これはもう、訓練じゃない
隊列はゆっくりと森の奥へと進んでいた。
木漏れ日がまばらに落ちる中、新兵たちは足元に気を配りながら進む。
そのときだった。
リオスの目が、ふと前方の地面に吸い寄せられた。
(……なんだ、この土)
そこだけ、落ち葉の積もり方が不自然だった。
風の通り道にしては偏りが大きく、何かを隠しているように見える。
(踏み跡がない。……それなのに、葉の量が周囲より多すぎる)
視線を滑らせる。枯葉の下――微かに浮かぶ細い糸。
古びた枠木。……簡易な、だが確実に作動する何らかの罠だった。
前方、新兵の一人が、まさにその地点へ足を伸ばしかける――
「――そこ、踏んじゃダメ!」
咄嗟に、リオスの声が響いた。
青年兵がぴたりと動きを止め、驚いたように振り向く。
その瞬間、教官の一人――グリードがすぐに駆け寄った。
膝をついて葉を払うと、罠の起動板が露わになる。
「……見事だな。立派な判断だ、リオス坊ちゃま」
苦笑を浮かべながら、グリードが立ち上がる。
「けれど――教えちゃダメですよ、訓練なんですから」
リオスが小さくうつむいた。咎められたというより、気まずそうな顔。
だが、グリードはすぐに声色を変えた。
「とはいえ、これが実戦なら――命を救った立派な行為だ。
坊ちゃまの観察眼には……まったく、舌を巻きますな」
そして、リオスの傍らに立っていた新兵に視線を移す。
「お前は――訓練中に足元の確認を怠った。
それと、領主の御子息に注意させた責任だな。腕立て、百回。今すぐやれ」
青年兵は顔を真っ赤にしながらも、即座に地面に手をついた。
「……はいっ!」
落ち葉が舞い、音を立てて彼の身体が地を叩く。
その様子を見ながら、リオスはそっと姉の袖を引いた。
「……僕、言っちゃダメだったのに」
リュシアは小さく笑って、弟の頭を軽く撫でた。
「いいのよ。命を救ったら、それが正しい。それだけのことだわ」
◇
訓練班は再び進路を取り直し、獣道沿いを慎重に進んでいた。
さきほどの罠の件もあり、新兵たちも周囲を警戒して集中している。
やがて、木々の間に設置された意図的な簡易罠が視界に入った。
訓練の一環として用意されたもので、引っかかっても枝が揺れて音を立てる程度のイタズラに近い仕掛けだ。
「……あれ?」
先頭を進んでいた新兵の一人が、訝しげな声を漏らす。
「これ、……壊されてます」
その報告に、後続の兵士と教官が集まる。
引き倒された木の枝、折れた誘導糸、潰れた支柱。
「誰か、間違って踏んだんじゃないのか?」
「いや、それなら起動痕が残るはずです。これは……作動すらせず、破壊されたような……」
そう呟いた兵士の背後から、リオスが静かに歩み出た。
倒れた罠の端にしゃがみ込み、指で地面をなぞる。
――折れた木の繊維の向き。
――引っ張られた痕と、足跡の向き。
――周囲に散らばる毛の断片。
そして、リオスはぽつりと呟いた。
「……これ、罠の仕組みを理解して壊してる」
辺りの空気が、微かに張り詰めた。
「しかも、引っかかる前に壊してる。完全に狙ってるってことだよ。
普通の牙獣なら、偶然ってこともある。でもこれは……意図してる」
リュシアも眉を寄せて、弟の言葉にうなずく。
「それに……この踏み痕。体重と歩幅が、成熟した個体のものね。幼体じゃない」
グリード教官も眉をひそめた。
「……まさか、ここに成熟したスクローファが?」
それは、地元の猟士たちの間でもこの地域にはいないはずとされている存在。
それが現れたというなら――生態系の逸脱、もしくは何らかの誘因が考えられる。
だが、リオスはただ、淡々と地面を見つめていた。
「この感じ……きっと、ただ賢いだけじゃない。
怒ってるんだ。……何かに。明確な意思がある」
しん、と森が静まり返っていた。
グリードは倒れた罠の跡にしばし目を落とし、腕を組むと、静かに兵たちを振り返る。
「……訓練はここまでだ。中止する」
その声に、兵士たちはざわめいた。だが、それを止める者は誰もいない。
練度の低い新兵たちでは、対処不能な相手。
しかも相手は牙獣でありながら、罠を理解し破壊する理性と、縄張り意識以上の明確な敵意を持つ存在。
「このまま深入りすれば……訓練では済まぬ」
グリードの声に、重みが宿る。
即座に小隊が二列に並び直される。先導と殿には教官が配され、撤退の態勢が整えられた。
リュシアとリオスも、その中央に位置しつつ、周囲への警戒を強めていた。
だが――帰路に入り、しばらく進んだその時だった。
リオスの足が、不意に止まる。
「……あれ、魔力……?」
同時に、リュシアの眉がわずかに動く。
「……いる。すぐそこ。進路の前方」
風の向きが変わる。湿った空気に、濃密な何かが溶け込むような気配。
言葉にできないが、誰の肌にも察知できるそれ――魔力。
しかも、幼体のそれではない。
まるで山そのものが呼吸を始めたかのような、巨大で濁った魔圧が、林の奥から滲み出していた。
「姿は……ない。けど、確かにいる」
兵たちの顔から、血の気が引いていく。
中には膝を小刻みに震わせる者もいた。
グリードは片手を挙げて、列を制止させると、前方を睨みながら呟いた。
「……成体の、牙獣か。……しかも、成熟しきった個体」
彼の言葉に誰もが息を呑む。
その気配は、見えぬが確かにそこにあった。
姿なき魔獣が、彼らを――通す気がないという意思をもって睨んでいた。
魔力の気配は、依然として前方の森から消えなかった。
見えぬまま、息を潜め、彼らを“通さぬ”と睨んでいる。
隊列の中央で、グリードは数秒の沈黙の後、低く呟いた。
「……無理だ。退けん」
その言葉に、リオスが顔を上げる。
グリードの視線は、前方の林ではなく、さらにその奥――つまり、街を見据えていた。
「このまま放置すれば、奴は街へ降りる。
牙獣の成体、それもあれほどの魔力を持つ個体が、街に出れば被害は計り知れん」
兵たちの間に緊張が走る。
それは訓練の空気ではない。実戦だ。
「――よって、この場で討つ。標的は一体。成体スクローファ」
そう宣言したグリードの顔は、普段以上に引き締まっていた。
「新兵とはいえ、貴様らはすでに実戦訓練を終えた者たちだ。
訓練陣形を展開。前衛三列、左右防御。魔力班は後方支援」
即座に、新兵たちが動き出す。
練度は高くはない。だが、動きに迷いはなかった。
それぞれが、訓練の中で叩き込まれた配置へと素早く移動し、武器を構える。
リオスとリュシアは中央やや後方に位置し、護衛兵の内側に組み込まれていた。
「武器を抜け。魔力に呑まれるな。深呼吸――落ち着いて前を見ろ」
グリードの声が、陣形全体を貫く。
「命を刈り取る獣は目の前にいる。だが――貴様らが命を繋ぐ者たちだ。
全員、生きて帰るぞ。……構えろ!」
その瞬間、森の奥――
風が巻いた。
見えぬ魔獣が、まるで挑むように地を踏み、魔力の波動をぶつけてきた。
獣の気配が、重く、圧倒的に迫る。
その場にいた誰もが理解していた。
これはもう、訓練ではない。……生きるための戦いだ。




