限まで似ているだけの機械人形。
「彼女は気づきました。彼女の想い人に想いを寄せる女が、近くにいることを。だから殺しました。得た刻印の力で、最初に殺したのは、同胞の、若様の世話をする、召使の女でした。次に、彼女をそそのかした召使。そしてその召使に、あの女は若様が好きかもしれないと言った男も、殺しました」
「当然、そこまでして気づかれないわけがない。同族殺しは重罪。だから、私がイザリアを師父の元に突き出した。そして師父は言った。そのまま自害しろ、と」
「私は……イザリアは、嫌だと言いました。死にたくないと、私はあの人に近づく虫を払っただけだと、叫びました。訴えました。あとから思えば、どうしてそんなことをしたのか。でも、その時は、それが正しいと思いました。だから私は、師父様に剣を向けました」
「それほどまでに、想い、願い続けたイザリアの魂。だから、消えなかった。ファレナ王国の死霊使いに好き勝手にされただろうイザリアの身体と魂。それでも消えず、今こうやってここにいる。あそこに埋めたはずの人はいなくなっても、今ここにこうやってイザリアとしている。姉さんは、すごいよ」
「どんなことがあったとしても、俺はあの時父に叫んだ言葉を何度でも言える。イザリアは、俺の許嫁だ。勝手に死なせないでくれ。俺が死ぬまで傍に置かせてくれ、と」
「人の身で無くなったとしても、私はあなたの傍にいます」
イザリアの死体を埋めた穴を、彼らは見ていた。美しい思い出の中に、微笑むイザリアの顔を思い描きながら。
「ここには、全てがある。俺達の全てが。だが、それも過去」
「別れを告げて、旅に出て、結局未だ、私たちはこの村を殺した人間を殺せていない」
「だから帰って来た。聞かせてくれイザリア。お前を殺したのは、誰だ?」
「人には、知らなければよかったということもあります。五つ、呼吸をする間、私は待ちます。聞きたくなければ、そう言ってください。では」
10と数年。彼らはそこで生きた。たったそれだけと言えばそれだけ。そんなにもと言えばそんなにも。
二人は表情を変えず、ただイザリアの言葉を待つ。その姿を遠目から見る村の外の人間。
ハルネリアは彼の父がよく座っていたという岩に手をあて、じっと涙をこらえている。
ファレナはその村の美しさを目に焼き付ける。そこで暮らしていた彼の人生を思い描いて。
全くの別世界に連れてこられたリーザは、自分のこれまでを振り返る。世界で最も古い村で、どんな古代遺跡よりも古い村で、彼女は自分の人生を振り返る。
「では」
吸って吐いて、数えること五回。イザリアはゆっくりと口を開いた。
口を開けて、言葉が喉を通るのを待っている。言いにくいのだろう。言えないのだろう。だがそれでも、意を決して、彼女は一言だけ、言葉を発した。
「私を殺したのは師父様です。他の人も全て、あの方が殺しました」
その言葉に、衝撃は無かった。アルスガンドの長の子である彼も、その隣に立つセレニアも、ただその言葉を受け入れた。
想像はできていた。この村にいる人々をほんのわずかの時間で皆殺しにできる人間など、世界中探してもほんの一握り。あの時間、村の中にいて、できたとすればそれはもはやただ一人。
「行こうセレニア」
「そうだな……」
イザリアに背を向ける二人。覚悟ができた。この先で待つ男に会う覚悟ができた。
彼は羽織っていた深紅のマントを脱ぎ、上に投げた。それは風に乗って、勢いに乗って、バサリと力強く岩の上に乗った。嘗て彼の父親が、座って一日を過ごしていた岩の上に。
深紅のマントの赤色に負けないぐらい赤い髪。輝きを持った髪を揺らして、ハルネリアがそのマントに手を掛ける。そして理解する。それを脱いだ彼の心を理解する。
「ハルネリア、それは返す。ファレナ、いろいろあったが、俺たちは君がいたから、ここまでこれた。辛いこともあったが、それでも、君を助けてよかった。どうか、そのまま愚直に進んでくれ。思うがままに、俺たちができない生き方を、君は続けてくれ」
「ジュナシアさん?」
「俺たちの旅の目的は、報い。この村をこうした者に報いを受けさせること。だから、ここで俺たちの旅は終わる。もし、俺たちが戻ってこなかったら、イザリア我儘かもしれないが、そうなったらどうか、ファレナを助けてやってくれ」
「はいお任せを。どうか、お気のすむまま、成し遂げてください。アルスガンド様」
「セレニア」
「言わなくてもいいさ。行こう。最後だ」
立ち去る背に、注ぐ視線。困惑がないわけではなかった。追いかけたいという気持ちが無いわけではなかった。だが、誰も一歩も足を動かせられなかった。
「結局、最後にあなたの傍にいるのは、セレニアさんなんですね」
思わず口に出た言葉に、自分自身で驚くファレナ。何故そんな言葉がでたのか、理由は明白だったが、それでもそのような言葉を言った自分に、彼女は驚いていた。
その時初めて、彼女は人を想うということを理解できた。
憧れではなく、想いを。別れの言葉に対する感情で、言葉で、それを理解した。
だから叫んだ。大きな声で、心の底から。
「待ってますから! ずっと待ってますから! 私はあなたを待ってますから!」
村中に響き渡るぐらい大きな声で、ファレナは叫んだ。心の欲するままに、言葉を彼にぶつけた。
少し驚いた顔で振り返る彼。深く、光を全て捕らえた漆黒の瞳ではあるが、それは光り輝いていて。ジュナシア・アルスガンドの驚いた顔はその境遇を感じさせない、ただの若者の顔で。
ファレナは笑って、彼に言葉を伝えた。
「あなたが大好きです。行ってらっしゃい」
その言葉に、彼の顔は更に驚きを見せ、眼を泳がせて、困惑して、足を止めて。
「ふっ……ははははは!」
セレニアが笑った。大きな声で、腰を曲げて、盛大に、大げさに、嬉しそうに、楽しそうに。
笑い声が周囲に広がる。イザリアも笑みを浮かべて口を押えている。
「な、なんだか、駄目でした私? セレニアさん?」
「くくく……いや、駄目じゃないさ……あー……いや、駄目なんだろうなぁ……怒るべきなんだろうなぁ……でも、ははは、いいさ。いい。ああ、それもいい」
「それも、いい?」
「ああ、まだ終われないなこれは。なぁアルスガンド様?」
「……はぁ、そうだな……いや、そうだな。楽しそうだ。それがいい」
「ふふふ……じゃあ答えてやれ」
「ああ、ファレナ」
「は、はい!」
微笑む漆黒の彼、その顔は、晴れ晴れとしてて、どこか照れくさそうで。
「行ってくる。待っててくれ」
「あ、は、はい!」
そして彼らはまた歩き出した。目指す場所は村の奥。刻印の壁画。長の墓。
ファレナは何とも言えない顔をしてリーザを見た。首を横に二度振るリーザ。彼女もまた、よくわかってはいなかった。
ふるふると肩を震わせて、イザリアがまだ笑っている。ファレナの困惑する眼は、イザリアに向けられる。
それに気づいて、笑みを押し殺してイザリアは言った。
「ああ、楽しい。やっと理解できました。あなたの魅力。ふふふ」
「……え?」
「ふふふふ」
こらえきれなかったのか。イザリアは笑った。増々ファレナは困惑した。
だが、その困惑はどこか幸せな困惑で。高く、遠く、遥か古から続くアルスガンドの歴史。動かしたのはきっと、ファレナの心。
歩みは止まらず、道は続く。村の奥では刻印が静かに輝いていた。




