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漆黒のエリュシオン  作者: カブヤン
最終章 白百合の中で空を仰げば
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第17話 花舞う町

 赤かった。朱かった。紅かった。


 巨大な橋、大きな川に掛かる巨大な橋。川を辿れば遠く北は海へ、南は山岳へと続く川にかかる二国間を繋ぐ唯一の橋。


 複数架ければ確かに交通の便はよくなり、交易に幅ができるだろう。だがこの橋を有する二国は、一つ以上の橋を求めなかった。


 互いに巨大な戦力を持っている二国は、お互いを自由に行き来できてしまう状況をよしとしなかったから、それ以上の橋は作られなかった。


 船、遠く北。下流に真っ赤な船が流れ着いている。幾つも、幾つも。


 上流、岸には真っ赤ななにかが流れ着いている。幾つも、幾つも。


 そこは赤かった。ただひたすらに紅かった。


 真っ赤な橋の上に、紅いマントを身体に巻き付けた男が座っていた。橋の真ん中。真正面。片足を抱えて、男は真っ直ぐに対岸を見て座っていた。


 男の視線の先も真っ赤。橋の向こう、ファレナ王国が属する大地。見渡す限りそこは、真っ赤だった。


 日が傾いている。もう太陽は山の向こうに消えて見えない。もうじき夜が訪れる。


「ああ、お見事です。やはりあなた様は、素晴らしい」


 声が聞こえた。男の声だった。それは深紅のマントを纏う彼の声ではない。別の、誰かの声だった。


 深紅のマントを纏った彼は反応もしない。明らかに彼に向けられた言葉ではあるが、反応はしない。


「橋を渡ろうとしたファレナ王国騎士団の面々、その数1万以上。全てを悉くすり潰し、橋を諦め船を出した者達も含め、ついに一つも生かしてこの川を越えさせなかった。間違いなくあなた様は最強。歴代最強のアルスガンド」


 その声は震えていた。恐ろしさからか、それとも嬉しさからか、男の声は震えていた。


「そのマント、ヴェルーナ王家の紋章。ああ、なんと素晴らしいかな。ついに、二人目の母上君に認められたのですね。ああ、エリンフィア様が終ぞ告白できなかった事実を、ついに知ったのですね」


 嬉しそうだった。悲しそうだった。男の声は、若々しいとは決して言えないその掠れたような声は、彼の耳に届いていた。


 だが、彼は動かない。反応しない。眉一つ動かさない。


「赤色のマントはヴェルーナの国宝。その魔を退けるというマントは、血液に滞在する魔力すらも弾き飛ばす。故に、返り血の一つも浴びていない。血に染まることが嫌いなあなた様にとっては最高の贈り物ですね」


 影が差し込んだ。男の影。影が彼の真横に差し込んだ。


 その影は、左右の腕の長さが極端に違っていた。左腕が無かったからだ。


「美しい。若様はやはり美しい。母親似ですね。二人の母親、そのどちらとも似ていますね。我が娘たちが魅了されるわけです」


 そして立った。男は彼の前に立った。彼の視界に入るように、彼は立った。


 男は老いていた。ただ年月を重ねた老いではない。男の老いは、生命が失われたことによる老い。青年のような雰囲気で、老人の姿をしている。それに違和感を覚えない者はいないだろう。


「お久しぶりです若様。本当に、本当にお久しぶりです。ルシウス、遅れまして約一年、ここに帰還いたしました」


 隻腕の男は膝をついた。膝が赤い血で汚れることにひとつの躊躇いも見せず、彼に対して跪いた。


 男が纏っている服はアルスガンドの戦闘服。その伸縮性に長けた服は男の老いた身体を浮かび上がらせていた。


「我が娘たちには先に姿をみせておきました。いろいろとお考えいただいているかと思いますが、一つだけ弁明させていただきます。アルスガンドの一族を殺したのは、私ではありません」


 彼は反応しなかった。男の言葉に一切反応しなかった。


 反応する気が無かった。


「ああ、責められもしない。ああ、なんとも、なんとも悲しいですね。まぁ……当然ですね」


 立ち上がる隻腕の男。その老いて深く皺の刻まれた顔をぎこちなく動かして、精一杯の笑顔を男は作った。


 その笑顔に、彼は初めて反応する。眼球だけを反応させして、ただ視線だけを向ける。


 男は、ルシウスは立っているのもやっとだった。もはや男は戦うことなどできないだろう。


「若様。アラヤの国に行ってください。あそこでアリア女王は世界の呪いを利用する術を得ました。救世の枷を利用する術を得ました。そこで、それを見つけることができれば、知ることができます。エリンフィア様をあのように変えた術を、知ることができます」


 背を向けるルシウス。深紅のマントを纏う彼はその背を見て、動くことはない。歩き、少しずつ小さくなっていくルシウスの背を、彼はじっと見ている。


「待っております。我らが村で。刻印の壁の前で。全てを理解したら、来てください。我が娘を伴って。お待ちしています頭首様」


 それだけを言い残し、その背は橋の向こうへ消えていった。赤色の橋は、いつの間にか黒い橋となっていて。日が完全に沈んだのだ。


 匂いが残っていた。懐かしい村の匂いが。もう二度と嗅ぐことが無いだろうと思っていた匂いが残っていた。


 彼はその匂いを感じた時に思った。




 ああ――懐かしい、と




「おめでとうございます国王陛下!」


 数刻前の記憶の中にいた頭は、沸きあがる声で一気に引き戻された。


 ロンゴアド国の城から城下町へと通じる大通り。人々は思い思いに声を上げ、両手を上げ、少しでもその姿をはっきりと見ようと互いに押し合う。


 兵士たちが必死にそれを抑え込んでいる。暴徒のような人々、だが彼らの表情は皆笑顔で、それを抑える兵士たちも皆、笑顔で。


 開いた城門から兵士たちの行列が出てくる。先頭の兵の一団は楽器を持ち、勇ましくも美しい曲を奏でている。


 楽器の一団の次は、儀礼用の剣を胸に構えた兵士たち。一際煌びやかな鎧を纏って、整然とした姿を人々に魅せる。


 そしてその後ろ。大きな馬車。馬5頭に引かれ、ゆっくりと進む馬車。その上に、二人の男女が立っている。


 一人は、赤色の王女。輝く赤髪を風になびかせて、赤と金の豪華なドレスを身に纏った王女。満面の笑みで人々に手を振る彼女はヴェルーナ女王国第二王女、メリナ・ヴェルーナ・アポクリファ。


 そしてその傍らにいるのはロンゴアド国国王となったランフィード・ゼイ・ロンゴアド。黄金の鎧に深紅のマント。銀色の剣。ロンゴアド国に伝わる王家の武具を身に纏い、照れくさそうに笑いながら手を振る彼。


 ロンゴアド国国王の即位式と同時に行われる結婚式。ランフィードとメリナの結婚式は、解放されたばかりのロンゴアド国王都にて盛大に開かれる。


 もはや俯き、苦しむ人々などいない。ここにあるのは笑顔だけ。皆が向ける憧れと喜びの混じった笑顔だけ。


 花弁が投げられる。ヴェルーナ女王国の侍女たちから花弁が投げられる。色様々な花弁が魔法の力で風に乗って舞い上がる。ロンゴアド国を埋め尽くしそうな勢いで、その花弁は王都に舞った。


 笑っている。


 馬車の上でランフィードが笑っている。


 馬車の上でメリナが笑っている。


 大通りで民が笑っている。兵士が笑っている。


「はぁ……国が揺れてるわ」


 黒く焼け焦げた城のバルコニーから見ていたハルネリアがそう呟いた。


 バルコニーの上には彼らがいた。ロンゴアド国を解放した彼らがいた。ファレナ・ジル・ファレナとその一行がいた。


 皆言葉なく、ランフィードたちの結婚パレードを城のバルコニーから見ている。城の中は侍女たちが忙しく走り回り、即位式に、結婚式に相応しい料理と飾りを並べんとしている。


 一度焼けた王宮ではあるが、飾れば見れるものにはなるものだ。


「メリナさぁ。私の6つ下だからさぁ。30なのよね歳。今更ランフィード国王陛下は気にしないだろうけどさぁ。歳の差がさぁ。ねぇどう思う? どう思う?」


「師匠いい歳してはしゃがないでくださいよ。もう」


 自分の家族のバージンロード。自分では叶えられなかった願いを叶えた妹の姿に、ハルネリアは一際喜んでいた。


 舞う花弁が城に届く。一枚、二枚。あえて赤い花弁を手に取って。大嫌いな赤色を手に取って。うっすらと笑みを浮かべる彼。漆黒の眼を輝かせて、花舞う都市を見ている。


 その傍らで、ファレナは眼を輝かせている。


「ああ、綺麗です。こんなに綺麗だなんて。世界はやっぱり、綺麗です」


 何度も何度もそう言いながら、彼女は町を見ている。世界を見ている。


 皆が見ている。この世界を見ている。


「……救世、か」


 突然に、唐突に、彼はその言葉を口にした。眼の前の光景が救われたと思ったから、そう口にした。


 実際にやったことはただの虐殺だったが、それでもそれで救われるならば、自分は救われる。自分の壊れる心を辛うじてこの美しい光景で繋ぎ止めながら、彼はそこにいる。


 無言でそれに付き従うセレニアとイザリア。その顔は二人同じ顔で。優しく、母のようで。


「……枷」


 手に取った赤い花弁を見る。真っ赤な欠片を見る。その時の彼の顔は、儚げに、美しく微笑んでいて。


 手を放す。飛んでいく一枚の赤い花弁。他の花弁に交じって、それは町のどこかへと消えていく。


 手を掴まれる。花弁を持っていた手を、白い手が引く。あっけに取られて、抵抗する間もなく、彼は腕を引かれ前へ出る。


 その白い手の持ち主は王都の先を指さして目を輝かせながら言う。嬉しそうに、どこか誇らしそうに。


「口づけですよ口づけ。王子様とお姫様の、口づけ。まるで物語の中にいるよう」


 遠く、王都の中心で口づけをする二人を、嬉しそうに彼に見せるファレナは、まるで子供のような顔をしている。


 彼女は求めていた。救いを求めていた。目に見える救いを求めていた。ひたすらに、自分が殺されかけてからただひたすらに暗黒の中を進んでいた彼女は、救いを求めていた。救われた人を求めていた。


 その光景は誰にとってもわかりやすく救いなのだろう。ランフィードとメリナの口づけは、誰にとっても希望なのだろう。


 王城の奥。王の一族が眠る墓。両手を交差させ、玉座を模した墓に眠る先代のロンゴアド王、ランフィードの父は、笑っていた。死んでも尚、息子たちを祝福して笑っていた。


 地の獄のような場所にいた全ての人は今日この瞬間に救われた。人々の笑顔が町に溢れる。


 余計なことは不要で。今はただ祝福を。


 ジュナシア・アルスガンドはその深紅のマントを羽織り直して、そして笑った。心の底から笑った。仲間を、友を祝福するために、彼は笑っていた。

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