第八話 朝曇 身を焦がし 下心を知る 陽射しかな 其の十二
今朝、忠陽は鞘夏に挨拶をすると、鞘夏はいつも通りに挨拶を返してくれた。ただ、忠陽が話しかけようとすると、忠陽を避けるように他の仕事をやり始める。
避けるられる理由があるから、忠陽は何も言えなかった。ただ鞘夏を止めるために上げた手を見ているしかなかった。
朝食を終え、彼杵に行く準備を始めた。
彼杵へ行くのは明日だ。だが、今のままではもう一枚のチケットは必要無くなる。
忠陽は持ってきたキャリーケースに自分の洋服を入れ始める。彼杵に行くと、こちらに戻って来ても、翌日には新学期が始まるため、天谷へと帰らなければいけない。だから、彼杵からは直接帰ると決めていた。
今のままだと、今度、鞘夏と会えるのは天谷だ。だけど、天谷で会ったとしても前のように話せるだろうか。欲情に駆られたとはいえ、相手の気持も確認せず、やってしまったのは良くはない。
忠陽はそう思い、自分のパンツを持ちながら、扉に手を掛けた。
すると、コンコンと扉をノックする音がした。忠陽は焦りながら応対をする。
「入って、どうぞ」
失礼しますと入ってきたのはフミだった。
「坊っちゃん、少しよろしいでしょうか?」
「なんだ、フミさんか。どうしたの?」
忠陽は自分のパンツでハンカチのように、顔に出た脂汗を拭っていた。
「坊っちゃん、どうしたのですか? それはご自身のパンツではありませんか?」
「えッ!? あ、本当だ! どうしたんだろう?」
忠陽の受け答えはワザとらしいものだった。
「大丈夫ですか?」
フミはなにかに気づいたようで、すぐにクスクスと笑っていた。
「申し訳ございません。坊っちゃんもお年頃、そういうことだったら、また後に致します」
「えっ、何? お年頃……?」
忠陽は一瞬何を言っているのか分からなかったが、ハッと気づいた。
「違うよ、フミさん! そんなやましい事なんて。ぼ、僕はそういうことに……」
フミは笑っていた。
「まあまあ、そう否定されなくても……男にはそういうことが必要でしょうに」
「違うって! で、何の用なの?」
忠陽はぶっきら棒に言うも、フミは嬉しそうにしていた。だが、すぐにその表情を不安な顔に変え、話し始めた。
「昨夜から鞘夏の様子がオカシイのです」
忠陽は胸が刺される痛みが走った。
「へー、どんな風に?」
「その、何かぼーっとしているというか、注意が散漫で、今朝も料理を焦がしたり、皿を割ったりといつもの様子とは違うのです。普段でもあまり喋る子ではありませんが、そういうことはしっかりとやっていたので……」
「そ、そうなんだ……」
「もし、風邪を引いているのであれば、奥様や坊っちゃんにご迷惑を掛けるわけにはいきません。昨夜、何か水遊びとか、体調を崩すようなことをやられていたのですか?」
「いや、そんなことないよ。僕らは神宮さんと、射的をしたり、金魚すくいをしたり、焼きそばを食べたり、そんな感じだよ」
「どうしたのかしらあの子……。珍しく奥様からもお声がかかっておりましたから少し心配で……」
「母さんが?」
コンコンと扉をノックする音がする。
「忠陽さん、入りますよ」
忠陽が返事をする前に麻美は入ってきていた。
「あら、フミ。どうしたの、こんな所で?」
フミは忠陽から一歩下がり、頭を下げた。
「いえ、ちょっと、坊っちゃんに昨夜のことを聞いておりまして……」
「あらそうなの。私もその件で、忠陽さんとお話がしたいと思っていたの」
「そうでしたか……」
「フミ、外してくれるかしら?」
フミは何も言わず、部屋から出て行った。この時の麻美の雰囲気に戦慄を感じ、顔の毛穴から脂汗が出てきていた。
「忠陽さん、お座りになって……」
忠陽は机の側にある椅子へと腰掛け、麻美は忠陽のベットに腰掛けていた。
母が直接部屋へ来る時は決まって、静かに怒られる。それがこの家の通例であった。だから、フミは何も言わず外へと出ていく。
忠陽は何言わなくても、母は自分が昨日、鞘夏に対して何をしでかしたかを聞き出していると理解した。使用人に手を出すことを一番嫌っていた母が見抜けぬ訳もない。何の言い訳もできない。
麻美は忠陽のやりかけの課題を見つけ、ノートを見る。すべての内容を確認するのにもゆっくりと時間を掛け、忠陽が自白するの待っているかのようだった。
「夏休みの宿題は終わったのですか?」
「いえ、まだ終わってないです……」
「大丈夫なの? 明日からは彼杵でしたよね?」
「うん。あっちでも課題はやれるよ」
「そうですか」
麻美は課題ノートを閉じ、机に置いた。その置き方でも忠陽は恐怖する。
「忠陽さん、なぜ、パンツを握りしめているのですか?」
「あ、これは、明日の準備をしている時に、フミが来て……」
「そうなの。で、フミはなんと?」
「昨日の夜は何をしていたかって……。神宮さんたちと射的をやったり、金魚すくいをやったり、焼きそば食べたりしたって答えました」
「まあ、嵐山の屋台荒らしの再来ですか。皆さん、さぞかし驚いたことでしょう」
忠陽は不名誉な通り名まで知っていたことに驚いた。
「それで?」
麻美はにこやかに問い詰めてきた。その問い詰め方が忠陽は恐ろしかった。
「それで……神宮さんは花火大会の主催を抜け出してきていて、漆戸さんに見つかったから帰ったよ」
「そう。それで?」
「ヒロくんたちとも一緒に遊んでいたけど、ヒロくんは中御門さんという彼女ができていて、二人だけで花火を見に行った」
「あらそうなの。今度、また宙君を呼びなさい。それで、あなた達は何をしていたの?」
忠陽はそう来たかと思い、頭をぐるぐると回しながら、答えを見つけよとするもすべて嘘になる。嘘を付けば母は怒らせてしまう。
忠陽は乾いた口を開くと、喉の奥にねっとりとしたものが引っかかっていた。
「……ごめんなさい」
「どうして私に謝るの?」
「僕がしてはいけないことをしてしまったから……」
麻美はため息をつく。
「何故、謝る必要があるんですか?」
「彼女を悲しませてしまったから……」
「陽、私の隣に来なさい」
忠陽は握りしめたパンツをバックに置き、麻美の隣に座る。
忠陽が隣に座ると、麻美はすぐに忠陽を抱き寄せる。その柔らかな抱擁は母の匂いを感じた。
「陽……。あの子こと、どう思っているの?」
「大切な人……」
「なら、今回だけは許してあげる」
「母さん……」
「でも、鞘夏にそういうことをしてはダメ。あの子は貴方の望むことだったら、何でもしてしまう。もし、貴方が本当にあの子のことを愛しているのなら、あの子を大事にしなさい」
忠陽は母が伏見に言われた言葉と似ているのに気づいた。
自分の欲情を満たすために、鞘夏に無理矢理口づけした。彼女が泣いた理由、それは自分が彼女からの信頼を裏切ったからに他ならない。
忠陽は今日の内に昨夜は謝らないといけないと考えた。




