第7話 ロングレイズ解放戦 中編
皆、下を見ていた。
空腹と疲れ、何よりも生きる意志を失った人々は、皆下を見ていた。
町中いたる所に、下を向いた人がいた。
彼らは思っていた。もう上を見る時はこないと、思っていた。
だがあっけなく、容易く、人々は顔を上げた。彼を見て顔を上げた。
彼の姿は、異様だった。黒衣の服、深紅のマント、どこまでもどこまでも底が見えない漆黒の瞳。
彼は人々を一瞥すらしない。彼は歩いていた。町の中央を、人々の中央を。
その彼を追う者がいる。ロンゴアド兵団の鎧を着た男たちが数人、彼を追っている。
人々はそれをぼんやりと眺めていた。上を向いて、眺めていた。
「ジュナシア様……! 本気ですか……!? 魔法師様たちが立てた作戦は……!」
「リーザがやると言った。ならば任せる」
「そんな! リーザ様は、あくまでも……すでに娼館には兵士が潜入しています! 余計なことをせずとも内部へ入れた時点であの方の仕事は終わってるのです! あとは屋敷への警護にまぎれて……」
「変更だ。全て忘れろ」
「数日かけて情報を集め、領主の兵にまぎれて王城へ潜入する作戦は……?」
「潜入させた兵はわざと逃がす。結局城に入れればあとは同じだ」
「そんな打合せも無しに……無茶苦茶な……娼館の館主は領主の息子ですよ……! リーザ様がしくじれば、あっという間にファレナ王国本国より援軍がきて、ロンゴアドの解放はそれこそ数年単位で遅れますよ……!」
「この周囲で一番高い場所はどこだ。娼館と、屋敷が同時に見ることができる場所があれば一番いいが、二か所でもかまわん」
「は? それなら……聖堂の上が一番高いですけど……町を見回せます……」
「そうか」
「いや、あの、何を?」
「お前たちはもういい。屋敷へ行け。ファレナ王国騎士団の人間を全て無力化しろ。援護はする」
「は、はぁ……うぐぐ……くっ、皆、行こう」
兵士たちは不満そうに、複雑な顔をして駆けていく。赤色の男を一人残して。
人々は虚ろな目で彼を見上げていた。下をみることしかできなかった人々は、彼を見上げていた。
深紅のマントを払って、彼は歩く。人々の眼差しを受けて、彼は歩く。
人々は救いを求めることすら諦めていたが、それでもその男に、何故か希望を感じていた。
圧倒的強さは時に、人を惹きつける。人の身体のまま人を超えた人間は、いるだけで人を惹きつける。
人々は自覚していなかった。彼を見る彼らの眼には、光が写り込んでいたことを。
希望は誰にでも与えることができる。例えどんなに、心が弱い人間であっても。
ロングレイズの町にある娼館の中で、最も目立つ場所で、二人の女が柵に囲まれて座っていた。艶やかに座るアドラネに、膝を抱えて片隅に座るリーザ。彼女たちは互いの視線を交わすことなく、並んで話し込んでいた。
「繰り返しますよアドラネさん。私は、この魅了の薬を使って領主に近づきます。んで、上の……その、部屋で。やります。領主を、殺します。できれば館主も……」
「私はここに火を放って逃げる。子供も、一般人の男たちも、女たちもみぃんな連れて」
「はい」
「何というか、単純すぎないかい? 本当にそれでこの町が変わるのかい? 外には馬鹿みたいに兵士たちがいる。あんたの仲間そんなに強いのかい?」
「そこは心配しないでも大丈夫です。いろいろ規格外なんで」
「ふぅん……まぁ、いいさね。しかし、解放者だっけ? 何とも、無茶な話じゃないの。何万人いると思ってるんだいファレナ王国が持つ兵は。それが100ちょっと? いつか絶対無理が来るよ」
「はい、それは皆わかってます。だから、迅速に、反撃をしようと思った時には手遅れなぐらいに迅速に」
「味方以外は皆殺し。一気にせめて一気に殺して一気に進む。なんとも合理的で、嫌なやり方だね。そんなの、よく命令できる。あんたの主はよっぽど肝が据わってるんだねぇ」
「座ってませんよ。ファレナ様はお優しい人ですから。きっと……泣いている。心のどこかで。でも、誰かがやらないと。私も、やらないと」
「……一つだけお姉さんから忠告だ。ジーナ、こんなの、どこかで無理が出る。こんなのやり切れるやつがいるとしたら、そんなの人間じゃない。人間じゃないんだ。最後の時は、逃げるんだよ。逃げてもいいんだよ。わかったね」
「アドラネさんお姉さんって歳じゃないんじゃ」
「馬鹿、そこは静かにうなずいとくんだよ。気が弱いくせに変なところで一言多いねあんたさぁ」
「あははは、すみません」
手を伸ばして、アドラネは飲み物を口に含んだ。両足を押え、俯き小さく振えるリーザを横目に。
彼女のやろうとしてることは、極々単純なこと。頭を倒して、その手足である兵をこの町から一歩も出さない。即ち、敵を迅速に全て殺すこと。
普通であればそんなことは誰にもできない。人が一人の人間を殺すためにはかなりの時間がかかるからだ。逃げられる場合もある。
だが、リーザはやろうとしている。本来であれば数日かけてじっくりと情報を集め、状況を踏まえて動くべきだが、彼女は今日一日で終わらせようとしている。
それもこれも、この町の状況、この娼館の状況が彼女にとってありえない状況だったから。大人が子を売る。子供が身を売る。数枚の硬貨のために。一回の食事のために。
それが彼女にとって、たまらなく許せなかった。
リーザは薬を飲む。数刻だけ、ありとあらゆる人間を魅了する薬品。アルスガンドの一族に伝わる霊薬の一つ。
時間が経つにつれてその薬は効果を発揮する。彼女たちが入っている柵の周囲に何とも言えない空気が漂う。
「うわすっごいね……同性なのになんか変な気持ちになってきたよ私」
「や、やめてくださいよアドラネさん!」
「あはははは冗談だって。さぁて、ひっかかるかねぇあの豚さん」
リーザが飲んだ魅了の薬の効果は絶大だった。彼女達の柵の前を素通りしていた男たちは、皆その匂いにつられて、その空気につられて、柵の前に立ち止まった。そしてあっという間にリーザたちの柵の前に男たちの群ができあがった。
汗と脂。男たちは皆リーザを見て獣のような顔を見せる。柵につかみかかる者もいる。
柵を隔てた場所には声が届かない。だが男たちの口元から何を言っているかがわかる。男たちは、リーザを抱かせろと訴えているのだ。
その視線に、その口に、リーザは気が遠くなるような感覚がした。生理的に気持ち悪いとはこのことだと、彼女は理解した。
「初日の顔見世からこれねぇ……あんた伝説になるよ」
「ほ、本当に初日は顔見世だけなんですよね? 連れていかれませんよね?」
「大丈夫。例外はあるけどね。基本的には大丈夫さ。相手は金持ちばかり。へまやらかしたら終わりだからさこの娼館も」
「れ、例外は……領主と、ファレナ騎士団の騎士……でしたっけ……?」
「そう。領主に選ばれたら晴れて娼館の最上階にご招待。一晩やられるだけやられて、もしそこで気に入られたら屋敷行き。あとはボロ雑巾みたいになるまでやられてポイさ」
「くっ……卑劣な……」
「領主は豚さ。私の同僚も何人も廃人にされた。あれに愛情なんかないのさ。だから気兼ねなく殺しちゃいな。みんな喜ぶよ」
「はい……!」
「あとは時間との勝負さ。騎士に見つからないようにってのも無理があるねこれじゃ。頼むよぉ豚さん、急いで来なよぉうまいもんあるからさぁ……」
リーザは唾を飲んだ。男の群はひっきりなしにせめかけ、娼館の店員に押され次々と顔が変わっていく。
娼婦として長いアドラネもここまで男たちが迫る光景を見るのは初めてなのか、普段の澄ました顔とは違う顔を見せていた。どこか、ひきつってるかのように。
娼婦としての経験どころか交際経験すらないリーザにとって今の状況は、耐えきれるものではない。だがそれでも、辛うじて耐えているのは目的があるから。人を助けるという目的があるから。
リーザの胸元の羽が5度リーザの肩を叩く。その羽の合図に、リーザはハッとなって顔を上げた。
「なんだこれは! どけどけ領主様が参ったのだ! 斬り殺すぞ!」
その声に反応したのか、男たちがさっとリーザの前からいなくなった。男たちが離れたことで、リーザの前に道ができた。
兵士。ロンゴアド兵団の鎧の兵士と、ファレナ王国騎士団の鎧を着た兵士。二人に挟まれて立つ太った男。
男の服には無数の宝石がちりばめられていた。その姿、一言で言い表すならば、飾り付けられた豚のよう。男は、ロングレイズの町の領主である。
「ほほぉー初顔か……どぉれどれ」
領主はその膨らんだ腹部を揺らしながらリーザの近くまで脂ぎった顔を寄せる。柵の中には声は届かないはずなのに、なぜかその領主の声だけはリーザの耳に届いていた。
「そこまで群がるほどか? 確かに、顔はよい。絶品だ。だが身体が……しかしなんだこの匂いは。んん……?」
リーザから発する何かに、領主は困惑していた。様々な女を見て、抱いて来た領主にとって、リーザの姿はそこまで気を惹くものではないのだろう。
アドラネはそれを察して、するりとリーザのスカートをまくり上げた。白い脚が露わになった。
歯を食いしばって、顔を赤らめて、リーザはされるがままに座っていた。小さな声で自分に我慢しろといい続けながら。
「ほほー! 足はええな。それに、なんだか……才かこの女の。なるほど、なるほど……おい、この女にするぞ今夜は。何? 顔見世だと? 知らんわとっととこの女を上にあげろ!」
大声で兵士に命令する領主。深々と頭を下げて、兵士は店員に話しかけた。
そしてすぐに、柵の後ろの扉の鍵が開く音が鳴り響いた。リーザはスカートを直し、眼を瞑って深呼吸すると、その扉の前へと歩いた。
「薬使ってもこんだけギリギリって、ジーナ色気ないんだねぇとことん。はははは!」
「そ、そんなことないですよぉ! はぁ……じゃあ……行ってきます。アドラネさん、たぶんすっごいことになるんで、頼みますよ」
「はいはい。逃げるのは得意さ。任しときな」
「はい」
そう言いながら強くうなずいて、リーザはその小部屋を後にした。




