第8話 ロングレイズ解放戦 後編
月が出ていた。全ての物を飲み込むかのような巨大な月が、出ていた。
彼はどこよりも高い聖堂の上で、巨大な鐘の傍でその月を見上げていた。
月には魔物がいるという。親が子を寝かしつけるために作られた物語。誰もが聞いたことがある物語。
月には、魔物がいる。
ふと彼はその話を思い出して、自虐的に微笑んだ。深紅のマントを風に揺らして彼は下を見た。暗闇の中で一際輝いている娼館を見た。
彼は、赤い剣を抜き、ただ時が来るまで、見下ろしていた。
解放の時が来るまで、見下ろしていた。
人は堕ちる。自由の果てに、人は自由に食い殺される。
ロングレイズの町はロンゴアド国において王都に次ぐ大きさを持つ町。当然、それを治める領主にもそれ相応の力が求められる。
この町を治めていた領主は、嘗ては人格者として名を馳せたこともある人物だった。王の命を守り、犯罪を許さず、自らの財を切り取ってまで税を抑えていた彼は、人々から多くの支持を受けていた。
それが今では、自らの欲を満たすためだけに生きているのだ。その変貌、当然のように人々は困惑していた。
何が彼を変えたのだろうか。
何が彼に起こったのだろうか。
――――違う。
「元々、ああなのさ。今までは抑えつけられていただけ。だから、抑える手がなくなればこうなるのは当たり前なのさ」
小さな花のような使い魔を手に出して、アドラネは一人でそうつぶやいた。ありとあらゆる人間をみて来た彼女にとって、本性を見破ることなど容易いことで。
「人は腐るのさ。強大な力を得れば、必ず腐るのさ。もし、腐らない人間がいるとしたらそいつは聖人か。それとも怪物か。まぁどちらにせよ。人じゃないさねそんなやつ」
アドラネは手元の花に火を灯した。小さな小さな火。それは花弁一枚一枚に燃え移り、綺麗な火の花を咲かせた。
「でもさぁ……綺麗だと思うよ私は。そんな歪な人こそが、今の時代必要だと思うよ。赤髪……あいつはまだ魔術師を殺してるのかねぇ……あの綺麗な怪物は、まだどこかで……」
火の花は、炎の花となって、彼女が捕らえられている柵の中一面に咲き誇る。それは小さくも、力強い花。
何もかも燃やしつくす、そんな花。
――娼館一面に、焔の花が咲いた。
扉を強引に閉じる。大きな音が鳴り響く。
娼館の最上階に、娼館の主とこの町の領主だけが使える部屋があった。
どこよりも煌びやかな部屋。豪華な部屋。部屋の奥には様々なドレスが並べられ、女を飾り付けるありとあらゆる道具が揃っている。
ベッドは巨大。寝れば吸い込まれそうな柔らかなクッション。シーツには金糸で刺繍がされている。
まるで城の王女が眠る部屋のよう。巨大な窓からは町の中心、聖堂の鐘が見える。
「ふっひっひ……何じゃこの香りは、貴様何か、塗っておるのか? たまらんな……近くにいると、頭が解けてしまいそうじゃ……」
「そ、そう……です、か」
男は、醜かった。
リーザの魅了の霊薬に当てられたのか、領主の顔は緩み切っていた。口元からは涎が、額からは脂汗が、綺麗に着飾ったその服がただただもったいなく思えるほどに、その男は醜かった。
「では、始めるか」
「えっ? あっ……!?」
一瞬だった。あまりにも一瞬だった。リーザの手を取り、引きずり落とすように、領主はリーザをベッドに押し込んだ。
騎士としての一通りの訓練を積んで来たリーザを軽々とベッドに押し込む。その力に、リーザは面食らって固まっていた。
グズグズと、顔を歪めて、領主はリーザの足を掴む。そして撫でる。執拗に、脚線を撫でるように。
「いい脚しとるわ……さぁて」
「あ……!? ちょ、ちょっと……待って!」
「待たんわ。ふひひ」
「待ってよ! 待ちなさい!」
思わずリーザは大声を上げた。リーザの足元で、彼女の服に手を掛けた領主に向かって、大声を上げた。
リーザは腕を振る。先ほどまでは無かった短剣が、突然彼女の手に現れた。
袖の中に隠していた短剣。領主を殺すための武器。身を守るための武器。
「……ほぅ?」
領主はその短剣を見て動きを止めた。リーザはまくり上がった裾を整えながら、短剣を領主に突き付ける。
「暗殺者か貴様。ほぅ……ほぅほぅ。道理で、しまった肉をしてると思うたわ」
「こ、これ以上私に触れたら、殺すからね!」
「くくく……そうかそうか。それは怖いのぉ」
領主は笑っていた。リーザの短剣に、一つも恐怖を感じていないように、領主は笑っていた。
その顔がどうにも不気味で。武器を持って有利なはずのリーザを何故か圧倒していて。
「誰に頼まれた? 領民の誰かか? それとも、中央の誰かか?」
領主はリーザの脚を撫でながら、静かにそう言った。暗殺されることには慣れきってると言わんばかりに。
「……知る必要はないわ。すぐに、ここの館主も送ってあげる。民を苦しめた罪、子供を……娼婦に落とした罪……償え。償うのよ。死んで償うのよ。皆、皆泣いている。あなたのせいで泣いてるから」
「償う? 何故?」
「何故……ですって? あれだけ税を取って、人を苦しめて……罪を……」
「何故? ワシが自分の領民をどうこうしようと、関係ないだろう? ワシがワシの物をどうこうしても、関係ないだろう? 罪などあるわけがないではないか」
「な、なん……ですって……!?」
領主の顔に、冗談を言ってるようなそんな気配はない。リーザの脚を撫でながら、領主は心の底から、本心でその言葉を口にした。
それがあまりにも衝撃的で。騎士学校で国は民を大事にすることから始まると教えられてきたリーザにとっては、あまりにも衝撃的で。
彼女が慕う純白の王女とはあまりにも真逆で。
「人が……沢山死んでるのよ……人が、死んで、苦しんで……それを……なんとも、思わないの……?」
「あー……確かに死体は増えたのぉ。臭くてかなわんわ。火葬場を増やさねばならんかのぉ」
「そ、れ……だけ……それだけ!? ひ、人が、苦しんでるのに、臭いの心配!?」
「ワシには関係ないな。そんなことよりも、今はお前の身体を」
淡々と、淡々と、領主はリーザの脚を撫で、そして彼女の裾に手を入れた。リーザの下着に、領主の手がかかる。
その行動が、自分の貞操よりも、人がいくら死んでも自分には関係ないというその行動が、リーザの頭に血を上らせた。
「ふっ……ざけんじゃないわよ! そんなこと!? 人が、人が死んでるのよ!? 姫様が……姫様がどれだけ嘆いているか! このぉぉぉ!」
リーザは短剣を突き立てた。自らの脚に、頭をうずめようとしている領主の後頭部に向かって、短剣を突き立てた。
怒り狂う感情のままに、彼女は短剣を突き立てた。
実際、リーザは人を殺すことに決して慣れていない。剣の勝負の果てに、生き死にを分けることは覚悟はしているが、このように明確に殺意を持って人に剣を向けることは初めてだった。
だからというわけではない。決してこれは、だからこうなったということではない。
「えっ!?」
飛んだ。銀色の刃。小さなその短剣が、空に舞った。
少しの沈黙のあと、リーザは理解した。短剣の刃が領主の後頭部に突き刺さる瞬間に、折られたのだ。誰かの手によって、折られたのだ。
領主はリーザの股の間から顔を上げる。そして笑う。醜く、醜く笑う。
「ワシ、暗殺者によく狙われるんじゃ。だから腕利きを常に傍に置いている。紹介しよう。この娼館の主。そして、魔剣士でもある。私の息子だ」
剣。銀色の剣を持って真っ黒な鎧を着た、冷たい眼をした男が立っていた。
どこから現れたのか、どこへいたのか。その男は剣を鞘に仕舞うと、両手を組んでリーザを睨みつける。
「なっ……あっ……」
声が出なかった。どうしようもなく、声が出なかった。
「知らんかったのか? ワシの息子、傭兵としてかつては世界中を回っておったんじゃよ。その強さはファレナ王国騎士団が聖皇騎士にも並ぶと称されておる。まぁ数年前に引退し娼館の主にしたんじゃがな」
「そ、んな」
「男前だろう? くくく、なぁに心配はいらん。ワシが存分に楽しんだ後は、こやつにくれてやる。今日は寝れると思わんことだな」
「や、やめ……やめて!」
「やめると思うか? くくく、おっと、魔術でワシを殺そうとはせんことだな。この部屋は魔力封印の術式がかかっておる。ワシの息子にはきかんがな?」
「やめ……やめぇっ……剣、剣があればせめて……剣っ……」
「ふひひ……わはははは! どうした暗殺者よ! 存分に声をあげろ! ワシを楽しませろ! 蹂躙は……最高だ! わはははは! 自由はすばらしい! のぉ我が息子ぉ!」
領主は勝ち誇った。勝ち誇って、自分の子の顔を見た。
その瞬間に理解した。領主は理解した。今この瞬間に起こったことを、理解した。
「あ」
一言、一文字、それだけが領主が口にできた、唯一の感想。
突き刺さっていた。音もなく、何もなく、元からそれはそこにあったのだと言わんばかりに、自然に突き刺さっていた。
赤い剣が領主の息子の顔のど真ん中に、突き刺さっていた。
あまりにも、あまりにも一瞬だったのだろう。領主の息子は、娼館の館主は、立っていた。頭に赤い剣を突き刺したまま、立っていた。
領主からは見えないが、領主の息子の後頭部、赤い剣が突き刺さった衝撃によるものか、そこにあったはずの中身は全て無くなっていた。正しく文字通り、即死。領主の息子は、領主がリーザに覆いかぶさろうとしたその一瞬の間に死んでいたのだ。
「な、にが……何が……窓、窓か……?」
領主は駆け寄った。窓に。そして見た。正面、遠く、聖堂の鐘の下。
月を背に、黒い何かが立っていた。赤い翼を生やした何かが立っていた。
その姿があまりにも禍々しくて、領主は、言いようのない恐怖を感じた。
圧倒的存在感。月の明かりを背に受けて、立つは漆黒のエリュシオン。人では決して手の届かない魔者。
「うっ」
領主は、背に衝撃を感じた。彼はその衝撃の正体に、すぐに気がついた。
領主の背からささって胸より突き出るは赤色の剣。自分を突き刺した赤色の剣。
自分を背から突き刺せるのは、一人しかいない。肺を、心臓を貫いた剣を領主は掴もうとしたが、すでに彼の手は動かせなくなっていた。
領主の背にいるのは、赤色の剣を握るのは、赤髪の女騎士。リーザ・バートナー。乱れた服を直すこともせず、彼女は領主の息子から引き抜いた剣を領主に突き刺していた。
リーザは剣をひねる。それがとどめ。人々の命を吸い、肥え太った領主はその瞬間に絶命した。
それと同時に、リーザ達のいる部屋にも火が回った。焔の花が咲いた。
もはや娼館の中を通って逃げることなどできない。リーザは赤い剣を握って窓から飛び降りた。月夜の中に、娼婦の姿をした騎士が舞う。焔を背にして。
漆黒のエリュシオンと化したジュナシア・アルスガンドは腕を振った。強く、強く腕を振った。腕の先には聖堂の鐘。腕が叩き付けられた鐘は町中に響き渡るには十分な、大きな音を鳴らした。
鐘が鳴る。町で最も高い場所にある鐘が鳴る。
人々は皆、上を見上げた。鐘を見上げた。その鐘の音が、彼らにとっての解放の音。
領主の館にいるロンゴアド兵団の兵士たちはそれを見ていた。バリスタの大槍が投げ込まれて穴だらけになった館の壁から、それを見ていた。
兵士の一人がそれを見ながら呟いた。
「なんつー力技だ……上から槍投げるだけで騎士団の騎士たち全部殺しちまったよ……」
兵士たちの目に映った黒い魔者。人ならざる者。世界最強の味方。
彼らは心強いと感じるよりも前に、恐ろしさを感じていた。それに、彼に、畏怖の念を抱いていた。
リーザは見上げる。ジュナシア・アルスガンドを。人々は見上げる。町を解放した者を。兵士たちは見上げる。漆黒の魔者を。
「ウオオオオオオオオオオオ!」
月を背に、彼は低い低い声で、ただ吠えるのだった。




