第16話 雷光の夢
血。
ダクダクと流れる血。口から、耳から、眼から、一筋の川となって流れ出す。
その立派な白髪まじりの髭も、黄金の鎧も、みるみる血で染まっていく。
それは、報い。王に対する報い。ロンデルトという一人の男の最期が今まさに訪れようとしている。
王は流れ出る血を抑えることなく、銀色の剣を握り答える。その顔は一つも怯えることなく、堂々と、いつもと変わることはない。
「ランフィー……ド」
流れ出る血のせいで声が出しにくいのか、王は真っ直ぐに自らの子の眼を見ながら、くぐもった声で子の名を呼んだ。
自らの父親が死に絶えようとしているその姿を目に焼き付けようというのか、ランフィードはいつにも増して眼を見開き王を見ている。
血が喉にからむのか、少し咳き込んで、王は剣を構えた。その威圧感、死の間際にいる人間が持つものではない。
「お前か、お前がいたかランフィード。いい、いいぞ。それでいい、間に合った。さぁ、余を、殺すがいい。何、どうせ死ぬのだ。ならばこの命、お前のために、使うがいい。そしてこの国を、お前たちの手に……」
「……父上。一つ、よろしいですか。戦う前に」
「うむ……短めに、な」
剣を握る手が、震えている。王の雷光を纏った剣がカタカタと揺れている。
限界が近いのだろう。ランフィードはその王の姿に、父の姿に、ある感情を抱いた。
それは哀れみ。
父親が、王が哀れでならなかった。きっと、王の選択は全てが全て、間違っていたわけではないのだろう。王が民のためを思って選択したことが、結果的に民を地の獄へ叩き落したとしても、それは完全には間違っていなかったのだろう。
王が民を想う心は本物で、王が国を想う心は本物で。王に与えられた選択肢は少なくて。
「父上、あなたは、一体何のための王なのですか? 何を思って、王をしておられるのですか?」
「なに……?」
「お答えください」
「……何のため、か」
遠い眼を空に向けて、王は考える。思い出す。自分の心を、意志を、考える。
だがそれは、考えるまでもなく。
「……ただ、我が国のために。ロンゴアド国のために。いや……我が、民のために、か」
遠い眼をして、静かに語った王の答え。当然そういうだろうと思っていたランフィードは、頷いて下を見て小さく息を吐いた。
「やはり、そうですね。父上はそう答える。知ってました」
「王は、民のために自らの生の涯てを捧げる。それは、王としての、責務。王としての意義」
「それは……違うのです父上」
言葉、否定の言葉。ランフィードが言い放った言葉。
王は固まる。ランフィードの言葉の前に固まる。自分の生涯を否定されたことで、王は固まる。
「私は、幾多の王を、王族を見てきました。殆どが父上のように、国のためを思って動いていました。ですが、2人、2人だけ違いました。ヴェルーナ女王陛下と、アリア王妃……いや、アリア女王」
「……なに、が違う? あやつらも、余と同じく国を」
「あの人たちは、自分の意思にしか従わない。自分勝手なんです。それこそ、国がどうなろうが、自分の心を曲げない。あの人たちは、強いんです」
雷光が走った。ランフィードの剣を、雷が覆う。
ゆっくりと剣を胸の前に持って来て、ランフィードは言葉を続ける。
「傲慢ともいえるその生き方。ヴェルーナ女王国の民は、女王陛下に対して一つも疑問を抱くことなく狂信的なほどに信じています。アリア女王が治めるファレナ王国の民も、同様に……良くも悪くも、女王を信じています」
ややもすれば、それは暴君と呼ばれてしまうだろう。実際アリア女王は、紛れもなく暴君。
「王は人を導く者。自らの行動と、意思によって民を進める者。あの方ならば全ては大丈夫と信じこませれる人。かの二人はどんな王よりも王らしい王であると言えます」
王は先導者であり続けるべきであり、それは時に傲慢で、常に正しい存在でなければならず。
「父上は、曲げたのです。王であることを曲げたのです。膝をつき、頭を垂れて、強大な敵に民の命を乞うたのです。父上は、たぶんファレナ様を即位させようとした時からすでに、民を自分以外の者に、捧げていたのです」
であれば、『弱者となった王』など存在自体があり得ないことであり。
「国のための王。民のための王。確かに言葉としては美しいですが、王としては最低なのではないでしょうか。民に自らが進む道を示さず、民の命を他者に委ねる王など、民にとっては最悪ではないでしょうか」
最後の瞬間まで王は民を見捨ててはいけない。
「父上、王は、決して頭を垂れてはいけないのです。王は皆の目標であり続けるべきなのです。王は皆の憧れであり続けるべきなのです。父上、あなたはたぶん、もう王ではないのです」
向ける。雷光の剣。王は、ランフィードが剣を自分に突き付けるのを黙って見ている。
「国王は皆の父親のようなもの。どのような子も、父親の弱い姿は見たくないものです」
「……そう、か」
王は静かにランフィードの言葉に耳を傾けていた。一つ一つ、心に刻むように、王は息子の言葉を聞いていた。
実際、ランフィードの言葉は、すべてが正しいわけではない。だがそれでも、正しいと信じ抜く強さ。そういうものであると言い放てる強さ。それは、頼もしさを感じさせるもの。
王は喜びを感じていた。自分の子が、自分を導こうとしている。そのことに、王は喜びを感じていた。
「父上、その生涯を国に捧げた父上。国のために王であることすら捨てた父上。あなたは、もはや奴隷。冠を捨てて、民のために命まで差し出した奴隷。黄金の、奴隷」
言葉が遠くなる。愛しい息子の声が遠くなる。王の命が、遠くなる。
「さらばです父上。あなたは確かに王としては間違っていましたが、長としては決して間違ってなどいなかった。あなたは、自らを捧げても人を守るべく動いた長だった。安心してください。この国は、僕が立て直します。必ず、立て直します。王として」
「ああ……それでも、いい。それもいい……な」
「さぁ、最期です。父上の、ロンゴアド国最強の魔剣士と謳われたあなたの剣を、僕にください」
「ふ、ふふ……いいだろう」
王は構えた。自らの血で真っ赤に染まった銀色の剣を高々と、雄々しく、正面に掲げた。
溢れる雷光。ランフィードの纏うそれとは比べ物にならない程の雷光。地面が、空が揺れる雷光。
ランフィードも同様に剣を構える。迎え撃たんと、剣を構える。
「ああ――いいのだろうか。余は、いいのだろうか。こんなに幸せな気分で、最期を迎えていいのだろうか」
重心が動く。王の身体が前へと揺れる。
――思い返せば、つまらない人生だった。
生誕を、国民すべてが祝った。
成長を、国民すべてが祝った。
結婚を、国民すべてが祝った。
即位を、国民すべてが祝った。
王としての生涯。生まれ、育ち、譲られ、治め、育み、降り、そして死ぬ。
それは確かに恵まれていた生涯ではあったが、つまらない人生。生まれた瞬間から決まっていた生涯をなぞっただけの、人生。
王にとっては国が全てだった。国を支える民が全てだった。民が生きていることが全てだった。
王がした勘違い。大きな大きな勘違い。それは、人の命と人の生を同じであると思い込んだこと。
だから王は人の命を守るために、人の生を捧げるということを選択してしまった。間違えてしまった。
だからこそ――――
「……父上」
飛ぶ剣先。雷光と共に、それはクルクルと回って彼らの後方に突き刺さる。
ランフィードの額、その寸前でピタリと止まる銀色の剣。王の剣。飛んだ剣先は、ランフィードの剣。
口角をあげて、王はにやりと笑った。まだまだだなと、ランフィードに向かって口の中で王は言葉を発した。
そして、王は静かに目を瞑り、そのまま二度と眼を開けることはなかった。ランフィードに剣を振り下ろした姿勢のまま、王は死んだ。
立ったまま、微笑んだまま、王は死んだ。
ランフィードは刀身が半分になった剣を投げ捨て、右手を胸に、深々と頭を下げる。そして見る。視て、観て、見る。
眼の奥に刻み込む。父の最期の姿を。王としての父の最期の姿を。
間違えてしまったからこそ、ロンゴアド王は王として死ぬべきだ。自らの意思で、民を捧げたファレナ王国との契約を破って死ぬべきだ。
破れば死ぬなら、それを受け入れるべきだ。王であるならば、間違えたのならば、それを正すべきだ。
今王は王として、国をファレナ王国から解放して死んだ。ロンゴアド国のために、死んだ。
結局最期まで、国の王であり、国の奴隷であったロンゴアド国王。死して尚立ち続けるその姿を、ランフィードは生涯忘れないだろう。人々は生涯忘れないだろう。
ファレナ王国騎士団の人間たちが次々と降伏していく。ロンゴアド国の兵士たちが武器を投げ捨て涙を流している。
――ロンゴアド国解放は今ここに。




