戦いの果てに
巨獣の視線が、リオスに向けられた。
地が軋む。
獣の前脚が、踏み込む。
咆哮なき怒気が、空気を裂いて迫る。
――だが、リオスの心は、意外なほど静かだった。
(……シエラさん)
あの日の対決が、脳裏に浮かぶ。
怒りに任せて突っ込んできた彼女。
その魔力は荒かったが、確かに骨へ集中していた。
あの時、彼女の制御は確かに荒かった。だが今、その荒さが教えてくれた道筋を、はっきりと理解できた。
(魔力は、血や筋肉だけじゃない。……骨だ。骨を通せば――)
息を深く吸う。
体の中心から、静かに魔力を流す。
筋肉ではない。皮膚でもない。骨格へと、魔力を通す。
熱が、背骨を駆ける。四肢に重みが宿る。
だがそれは、力ではない。動きの芯を生むものだった。
スクローファが地を蹴った。
突進――地が弾け、土煙が舞う。
鋼鉄の塊が直進する。その速度は、見る者すべての視線を追いつかせない。
だが、リオスは一歩――前に出た。
突進の正面。ほんの一瞬、ほんの一歩。
そして――潜り込む。
地面すれすれに滑り込み、獣の巨体の“下”へと飛び込む。
そのまま、強化された腕を、剣を――腹へと、振り上げた!
「――せぇいっ!!」
刃が、裂いた。
厚く堅牢な皮膚を、疾走の勢いが裂け目を引き裂く。
腹を割かれた巨体が、叫びにも似た呻きを上げ、地を引きずりながら転がる。
土煙の中、リオスは立ち上がっていた。
肩で息をしながらも、剣を手に、血の滴る気配の前に――まっすぐ、立っていた。
腹を割かれたスクローファは、巨体を地に引きずりながら、断末魔のような呻きを洩らした。
ぶちぶちと、筋肉の裂ける音。
内臓の湿った音が、土に溶ける。
それでも、なお一歩、二歩と進もうとする執念の残響。
だが、それも――そこで終わった。
獣が、倒れる。
土煙の中に、重い音が響いた。
しばしの沈黙。だが、それは一瞬で破られた。
「やっ、やった――!」
「倒したぞッ!!」
新兵たちが、あちこちから声を上げる。
張り詰めていた空気が、一気に緩んだ。
「坊――! 坊、無事ですか!?」
駆け寄ってきたのは、ルグナーよりも一歩早く、姉リュシアだった。
地面を蹴り、弟の前に膝をつくと、細い肩を抱き寄せるように確かめる。
「……無茶、しすぎ。大丈夫?」
その声音には、怒気も呆れもない。
ただ、心配と――確かな誇りが滲んでいた。
「うん、平気。……ちょっと、疲れただけ」
リオスは、かすかに笑った。
額には汗。手には返り血。だが、剣はしっかりと握られていた。
「――よくやりましたな、坊」
ルグナーの声は低く、だが震えていた。
「これが実戦でなければ、すぐに閣下に叱責されるところでしたぞ。
……が、今は、褒めておきましょう。よくぞ斃した。見事でした」
そして、一拍。
「――しかしながら、命令違反は命令違反。後で叱ることになりますぞ?」
「はい……」
リオスは素直に頷く。
だがその頬には、叱られる子ども特有の、どこか誇らしげな赤みが宿っていた。
その様子を見て、リュシアは小さく笑った。
「ふふ……これで、私より先に実戦で手柄を立てたことになるのね」
「えっ、それは……そうなるの?」
「ええ。くやしいわ」
笑いと共に、戦場に陽光が差し込んだ。
戦いの跡に、静かな風が吹き抜けていく。
◇
戦いは、終わった。
スクローファの巨体は、土の上に横たわり、その身から流れ出た鮮血が黒く濁った水たまりを作っていた。
その周囲では、新兵たちが手際よく動いていた。
負傷者の搬送、応急手当て。
切断された装備や破損した武具の回収。
そして、獣の死体の解体に備えた道具の準備。
リオスは、少し離れた木の根元に腰を下ろしていた。
血に濡れた手を、まだ洗えずにいる。
(なんで……怒ってたんだろう)
獣はただ暴れていたわけじゃない。
罠を壊し、位置を見抜き、明確に狩りを仕掛けてきた。
あれは本能ではない。怒り――それも、何かに対する理由のある憎しみのように感じられた。
だが、それが何かは、結局わからなかった。
――分からぬまま、斃してしまった。
その事実が、剣を振るった右手に、じわじわと冷たい感触となって染みついていく。
「……罪悪感、かしら?」
声がした。
姉リュシアが、隣に立っていた。
リオスは、答えずに少しだけうなずいた。
リュシアは、しゃがみ込み、弟と視線を合わせる高さに身を落とす。
「何を考えていたの?」
その問いに、リオスは迷いながらも、目を伏せたまま呟いた。
「……倒さなきゃいけなかったのは、分かってる。
放っておいたら、街が危なかったし……みんなも、死んでたかもしれない。
でも……あいつ、怒ってた。ちゃんと、理由があって怒ってるって、分かったんだ。
なのに、僕は……それを、分からないまま、殺した」
静かな風が、葉を揺らした。
「それが……ごめんなさいって、言いたくなるくらい、胸に残ってる」
リュシアは、しばし無言だった。
やがて、小さく息を吐くと、リオスの肩に手を置いた。
「――それは、とても良いことよ。リオス」
その声には、叱責も慰めもなかった。
ただ、受け止める肯定のぬくもりがあった。
リュシアの言葉が落ち着いたその時、もう一つの影が近づいてきた。
「……なるほど。思い悩む顔をするには、まだ若すぎる気もしますが――」
低く、穏やかな声だった。
ルグナーが、いつもの仮面のような無表情を湛えたまま、二人の前に立った。
「ですが、それでも、その問いから目を背けぬのは、立派なことです。
命を奪うとは、そういうこと。敵であれ、獣であれ、殺したことには変わりませんからな」
彼は地面に目を落とし、巨大な死体の腹部から引きずり出された臓器のひとつをちらりと見やる。
「武人にとって、殺す理由は必要で――そしてそれを忘れぬことが、次の剣を鈍らせぬためにも大切なのです。
坊がそのことを、今日ひとつ学ばれたのであれば……我らとしては、これ以上の成果はない」
リオスは、ゆっくりと目を上げ、頷いた。
「……うん。ありがとう、ルグナー」
「ふふ。真面目な話も、ここまでね」
リュシアが立ち上がり、リオスの前に何かを差し出す。
「……え? これ……」
それは、まだわずかに温かみを帯びた赤黒い肉塊だった。
血の滲むそれは、どう見ても――
「牙獣の心臓よ。あんたが倒したんだから、あんたのもの」
「えっ、心臓!? なんで!?」
「オーガの戦士たちはね、自分が倒した敵の心臓を食べるの。
相手の力を取り込むっていう意味合いと、命への敬意を示すための、戦士の慣習なのよ」
「ほんとに?」
思わず聞き返すリオスに、ルグナーが苦笑した。
「本当には本当……ですが、かなり古い慣習ですな。今では実際にやる者など、ほとんど見かけません」
「……じゃあ、今はやらないの?」
「ですが、魔獣相手ならば、現代でも野蛮とは云われません。
相手がヒトでなければ、今なおその行為には意味があります。
それに――坊が今日斃したのは、並の兵ではまず敵わぬ獣。
その力を讃えるに、これ以上の儀式はないでしょう」
リオスは改めて、心臓を見下ろす。
重い。手の中にあるだけで、命の重さが残っているようだった。
「……じゃあ、食べる」
そのまま口へ運ぼうと――
「……火、通しちゃダメ?」
ぽつりと漏らした言葉に、リュシアとルグナーがほぼ同時に吹き出した。
「ふふっ、ダメとは言わないわ」
「禁止されているわけではありません。……ただ、生のほうが“それっぽい”というだけで」
「……よかった」
そう言ってリオスは、安堵の息をついた。
その顔は、子どもらしい可愛らしさと、命と向き合った者の確かな誇りとが、奇妙に同居していた。




