金と矢
通信室に、リオスが金額を告げたあと、沈黙が落ちた。
通信機越しに、遠く離れたメルヴィラの気配だけが滲んだ。
リオスは用意していた書類を揃え、数字の根拠を読み上げる。
楽観の余地を削り、厳しい想定だけを積み上げた――その結論が、先ほどの金額だ。
建設資材、道具、職人や専門家の人件費、そして当面の食料。
さらに、輸送中の目減りや不測の破損まで見込んだ。
それらをまとめて、リオスの資産で賄える。
「母上。資金の件ですが」
リオスは目を開き、通信映像の向こうへ告げた。
「僕の個人資産で、すべて賄います」
声は澄んでいた。胸の内で確かめた答えを、そのまま口にしただけだ。
「村人に新たに税を課す必要もありません。
僕が負担すれば、一番早く、綺麗に片がつきます」
誰も痛まず、誰にも皺寄せがいかない。
完璧な答えだと、リオスは思った。
隣で、リュシアとシエラも頷く。
力ある者が富を投じるのは、貴族として筋の通った理屈だ。
通信映像の中で、メルヴィラの背後には重いカーテンが垂れ、金具の煌めきだけが冷たく光っている。
距離があるはずなのに、彼女がその場の温度まで支配しているように感じられた。
リオスは、無意識に背筋を伸ばす。
紙束の間に挟んだ計算表を指で押さえ、もう一度だけ心の中で確認する。
数字に抜けはない。だからこそ、これが最短で最善の道だと信じられる。
メルヴィラが求めるのは、感情ではなく結論だ。
そして結論は、痛みを外へ出さないこと――そのはずだった。
『…………』
映像の中のメルヴィラは、口元に指を添えたまま動かない。
肯定も賞賛も落ちてこない。
赤い瞳だけが、言葉なくリオスを計るように据えられていた。
(……なぜ?)
背を、冷たい汗が伝う。
金額が足りないわけではない。計算は合っているはずだ。
なのに、この沈黙は「足りない」より厄介な何かを含んでいる。
メルヴィラの沈黙は、怒りの色ではない。
だが、優しさの色でもない。
扇の骨が鳴らないほどの静止が、映像越しにこちらの呼吸まで縛ってくる。
リオスは、唾を飲み込み、もう一度だけ言葉を探した。
「足りないなら増やす」ではない。
「止めるべきなら止める」でもない。
どこが欠けているのか、その輪郭が掴めない。
そうして掴めないまま、ただ「自分は正しいはずだ」と言い張る危険だけが、胸の内で膨らんでいく。
隣で、シエラが小さく瞬きをし、リュシアの顔にも疑問の色が浮かぶ。
二人も、この沈黙の意味を測りかねている。
だからこそ、誰も口を開けない。
その部屋の中で、ただ一人。
理由を掴みかけている者がいた。
ウェルティアだ。
(……それでは危うい)
唇を噛み、奥歯に力が入る。
領主の娘として、彼女は「金庫の底」を見せる怖さを知っていた。
領主の財は、贅沢のためではない。疫病、飢饉、戦、暴走する魔獣――それらから領民を守る盾だ。
リオスの総資産は知らない。
それでも、村ひとつの五年分の税が軽い出費で済むとは思えない。
かなりの比率を吐き出すことになる。
慈悲深く見えて、最も無責任な統治に転びうる。
有事に備えた手札を、自分から燃やすのと同じだからだ。
――父は言った。
『領主は、困ったときだけ賢くなっても遅い。困る前に、残すべきものを残せ』
その声が、喉の奥で鈍く響いた。
(でも……私が口にする?)
喉が乾く。
拳を握ると、爪が掌に食い込み、痛みが迷いを煽った。
自分たちは助けられる側だ。
命を救われ、居場所を与えられようとしている身で、恩人の決意に異を唱えるなど。
口にした瞬間、感謝を踏みにじる者として見られるかもしれない。
さらに悪ければ、「次は助けない」と笑われる――そんな想像が、勝手に膨らむ。
頭では違うとわかっていても、身体が先に竦む。
視線が床を探り、言葉が喉の奥で固まった。
ウェルティアは、リオスの横顔を盗み見た。
若さゆえの一直線さ――と、言いかけて飲み込む。
彼は善意で動いている。善意そのものは疑うべきではない。
問題は、善意が「備え」を消してしまうことだ。
父は、民の命を守るためなら、領主は好かれなくても残せ、と言った。
その重さを思うほど、彼女の喉は締まり、声が出ない。
発言すれば、恩人の顔に泥を塗る。
黙れば、後で誰かが泣く。
その板挟みが、胸の中で鈍い痛みに変わり、手先から熱を奪っていく。
その張り詰めた沈黙を、軽やかな声が切り裂いた。
「――奥さま。少々、発言をお許し願えますか」
部屋の隅に控えていたドランが、一歩前へ出る。
慇懃な礼とともに、通信機のメルヴィラへ視線を向けた。
メルヴィラの瞳が細くなる。
『……いいでしょう。ドラン、あなたの見解を聞かせなさい』
許可が出た。
ドランは「ありがたき幸せ」と頭を下げ、リオスへ向き直る。
「若旦那。そのご提案、いささか勿体のうございます」
「勿体ない?」
リオスは眉をひそめた。
「でも、村のためなら……」
「使い道ではなく、使い方の話ですわ」
ドランは人差し指を立て、チッチッと諫める仕草を見せる。
「若旦那。その開拓事業、手前どもの商会に一枚噛ませてはいただけませんか?」
「噛ませる……?」
「へえ。資金は、全額ウチが立てます」
言葉の甘さに、室内の空気が揺れた。
リュシアが小さく眉を寄せ、シエラの視線がドランの口元を追う。
「それって……借金ですか?
でも、資産はあるんです。わざわざ借りる必要なんて……」
「利息は取りません。返済も、村が軌道に乗ってからで結構」
甘い条件だ。裏があるのは明白だった。
「その代わり――条件がひとつ」
ドランの口角が、にやりと吊り上がる。
「この村と、新しく作る村。
その両方での『行商の独占権』を、完済までウチにいただきたい」
(独占権……)
塩や鉄、布、薬草、工具。
必需品の仕入れも、村での買い取りも、村外へ売りに出す窓口も。
村の流れを、商会の手に預けるという意味だ。
ドランなら露骨な暴利は取らない――と信じたい。
だが、信頼だけで締結していい取引ではない。
独占は、便利と同じだけ、危険も抱える。
ドランは疑念を受け止め、肩をすくめた。
「利息で小銭を取る気はありませんぜ。
村が育てば取引が膨らむ。ウチはその流れに乗りたいだけですわ。
拠点ができりゃ、周りの領へも商いが伸びる。互いに得がある」
独占権という言葉は、貴族の耳には、支配と同義に聞こえる。
だが商人の耳には、責任と同義でもある。
供給が途切れれば、責めを負うのは独占した側だ。
不作で値が上がる時も、盗賊で荷が消える時も、矢面に立つのは商会になる。
ドランは、その点を隠さなかった。
むしろ、堂々と引き受ける顔をした。
「もちろん、相場から逸れた値を付けりゃ、ウチの看板が死にます。
損してでも運ぶ場面が出る。そこは承知のうえですわ。
その代わり、村が育った分だけ、ウチも長く儲ける」
短期ではなく長期。
利息を切り捨てる代わりに、時間で回収する。
そして、ドランは諭すように声を低くする。
「若旦那。戦場に出るとき、矢はすべて撃ち尽くしますか?」
「……え?」
「あるいは、剣を投げて敵を倒しますか?
手元に武器を残さず、最初の敵に全部ぶつけますか?」
「そんなことはしません。予備がなければ、次の敵に対応できないから」
リオスは即答した。戦術の基本だ。
「金も同じですわ」
ドランが、ずい、と顔を近づける。
「今、持っている資産を全部――でなくとも、大半を、村に変えてしまう。
それは、鞘に入った剣を捨てて、素手になるのと同じです」
「開拓中に疫病が広がったら?
干ばつで作物が枯れ、外から食料を買う羽目になったら?
予想外の魔獣が現れて、防壁や矢倉が要るとなったら?
その時、すぐ動かせる金が手元になければ――村は潰れますぜ」
胸が締まった。
脳裏に、最悪の光景が走る。
病に倒れる村人。薬を買う金がない自分。
崩れた防壁。資材が尽きた自分。
その時になったら借りればいい――そう簡単には思えない。
切羽詰まった状況なら、誰だって足元を見る。
いまの条件が続く保証などない。
(……僕は、浅はかだった)
自分の金で払えばいい。
それは「この瞬間」だけを見た子供の思考だった。
未来のリスクに備えることこそが、領主の責任なのだ。
リオスは顔を上げた。
ドランを見る目が変わる。
彼は利権を貪るために言ったのではない。
商談の形を借りて、統治の要を突きつけてくれたのだ。
独占権を渡すことは、商会にとっても村の存続が死活問題になる。
守る対象が同じなら、相棒になれる。
「……わかりました」
息を吐き、通信機に向き直る。
「母上。訂正します。
ドランさんの商会より融資を受け、開拓を進めます。
彼らをパートナーとして迎え入れ、村の経済基盤を盤石にしたい。
……ご許可を、いただけますか」
画面の向こう。
メルヴィラが一拍置いて、応えた。
『……ええ。よく気付きましたね』
微笑が浮かぶ。
『合格よ、リオス。
その判断こそが、領主としての第一歩です』
承認の言葉に、リオスの肩から力が抜けた。
横で見ていたウェルティアも、胸の奥の詰まりがほどける。
ドランは顎を撫で、頭を下げた。
「毎度あり。……これから忙しくなりますな、若旦那」




