第29話 遥か古の地に紅鏡の光を
それは、最初からそこにあった。
天を衝く大樹の中、その中心、幾千幾万の年月を重ねてもその美しさは一つも霞むことはない。
それは、大樹に咲く花のようだった。
身体の半分は樹に埋まり、外に出ているのは半身だけ。腕は肩口まで樹と一体化し、人としての形は胸元と頭部に僅か残すのみ。
凛とした黒い瞳に、永遠と伸びる長き髪。ほのかに香るその匂いは、大樹の実のよう。アラヤの大樹そのものがそこにあった。
真っ直ぐに、それは前を見ていた。真っ直ぐに、それは彼を見ていた。真っ直ぐに、それは彼の心を見ていた。
これが人なのかどうか、それを疑問に思わない者はいないのだろう。だが彼は、光の無い漆黒の瞳を持つ彼は、そのようなことは考えなかった。
ただそれからは懐かしさを感じていた。何もかもが違う自分の母親を、何故か彼は思い出していた。
無数の光がそれに寄り添うように集まってくる。人の魂の光。アラヤの民の命。消える前に、一度でもそれを見ようと、それに見えようと、光は集まっていた。
「もう、よしなさい」
澄んだ声だった。耳の奥へそのまま入ってくるような、聞いたことが無いような綺麗な声だった。
相当なことがなければ眉一つ動かさない彼が、眼を見開いて驚いた顔を見せていた。その声を聴いただけで、何故か彼は心が揺れていた。
彼の血が、訴えている。この人への愛しさを忘れるなと、血が訴えている。
「何を……?」
聞き返す必要はなかった。目の前のそれが、目の前の母が何を言いたいのかは、話す前から理解していたから。
暫くそのまま、二人はアラヤの大樹の中心で向かい合う。溢れんばかりの魂の光に囲まれて、消える魂の光に囲まれて。
「人は生きれば、いつかは死にます。死んだあとは、安らかに魂は眠ります。魂の閨で、永久に、エリュシオンとは、死んだ者のための世界なのです」
彼の左手に輝く赤い刻印。それは、周囲の魂の光に中てられてか、より一層強く光り輝く。黒い手袋を貫通するほどの強い光を放っている。
赤い刻印を外に出し、前へと伸ばす。円形の紋章。アルスガンドの血と魂に刻まれたそれは、ただただ強く光り輝いていて。
「遥か遠く、過去から現代へ。残ったあの子の呪い。あなたが末となることを、私は望みます」
「呪い……とは?」
「魔導はそうなった世界を代償を払って身に宿す力。代償はその人にとって最も大切なモノ。何を、失いましたか?」
「いや……まだ……」
「そう。ならば、後に失うのでしょう。それは定められたこと。とても悲しいことであれ、どうか心を強く」
招き入れられたのはただ一人、大樹の中心でただ一人。黒い息を吐いて立っていた彼一人。
夢のように、光り輝くその場所で、ただ二人並んで。
「初めは、美しい願いだったのです。友を、恋人を、大切な人を、失いたくない。幾多の命を、守りたい。尊きものを守りたい。それはとても大切な、大切なことでした」
あまりにも長い年月、大樹の一部となって生きていたそれに、もはや人としての意思はなかった。生きているようで、生きていない。目の前の彼が受ける印象は、ただ美しい偶像。
それに直接触れることはできる。だがそれに触れることは決してできない。それは生きてはいなかったから。
「だから私は、許しました。人が得た、魂の力、エリュシオンの欠片。魔力を人の世に広げることを。世界を壊すことを、わかっていながら、それでも叶えたいものがあったから」
それは語り部だった。この世界で最も古き女性は、この大樹よりも長くここに存在しているそれは、ただ己が言葉を語るべき人に語る、語り部だった。
彼が選ばれたのか、たまたま彼がいたのか。出会いに、意味などはない。
「瞬く間に、世界から力が無くなり、訪れたのは智の世界。ただ、誤算は、あまりにも個の力が強くなったこと。そう、人は人を滅ぼせるようになったのです」
その眼は、真っ直ぐに彼を見て離さなかった。その眼に、彼はどこかで見覚えがあった。
黒く、青く、帯のように、虹のように、うっすらと輝く瞳。
「獣のような人の群は、集団を得て、力を得て、戦争を経て、真っ直ぐに滅びに向かいました。あの子たちは、焦った。誰を止めても、誰を殺しても、何を消しても、次々と、次々と燃える戦いの火種。いつしかあの子たちは、老人となって、それでも想いは老いなくて」
「想い、とは?」
「皆が幸せになれる世界を。争いのない世界を。人が人として生きられる世界を。全ての者が笑顔で暮らせる世界を」
「それは、あり得ない」
「そう、あり得ない。幸せしか、無い世界など、あり得ない。そんなものは、幸せではないのだから」
「それは何も考えないに等しい。それこそ……ああ、だから、理想郷」
「そう、だから、魂の座は、理想郷、エリュシオンと呼ばれた。でも、あの子たちは、信じた。きっと、自分たち含めて、皆が幸せになれる、道があると。今見つからなくても、きっと未来で、遥か遠い、世界の果てで」
「迷惑なことだ」
「ええ、だから、そこに至るために、人を守る必要があった。人を生かし続ける必要があった」
いつの間にか、二人は会話していた。母が子に語り掛けるようにそれは優しく言葉を紡ぎ、子が母に答えるように彼は真っ直ぐに言葉を返す。
濁りも無く、ただ清らかに。そこにあったのは、温かさ。
「アズガルズ全ての魔力を込めて、あの子たちは世界中の人という人に、刻み付けた。あなたの、左手に輝く魔導の力と同じものを、世界中の人という種に。それこそが、救世の刻印」
「それは何だ?」
「人の種を残すために、人の種の敵を前にして発現する刻印。無限の成長と、再生、その持ち主が世界を救う物語を、必ず実現するもの」
「つまり、どういうことだ?」
「今も昔も、英雄の物語とは単純なものです。運命に選ばれた者が旅を通じ、幾多の出会いと戦いと、死を乗り越え、最後の敵を討ち倒し、そしてその生涯を終える。つまりは、それを成し遂げさせる魔導です」
「……つまり?」
「この世界が、それを人の敵だと判断した何かが生まれた時、その傍にいる資格のある者の魂に刻み込まれた救世の刻印は、その者を物語の英雄と変えます。得る力は四つ、幾多の死を乗り越える力、敵を倒すべく成長し続ける力、敵を理解するために世界の声を聞ける力。そして最期を迎える力」
「最期?」
「人を超えた敵を倒す力を得た人。それは全能に近い存在になります。それでは、終われない。永遠に生きるしかない。それは悲劇です。だから、敵が世界からいなくなったとき、それは自ら最期を迎えます」
「世界を救ったら、そいつは自壊するのか?」
「ええ、この最後の、最期を迎える力。最初はそれはありませんでした。英雄は、英雄のままに、永遠に人の世を見つづければいいと、人の危機にまた現れればいいと。ですが、あの子たちは知らなかったのです。永遠を得た人が、どれほど苦しいかを」
「だからあなたがその効果を付与した?」
優し気に微笑むだけだったそれは、その時初めて表情を変えた。眼を見開いて、驚いたようにハッとして。
「そんな大きな術式……試さずにやるような浅はかなやつらじゃないはずだ。あなたの言う、あの子たちというやつは。だから、試した。たぶん、あなたに。その刻印を創った一人である、あなたに」
小さく木が擦れる音がした。それの首が動いたのだ。小さく、しかし確実に動いて、それは頷いた。その通りだと反応した。
そしてまたそれは、彼女は微笑みを浮かべる。先ほどの、ただ笑みを浮かべているだけではない。今度は、心からの笑顔。初めて見せる人としての笑顔。
「ただその効果だけを確かめるために、私は特別な条件で救世の刻印を発動させました。つまりは、敵がいない状態で、ただ敵を倒す英雄の力だけを得たのです。結果は――どうなったと思いますか?」
「……ああ、それで、大樹なのか」
「はい。それで、大樹なのです。どこまでも成長して、身を変異させて、巨大な魔力の塊となった私の身体。もはや、死ぬこともできず。永久にここに」
「つまりは、死にたいのか?」
「呪いの言葉を吐き続けるのにも飽きました。自由は、言葉だけ。許されるのならば、できるのならば、殺してほしい」
「……そうか」
「今の世の、人すべてに、救世の刻印は存在します。発現する人間は、世界に選ばれた人間。最も敵に近く、最も敵を倒す可能性が高い者。つまりは、あなたの場合は、あなた自身を産んだ者と、あなたを創った者と、あなたを観て来た者」
「やっぱり、そうなのか?」
「意思を持って、意志を持って、エリュシオンへと踏み入る。それは魂の安寧を妨げる行為。人の死を冒涜する行為。あなたの存在は、必ずどこかで世界に触れています。救世の刻印の発動条件に、あなたの存在は十分です」
「その刻印……どこで判断すればいい?」
「瞳が、光を持ちます。私のように。七色に、青色に、赤色に。色は様々、移り変わります」
「わかった。一つ、聞きたいんだが、その刻印、自力で発動させれるのか? 俺の刻印のように」
「できなくはないと思います。当然、正統な手段ではないので、いろいろと不具合が出ると思いますが」
「なるほど、わかった」
彼は、静かにうなずいて彼女の言葉を受け止めた。ただ嬉しそうに、話せてよかったと彼女は顔で表現している。
そして彼は手を握り、息を吐いた。
「……名は、名はなんというんだ?」
「私の、名前ですか」
「聞かせてくれないか」
大樹の中にいた、万年を生きる女性。それだけの長き時、きっと、全ての人のどこかにこの女性の血はほんの少しでも存在しているのだろう。
彼女は、その輝く眼を瞑り、少し考えた後、自分の名を言った。
「ヴァルハナ・アズガルズ」
「わかった……報酬だ。報酬は何が出せる?」
「報酬……とは?」
「ヴァルハナ・アズガルズを殺すための報酬だ。俺は、アルスガンドの暗殺者。依頼するなら、報酬が必要だ。報酬が無ければ、仕事はしない」
「殺せるのですか?」
「できるはずだ。でなければ、俺の母は死んでいない。さぁ、報酬だ。何が出せる。何が用意できる」
「……では」
彼女のすぐ傍の木が動いた。メキメキと音を立てて、木は枝をゆっくりと彼の目の前まで伸ばした。
手のひらのように、五本の枝を広げて。その上にあったのは、光り輝く三つの指輪。
「あの子たちが、私の気を惹こうと作った指輪です。同じ日に、同じ言葉で、三人から愛の告白を受けました」
「全て貰ったのか?」
「貰えるものは貰っておくものです。これを貰った翌日に、私はあの子たち以外の人と、婚姻しました」
「酷い女だ」
「あの子たちは私の教え子で、歳は10も離れていたのです。子供が姉にするように、それは恋心であっても、ただの憧れであって。ふふふ、人生には、勉強が必要でしょう。あなたなら、どうしますか?」
「全く……いつの時代も女というやつは……貰ったのなら、全員と結婚してやればいいものを……」
「そちらの方が酷くありませんか?」
「甲斐性だ」
彼は指輪を取った。三つ、三色。赤と金と青。それは不思議な宝石だった。金属のように冷たく固く、しかしながら暖かい。
指輪を腰に仕舞って、彼は手を掲げた。赤い刻印が光を発する。周囲に浮かぶ魂の光がその赤を反射して、周囲が真っ赤に染まる。
現れるは漆黒のエリュシオン。深紅の翼を背に。圧倒的魔力と圧倒的存在感でそこに現れる。
「救世の刻印は、魂の刻印。魂を砕けば理論上は、消えることができます。エリュシオンは魂の座、そしてエリュシオンの魔物は座の番人。ああ、意思を持つエリュシオン。考えれば、救世の刻印を否定するのに、これほどうってつけな者はいない」
形を残すこともせず。それは、彼女に向かってただ手をかざした。圧倒的な力が、手に集まっていく。
「最後を平等に」
放たれた漆黒の光。全てを飲み込み、全てを消滅させるその波動。
永遠を生かされたその女性の生涯は、ついに果てに至った。実際、死にたいと望んだわけではなかった。彼女の望みは、最後。終わりたいとただ願っていた。
誰も訪れない訪れても人扱いなどされない。ジュナシア・アルスガンドが人として彼女を見れたのは、彼自身人として曖昧だったから。
消える彼女の魂に、一つの情けもかけず。実のところ彼女魂が消えたかどうかは誰にもわからない。ここからいなくなっただけかもしれない。魂とは、曖昧なモノ。
だが、アラヤの大樹となった彼女は確かに死んだ。万年を、数千年を枯れずに存在していたアラヤの大樹が、みるみるうちに枯れていったから。それは間違いない。
深い深い森の中、深い深い空洞となっていたアラヤの大樹の下。光の一つも差し込まなかったはずのそこに、初めて日の光が届いた。




