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漆黒のエリュシオン  作者: カブヤン
最終章 白百合の中で空を仰げば
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第26話 儚き理想郷の果て

 空っぽになった倉庫の前で、慌てふためく少年兵たちとは対称的に、彼は決して取り乱すことはなかった。


 貯蔵していた食料。武器。その他宝物。全て持ち出されたが、それでも彼は冷静に、少年兵たちに向かって優しく落ち着くように言い聞かせ、調査するように指示した。


 それがどれほど心強かったか。それがどれほど頼もしく思えたか。


 少年兵たちは皆彼に、自警団団長ヒュリナスを尊敬していた。誰もが彼のようになりたいと望み、彼に認められたいと望んだ。


 確かに、彼は素晴らしい人格者だったのだろう。確かに、彼は救国の英雄に足る人間だったのだろう。


 今は違う。


 取り乱さないのは、興味がないから。奪って置いておいただけの食料。とりあえず詰め込んでいただけの武具である。そんなものに、彼は興味がない。


 彼は堕ちきっていたから。


 一人屋敷に戻り、自室に入る。鍵をかける。甘い匂いが部屋中に立ち込めている。


 机の上の酒を一気に喉に流し込んで、顔を赤らめるヒュリナスは、表では決して見せないような醜い顔をみせる。速足で向かう先は、何人もの妖艶な女が待つベッド。


 ボトル一本でこの部屋にある全ての物が買えてしまうほどの高価な酒を、水のように飲みほしていく女たち。ヒュリナスの顔を見て、女たちは微笑み手を振る。


 そこは楽園。彼にとっての楽園。ファレナ騎士団に従うことで得た理想郷。


 真面目に、真摯に、国の未来を憂い、都を説得しようとしていた彼はもはやどこにもいない。


 与えられた楽園にただ溺れるだけ。彼の頭の中にあるのは、ただファレナ王国に従い行動して、そしてこの部屋に戻ってくることだけ。


 伸びる手に、絡まる女たち。20そこそこの若き指導者であるヒュリナスにとって、女の身体は何にも勝る麻薬。


 この麻薬のためならば、守りたいと願ったアラヤの民を死に至らしめても一向にかまわない。


 堕ちていた。どこまでも堕ちていた。アラヤの国を売り飛ばす行為を平気でするほどに、堕ちていた。


 哀れだと、彼らは思った。


 見ていられないと、彼らは思った。


 だが、見なければならない。正さねばならない。


「きゃあ!?」


 女たちの叫び声。それは重なって、部屋の窓を揺らすほど大きな声になって。


 その声に反応して、ヒュリナスは顔を挙げる。そして驚く。目の前の光景を見て、声にならない声を上げる。


 ヒュリナスの部屋に、いつの間にか集団がいた。アラヤの刀剣を握りしめる者たちを背に、深紅のマントを纏って静かで、だが圧倒的な男が立っていた。


 その男の眼は冷たく、ただ冷たく、鋭く、真っ直ぐにヒュリナスを見ていた。


 そしてその隣、青い円形の紋章を左手に輝かせ、立つ一人の女。漆黒の男女がアラヤの兵を引き連れてヒュリナスの部屋に突然現れたのだ。


「な、何だどこから……!?」


 ベッドから飛び降りるヒュリナスに、その部屋に現れた兵たちは、漆黒の男女は皆同じ眼を向ける。憐れみの眼を向ける


 下着一枚で左右をキョロキョロと見回して、慌てふためくヒュリナス。ベッドの傍には剣が立て掛けられているが、彼はそれを手に取ることはない。


「ら、ランド君! レーシェル君も! 生きてたのか!? 大樹の兵に襲われて生きていたのか!?」


 仲間が生きていたという事実。それは嬉しく、喜ばしく、笑顔で喜ぶべき事。


 だが彼は焦っていた。青ざめていた。まるであってはならないことが起きていると言わんばかりに。


 つまりは――


「ヒュリナスさん……僕たちは死んでた方がよかったんですか?」


 その態度が示している。彼の裏切りを。彼の暗黒の心を。


 ヒュリナスの顔は、ランドの言葉を受けて一瞬凍り付いた。だが直ぐに調子を戻し、ひくひくと顔の筋肉を痙攣させながら笑顔を作った。


「違う、驚いただけさ……よ、よかった。ああ、よかった。他の自警団の者たちはどうだい?」


「半分は死にました。生きてる者も怪我をしてない者はいません」


「そうか……残念だ。やっぱり大樹の兵はアラヤの民を守ってるわけじゃなかったんだね」


「やっぱり?」


「あ、いや……!」


 笑顔が崩れる。手で自分の口を押え、眼が左右に泳いでいる。


 もはや言いつくろうことなどできない。言い逃れることなどできない。


 怒りを覚えるランド、眼を見開いて震えるレーシェル。都を守っていた兵たちも皆、肩を震わせている。


「僕たちは、あなたの命令で殺し合いました。僕も……二人も殺しました。答えてくださいヒュリナスさん。何故、あなたは大樹の中に入らなかったんですか? 何故ファレナ王国騎士団の兵たちの大部分は大樹の中に入らなかったんですか。一体何故僕たちに攻めさせたんですか。答えてください」


「ランド君……ち、違うんだ。騎士団の人間が言ったんだ。大樹が、アラヤの民を攻撃するかもって。だったら、大樹も敵だろ? ということは巫女様も敵で、し、調べる必要が……まさか本当に攻撃してくるなんて……」


「調べるだって……ヒュリナスさん……まさか、僕たちで試したのか……!? 大樹が僕たちを攻撃したら……そんなの死ぬに決まってるだろう……!? 実際死んだんだぞ……!?」


「ち、違う! 待ってくれ聞いてくれ! そりゃ危ないかなとは思ったさ! でもそこまではならないだろうってファレナの騎士が!」


「言われるが、ままに……!? ヒュリナスさん、何故逃げたんだ……あなたの馬車と、あなたの剣技なら入口の大樹の尖兵ぐらいならなんとかできたんじゃないのか……!?」


「だって怖いじゃないか! 死んだらもうおいしい物も食べられない! うまい酒も飲めない! 女も抱けない! そんなの嫌だろう!? ファレナのやつらが兵を整える必要があるって言ったからさ! 次くればいいかなってさ!」


「死んでるんだぞ! 死んだんだぞ! 殺して……しまったんだぞ……なんで……ヒュリナスさんあんた何でこんなことに……!」


「だって……だってさぁ! レーシェル君! レーシェル君ならわかってくれるだろう!? 君僕を尊敬してるんだろう!? だったらほら、ランド君に言ってくれよ! 僕は悪くないってさ!」


「あ……う……」


「ヒュリナスふざけるなよ! あんたは僕たちに言っただろう! 皆の手でこの国を正そうって! 結局! 結局一番この国を乱しているのはお前じゃないか! 都の外の民を虐げて……ファレナ騎士団の言いなりになって……仲間すら……!」


「民を虐げたのは君たちだろうが! そりゃ命令したさ! でも実際やったのは君たちだろうが!」


「ふざけるなよ!」


 ランドは激昂した。ヒュリナスの言葉に、ヒュリナスの態度に激昂した。


 アラヤの国は、都の人間を生かすために、都の外の民たちが犠牲になり続けていた国。食糧を、鉱物を、資材を、都に納めさせられてきた国。都からの見返りは、巫女の祈りだけ。


 都の外の者たちは奴隷。都の奴隷。反旗を翻すことを信仰で忘れ去られた奴隷。


 外の民を守り、アラヤの大樹を全ての民に開放することこそが彼らの悲願だったはず、それを人々に謳い、自警団を結成したヒュリナスが、自分の命のために、自分の欲望のために仲間と民を斬り捨てた。


 そのことがたまらなく悲しくて、ランドは腰の剣に手を伸ばした。


 贖わなければならない。償わなければならない。言われるがままに行動してしまった自分も、ヒュリナスも。


「嘗て、アラヤの剣士は誇り高き者たちでした。彼らは何よりも生き様に拘ったと言います。ヒュリナスさん、どうか、皆の手向けを。死んだ皆に手向けを。どうか、腹を切ってください。僕が介錯します」


「ランド君……何を……今の時代そんなこと……」


「安心してください。僕も一緒にいきます。死ねば人の魂は樹に帰ると言います。共にアラヤの大樹の中で、皆に謝りましょう」


「ランド……本気……!?」


「ああ、レーシェルすまない。僕はこの人と共にいくよ。こんな腐りきった国だけど、君はどうか幸せになってくれ」


「ランド……」


 ランドは腕に力を込めた。彼の腰の刀剣がカチャリと音を立てた。


 銀色の刃はランタンの火を受けて赤く輝く。赤い刃は伸びる。鞘から抜き放たれんと伸びていく。


 そして唐突に、それは止まった。ランドの手は止まった。上から抑えつけられて。


 ランドの手を止める手。黒い手袋に覆われたその手は、深紅のマントの裾から伸びていて。


 黒い瞳の男、ジュナシア・アルスガンド。ランドの顔を見て、彼は首を振る。もういいと、彼は眼で訴える。


「自刃か。やはり、アラヤの文化はアルスガンドに通じてるらしい。なぁセレニア」


「そうだな。まぁ、腹を切る意味はよくわからんがな。自刃するなら首だ首。腹じゃ下手したら死にきれないだろうが」


「あ、いや……介錯をですね……」


「自殺はやめろ。女を泣かすな」


「え、えっと……はい」


 強引に押し付けられて、ランドの剣は鞘へと戻った。カチリと鞘と鍔のなる音が部屋に響き渡った。


 ジュナシアとセレニア、二人は前に出る。そしてヒュリナスの目の前に立つ。


「死んだ人間は戻らない。どうやっても、死者への償いなど、できるわけがない」


「だから私たちは言う。報いを、と」


「殺した人間に報いを。全ては生きる者のために。残された者に救いを」


「だが……な。こいつは、これ以上報いを受ける必要はないだろう?」


「ああ、こいつはもう十分に報いを受けている。欲、一度それに溺れてしまった者にとって、それを失うことは、命を奪われるに等しい」


「ふふふ、お気の毒様ってやつだな。精々、嘆きながら生きるがいいさ。生きるのが報いってやつかな」


「行くぞセレニア。お前たちも。ここはもう終わった。次だ。次へ行くぞ」


 振り返る二人、困惑するヒュリナスと、兵たち。


 ジュナシアが扉へ行けと顎で促す。一人、また一人と納得いかない表情で兵たちは扉から外へと消えていく。


「ああ、女ども一つ教えておくぞ。ファレナ騎士団の騎士も兵士も皆捕らえて牢に入れた。だから、お前たちには誰も金を払わない。いいか、そこの気持ち悪い男に何度抱かせてやっても、お前たちには一枚の銀貨も手に入らない」


「セレニア」


「国に帰って、男を作ることを薦めるぞ。私みたいに、いい男を捕まえれるかどうかわからんがな。ふふ」


 そして彼らはその部屋から出ていった。どこからともなく現れた彼らだが、出ていくときは皆扉から一人一人順番に出ていった。


 最後にその部屋からでたランドが後ろ手に扉を閉める。そしてその部屋には、ヒュリナスと女たち数人だけになった。


 下着姿で、ヒュリナスは下を向いて少し眼を泳がせた。今起こったことを確認するように、ジュナシアたちが言った言葉を反芻するように。


 だがすぐに顔が緩む。女たちがベッドで待っているから。とりあえず、女を抱いてから考えようと、彼はベッドの方を見た。


「……あれ? お前たち、何で服を着てるんだ? これから、だろ?」


 女たちは無言だった。四人いた女たちは皆無言で。そそくさと服を着ていく。


「ちょ、ちょっと待ってくれ。どこへ行くんだ? 君たち、僕をかっこいいって、好きだって、あの、どこへ行くんだ? そんな、待ってくれ」


 服を着た者から順に、速足で部屋の入口へと歩く。途中高価な酒を奪い取ってから。


 扉が開く。その部屋の扉が開く。大きく開く。女たちは、扉へ向かう。


「そんな、待ってくれ。君たちがいなくなったら、そんな、待って。待ってくれよ。なぁお、お金ならさ、多少は」


 結局彼女たちは、ファレナ王国騎士団が準備したヒュリナスを陥落させるための娼婦。金で雇われただけの女。


 それが手に入らないと分かれば、もはや愛想を振りまく必要もない。女たちは無言で、無表情で部屋を出た。


 静かに、ゆっくりと閉じる扉。ヒュリナスは膝をつく。女に捨てられたと思った彼は、絶望した顔で膝をつく。


 女たちは自分が好きで、自分のためならなんでもして、どんなことも受け入れてくれる。そうファレナ騎士団の騎士に言われて、そう信じて。


 そんなはずはないのに、外から見れば誰もが気づくのに、彼は気づいていなかった。あまりにも、あまりにも哀れ。


 真面目に国の未来を考えて、女と話したことも無くて、純心で。そんなアラヤの国の剣士だったヒュリナスは、もうどこにもいない。


 利用されるだけされて、全て失った彼。哀れな彼。瞬きする間に消えていった彼の理想郷。


 ヒュリナスは座り込んでいた。膝を抱えて座り込んでいた。なぜこうなったと、何度も何度も頭の中で問いながら。


 そして彼は笑った。何も考えず、ただ笑った。終わってしまった彼の夢に、彼自身に対して、彼は笑った。


 殺した者に報いを。殺させた者に報いを。アラヤの国をファレナ王国に売り飛ばしたヒュリナスは終わった。あっけなく、虚しく、悲しく、彼は終わったのだ。

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