未熟は伸びしろ
今回、メルヴィラは判断に迷った。
正確には、迷いを表面に出したと言うべきか。
資金の運用に関しては、リオスはもとより、リュシアにさえ、まだ教育をしていない段階だ。
そもそも、領地の運営術は、成人後から段階を経て教え込むものである。
グリムボーン家の教育は、他家と比較しても進行が早い。
それでも、金勘定に関しては、庶民と同等の常識を教えるに留まっているのが現状だ。
必要経費を算出したリオスの会計能力は、賞賛に値する。――内容の吟味は別途必要であるが。
だが、ドランが口にした、資金を手元に残し、融資でやりくりする方法などは、事前の教育がなければ考慮の外だろう。
『あなたが危うい案を出した時点で、私は思案していたの。
却下して正解を教えるか、あえて失敗させて痛い目を見させるか』
通信室の空気が、一段と締まった。
『あなたなら、何が起きても乗り越えるかもしれない。
私はそこに期待しているのだけれど、逆に、乗り越えてしまったら、それが成功体験になってしまう。
手元に余力を残すという発想にたどり着けないかもしれない』
ふわり、と。
メルヴィラの視線が動き、後方に控えるウェルティアを捉えた。
ウェルティアの背筋に、氷の刃を押し当てられたような悪寒が走る。
言葉はない。
だが、その赤い瞳は雄弁に物語っていた。
――主が誤った道に進もうとした時、止めるのも役目よ。
ウェルティアの喉が引きつる。
呼吸すら、意識しなければできないほどの重圧。
『ドラン』
メルヴィラの名指しに、商人が居住まいを正した。
『あなたの交渉術は見事だわ』
「もったいないお言葉で」
『不興を買うことを恐れず、言葉を尽くした。商人の鑑ね』
ドランは、脂汗の浮いた額を手の甲で拭った。
「いやいや、そない大層な話やあらへんて。
ただの商売人やさかい、儲けになりそうなこと言うただけです」
『いいえ。その勇気を称えるわ。――リオス』
呼ばれた少年は、背筋を伸ばした。
『次は、自分一人でその落とし所に気づけるようになりなさい』
「……はい、母上。肝に銘じます」
『他には? 報告すべきことはあるかしら』
「今は、これだけです。詳しい状況は、後で屋敷に戻った時に、書面にまとめて提出します」
メルヴィラは、満足げに目を細めた。
『期待しているわ。――通信を終了します』
通信機から放たれていた淡い光が、ぷつりと途切れた。
ブツン、という音と共に、部屋を支配していた重圧が消失する。
ドサッ。
通信機に魔力を注いでいた村長が、崩れ落ちるように膝をついた。
「お、終わった……。命が縮まる思いでしたぞ……」
荒い息を吐き、床に手をついている。
ドランが、ハンカチで首筋を拭きながら覗き込んだ。
「村長、大丈夫か? 魔力の消耗が激しいんか?」
「いえ……魔力の吸い上げはそれほどでも……
それ以上に……」
村長は震える手で胸を押さえた。
「映像越しとはいえ、奥方様の視線が、心臓を鷲掴みにされるようで……」
言いかけて、ハッと我に返り、慌ててリオスたちを振り返る。
「も、申し訳ございません! 滅多なことを申しました!」
リオスは、困ったように眉を下げて笑った。
「いいんだよ。厳しいところもあるけど、本当は優しい母上なんだ」
「そうね。今日はむしろ、かなり機嫌がよかった方じゃないかしら」
リュシアが、面白がるように赤い唇を吊り上げる。
村長は口を半開きにして、そのまま石像のように固まった。
その横で、ウェルティアだけが、先ほどのメルヴィラの視線を反芻していた。
――あの目は、次は私に進言しろ、という意味だったのか?
心臓の鼓動が、いまだに耳の奥でうるさく鳴っている。
冷や汗が、鎧の下着を濡らしていた。
彼女の故郷、フォールム神聖王国では、上位の者に意見を述べることは死を意味した。
領主だった父は、進言を聞く耳を持っていたが、それでも下からの声が上がることは稀だったのだ。
ウェルティアは、傍らのドランへ視線を向けた。
「ドラン殿……」
声が、かすれる。
「貴殿は、怖くはなかったのか?
その、リオス様の案に、異を唱えることが」
ドランは、彼女の問いの裏にある恐怖を敏感に察した。
「……そらあ、他所ならこんな危ない真似はしませんわ。
魔国だろうが人間の国だろうが、その辺は変わりまへん」
フォールムは特別厳しいが。という言葉をドランは飲み込み、口角を上げて続けた。
「けど、グリムボーン家の皆さんは、ちゃんと話を聞いてくれはる。
それを信じられるくらいには、付き合いが長いんでな」
ドランの視線が、村長をなだめているリオスの背中に向けられる。
「あんさんも、若旦那の下に付くんやったら、これから人柄を知っていけばええ」
そう言って、ドランは出口の扉へと向かう。
「ほな、ウチは宿に戻って、形にしてきます。ここでの話は成立。あとは、紙にして押印や」
扉が開き、外気が流れ込む。
ドランは一礼だけ残し、軽い足取りで出ていった。
「……お姉さま」
透き通るような声。
だが、その瞳には聡明な光が宿っている。
ウェルティアは、妹の元に歩み寄り、膝をついた。
その横顔には、自責の念が張り付いている。
「……すまない、ティナ。私は、また間違えたのかもしれない」
ウェルティアが、ポツリと漏らした。
「リオス様に忠誠を誓ったのに。心の奥で、疑っていた。口を出せば見捨てられる、と」
情けなさが、胸の奥に染みていく。
騎士としての誇りを掲げながら、その実、保身に走っていた自分。
そんな姉を、ティナはまっすぐに見つめ返した。
「……お姉さま。未熟なら、リオス様と共に成長すればいいじゃない」
「え……?」
「リオス様だって、今見たとおり、完璧ではないでしょう?」
ティナは、未だ村長に言葉をかけているリオスへ視線を向け、柔らかく微笑んだ。
「それならば、お姉さまが支えられるように……
今は力が足りなくても、一緒に歩めばいいのよ」
「……ああ。そうだな。お前の言う通りだ」
ウェルティアは頷いた。
妹の言葉は、いつだって正しい。
そして、いつだって優しい。
しかし、ウェルティアの視線が下へ――ティナの動かない足へ向かうと、暗い陰が差した。
――けれど……手足の自由を失ったお前は、どうなる……?
自分は騎士として働けるかもしれない。
だが、両足の骨を砕かれ、歩くことすらできない妹は。
この先、誰かの介助なしでは生きていけない。
本当に、愛玩人形として生きてゆくのか。
その絶望的な未来が、ウェルティアの心を鉛のように重くする。
そんな姉の憂いを察したのか。
ティナは、悪戯っぽく、小さな唇を綻ばせた。
「そういえば、言ってなかったけれど」
「ん?」
「魔国では、手足が砕けたくらいなら、治療できるそうよ?」
「……は?」
ウェルティアの思考が停止した。
言葉の意味を理解するのに、数秒を要する。
「な、なんだって!?」
素っ頓狂な声が、狭い部屋に響き渡った。




