その2
「どうやら、越野さんはお兄さんの勤めている会社の同僚のようですね。ご存知でしたか?」
花門和十の部屋で、机の引き出しに散らばっていた名刺の一つを片手に椋露路は莉紗に尋ねた。
「いえ、兄は会社や友人の話は滅多にしないので……初めて聞いた名前です」
「そうですか。おっと、越野司さんの住所がご丁寧にアドレス帳に登録されてる。それにしても、ううん、最近の通話履歴、メールの記録が消されてる。
「お兄さんはやはり人に知られてはまずいことをしていたようだ。しかし、携帯電話を置きっぱなしにするのは妙だね」
椋露路は花門和十の携帯電話を鞄にしまうと、床に四つん這いになった。
「あ、あの、椋露路さん?」
ドアの前に立って、椋露路の様子を見守っていた莉紗が不思議そうに呼びかけたが、椋露路は至って真剣な面持ちで、慣れた様子で隅から隅まで部屋を観察していく。
「うん。お兄さんは今時手紙を書いたりするのかな? 便箋と封筒を買ったようだけれど、日付が五日前というのが気になるね」
椋露路がゴミ箱に捨ててあったレシートを拾い上げて、莉紗に尋ねた。莉紗は首を傾げる。
続いて椋露路はノートパソコンの電源を入れた。この部屋にパソコンは一台だけだ。
「やっぱりこっちのデータも消されている。お兄さんはコンピューターには詳しいのかい?」
「詳しくはないと思いますが……会社で事務をやっているのでそれに支障が出ない範囲じゃないでしょうか」
「文書の作成はパソコンでもできるわけだね、ふうむ。このパソコンはあとで知り合いに解析してもらうとしよう。それじゃあ次は越野司さんの家を尋ねるとしようか、といっても今は仕事中だろうけれど、その方が調べるには都合が良さそうだ」
花門宅はメリーヴェール探偵事務所から徒歩十五分ほどの距離に位置していて、椋露路と莉紗はそこから最寄り駅である京王線府中駅まで歩いて移動した。越野司は調布駅近くの賃貸マンションに住んでいるようだった。府中駅からは特急で一駅の場所だ。
電車内はまばらだったが、椋露路は人目を避けて車両隅の優先席に腰を下ろした。それにしても目立つらしく乗客たちはちらちらと彼女に視線を送った。莉紗は隣に座ると遠慮がちに言った。
「その、仕事中ならきっと鍵が掛かってますよね、家に」
「ふふっ、僕は閉ざされた扉を開ける技術に関しては自信があるんだ。 一般的な住宅の玄関扉なら三秒もあれば解錠できるし、警察の鑑識にも僕が立ち入ったことを気付かれることなく部屋を物色し、気配の一欠片も残さずに――必要ならば置き手紙と薔薇の一輪でも添えて、その場を去ることができるよ」
「でもそれって……」
「しかし、僕でも欺くことのできない苦手な相手がいるんだ。莉紗さん、それは誰だと思う?」
「え? ええと……猫とか、だったりして」
椋露路は感心したように莉紗に視線を送った。
「そうなんだ、彼女らは生まれついての名探偵だからね。犬はやかましく吠え立てて不審者が侵入したことを宣伝するし、猫に至っては驚いたことに一度交番まで警官を呼びに行ったことがあるよ。探偵だって説明してその場はどうにか上手く収めたけれど、それ以来、僕は上等なペットフードとそれを入れる小皿を持ち歩くようにしてる。尻尾を振って召し上がった後はすやすやと眠るものだから、安心して調査できるよ」
「は、はあ……でも、それって不法侵入じゃ……」
「おっと! 着いたようだよ、降りよう、莉紗さん」
椋露路は慌てて立ち上がると、莉紗の手首を掴んで電車を降りた。
ところが、今回に至っては椋露路の解錠術もペットフードも全く役に立たなかった。何故なら、普段ならこの時間は会社にいるはずの越野司が二人を出迎えたからだ――物言わぬ死体となって。
「至近距離から左胸を刺されたあと、さらに銃で撃たれたみたいだ」
椋露路は真剣な面持ちで莉紗に玄関から離れるように注意してから、慎重に死体を調べた。
「殺されてからまだ三十分も経ってない」
「ま、まさか、あ、兄が……?」
莉紗は通路の手すりに掴まって身体を支えながら、真っ青な顔を死体の転がったワンルームマンションの一室に向けている。
「莉紗さんはこっちを見ない方がいい、倒れてしまうよ。でも悲鳴を上げてくれないのはとても助かるよ、人が来る前に現場を調べておきたいから」
椋露路は白い手袋をはめた手を、死体が身につけているスラックスの右ポケットに伸ばした。
「やったのはお兄さんか? 親切にもその回答がポケットに挟んである――死んで当然の人間が死んだ。悲しむことはない。嘆くことがあるとすれば、それによって私が悪魔に身を堕としてしまったことだ。これで匂坂直行と越野司の二体を始末した。あと三体を葬ろう。一体は私自身、残り二体は簡単に見つかるだろう。裁きを受けなければならない奴らが平然とのさばっているのだから。花門和十」
「そんな……」
ワープロで印字された文章を読み終えると、莉紗は絶句して膝を落とした。
椋露路は素早く死体周辺を調べ、落ちていたボールペンを拾い上げてビニールの袋に入れると、立ち上がって写真を三枚撮った。
「よし、あとは警察に任せよう。さあ、莉紗さん、気を強く持って。まだお兄さんの犯行と決まったわけじゃない」
莉紗を励ましてどうにか立たせると、椋露路は急いで現場をあとにした。
※
椋露路が黒色に銀の装飾が施された小さめのパイプを咥えて慣れた手つきで煙草を詰めると、シュッというマッチを擦る音に続きパイプの口からもくもくと煙が立ち昇った。彼女はソファに深く身を沈めて静かにそれを眺めた。
「依頼者はどうしたの」
メリーヴェールはそんな彼女の様子を見てしばらく放っておいたが、頃合いを見て声をかけた。
「家に帰した」
うわのそらで返事をしてから、椋露路は気だるく身体を起こした。
「推理小説的探偵の現実社会における存在意義とは」
椋露路は誰にともなく問いかけたが、メリーヴェールは仕方ないといった調子で応えた。
「犯罪を未然に防ぐこと、でしょ。でも朱寧は抜けたところがあるから」
「うん。泣き言を言っても仕方ないしやるべきことも判っているけれど、こういうことがあると気が滅入るよ」
椋露路がメリーヴェールをちらりと見やると、不吉な予感を感じ取ったらしく赤毛のメリーはくるりと踵を返した。
次の瞬間、椋露路はにやりと笑い、メリーヴェールに抱きついた。
「ふわぁ」
「ふふふっ、もふもふもふもふもふもふもふもふもふもふもふぅ」
抱き締めて頬擦りされている間、メリーヴェールは無駄な抵抗をやめて嵐が過ぎ去るのを待った。
「ふう……」
「その抱き締めた後でため息着くのはやめてくれないかな」
解放されて揉みくちゃになった服と髪を直しながら、納得いかないといったふうにメリーヴェールは抗議した。
「それはそうと、君の彼氏から一昨日の事件について聞いてくれたかい?」
彼氏じゃないと断りを入れてから、メリーヴェールは左手に掴んでいたレポート用紙を渡した。それには刑事から集めた一昨日の銃殺事件に関する情報がまとめられている。
椋露路は改めてソファに腰を下ろすとペラペラとレポート用紙を捲った。
「殺されたのは匂坂直行という四六歳の男性。古い木造アパートで一人暮らし。死亡推定時刻は夜十一時半から十二時半の間。熟睡中に拳銃で頭を撃ち抜かれた模様。犯人はベランダから音を立てないように窓を割って侵入したものと思われる……花門和十が犯人と仮定して莉紗さんの話と合致するね。歩いて移動したと考えて時間的にもぴったりだ。凶器も四五口径の拳銃で一致している。ただ……」
彼女はレポート用紙を机に置くと、後ろにもたれ掛かって手足をぐぐっと伸ばした。
「んー、なぜ犯人は一人目を殺した時に手紙を置いていかなかったんだろう?」
「あとから思いついたんじゃない」
「しかしね、メル、置き手紙には“これで匂坂直行と越野司の二体を始末した――残り二体は簡単に見つかるだろう。裁きを受けなければならない奴らが平然とのさばっているのだから”と書かれているけど、これは生きる価値がない者を見つけて四人殺すという意味に解釈できる」
「だから?」
「事前に全体像を描き実行された連続殺人のはずなんだ。現に二つの殺人は被害者の行動やスケジュールを把握したうえで実行されてる。それに、警察の捜査によれば一昨日殺された匂坂直行の交友関係は非常に狭く花門和十と直接面識が合ったとはとても思えない。思いつきで殺すなら個人的な恨みを持つ越野司を先に殺すはずだ……もっとも、花門和十が犯人とは限らないけれどね」
「殺された匂坂直行は元受刑者だったね」
「そう書いてあるね。五年前に酒気帯び運転で事故を起こして小学生の子どもを死なせている。殺されるだけの恨みを買っていたわけだね。さてさて」
椋露路は机の上に並べた証拠品たちをぐるりと眺めた。
「メル、そこのボールペンの指紋を取って置き手紙と一緒に彼氏の刑事に渡しておくれ。それと……」
「また現場から勝手に持ってきたの?」
「できるだけ早く情報は入手したいからね。それと、そこのノートパソコンとスマートフォンの消去されたデータを復元して調べてほしい。ついでに指紋も取ってちょうだい」
「復元できるとは限らないけど」
椋露路はメリーヴェールに指示をすると、立ち上がって帽子掛けからミニハットを取った。
「なるべく早くお願いね、なにせあと三人命を落とす予定だから。僕はちょっと依頼者の様子を見てくる。夕飯までには帰るから」
メリーヴェールは椋露路の背中を見送ると、指示されたとおりてきぱきと手配を始めた。




