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小話 一筆入魂




吹き付ける風の冷たさが和らぐ季節、積もっていた雪が融けて、至る所に小川が出来る。

陽の光にキラキラと春を呼び込もうと、それは街中を巡り始めるのだ。

これから、季節はゆっくりと春に向かって移ろってゆくことになる。

そして雪が融けて出歩きやすくなると、真冬の間は思うように外で遊ぶことの出来なかった子ども達は待っていましたとばかりに、走り回って遊ぶようになる。

住宅街にところどころある小さな公園から、子どもたちの笑い声や、時には喧嘩をする声が聞こえてくるのだ。

私はそれに頬を緩めながら、王宮までの道のりを歩いていた。

隣を歩く彼とは、新しい年を新居で迎えてから、一緒に孤児院に里帰り・・・私にとっても、彼にとっても院長のいる孤児院が実家のようなものなので・・・をして、院長と3人でのんびり過ごした。

それから、彼のお父さんのお墓参りにも連れて行ってもらった。

・・・これは、春になったら結婚式を挙げることが決まっているけれど、出来たらその前にご挨拶をしたいと私が言っていたのを、彼が覚えていてくれて実現したものだ。

結婚指輪も注文して、あとは出来上がりを待つだけだし、式の招待状も印刷待ちだ。

衣装は、次の休みにでもレイラさんの実家・・・彼女の実家は、美容院のようなものを経営している・・・が懇意にしているというお店を訪ねることになっている。

想像していただけのものが、段々とカタチになってゆくことに少し浮かれながらも、私は春が来るのを楽しみにしていた。

「・・・これは、何に使うんだ?」

彼が手に持った紙袋に視線を落とす。

私は回想していたものを一旦打ち消して、小首を傾げた彼に微笑んだ。

「ヒミツ」

「・・・食べ物か?」

不思議そうに私を見つめる彼については、最近一段と表情が柔らかくなったと囁かれるのを耳にする機会が増えていることが、私の密かな自慢である。






「ミミーっ」

出会ったばかりの頃よりも、ひとまわり大きくなった皇子様は、今日も元気に私に向かって突進してくる。

受け止めて、その衝撃がまた強くなったのではないかと、苦笑を浮かべてしまった。

可愛いこの子は、一体いつまで、私にべったり張り付いていてくれるのだろう。

そんなことを思いながらリオン君に朝の挨拶をして、私は部屋の中に入る。

そこには珍しく陛下もチェルニー様もいて、部屋の中はなんだか賑やかだ。

「おはようございます。

 珍しいですね、お2人ともこの時間にいらしてるなんて」

初めて会ったあの日に比べたら、私はこの国の王様とお后様とも、選ぶ言葉には最低限気を遣うけれど、それでも気安く話せるくらいには距離を近づけることが出来ている。

「おおミーナ、最近どうだ?

 エルとは毎日頑張ってるんだろうなぁ?」

「例のアレの件では、お世話になりましたね」

・・・こんなふうに、にやりと口角を上げて軽口を叩けるくらいには。

「おまっ、」

「あなた、それ、何のお話かしら」

私の落とした爆弾に、真っ先に眉を跳ね上げて反応したのはチェルニー様だった。

慌てた陛下の耳を引っ張って凄んでいる表情は、まさに女王様そのもの。

落とした爆弾は、もちろん祈りの夜の件で発覚した、謎の精油のことだけれど・・・当然といえば当然だけれど、チェルニー様はそのことについては何も知らないのだろう。

必死に誤魔化そうとしている陛下を追及していた。

・・・しかし陛下、女性にそういう質問をするのはどうかと思います。

心の中でため息をついて、私はソファに腰掛けて2人の攻防を見守っているレイラさんに声をかけた。

「おはようございます。

 今日は体の調子、どうですか?」

もうしばらくしたら出産予定日の彼女は、だいぶ大きくなったお腹を撫でながら微笑んだ。

「元気ですよ~。

 朝食もしっかりいただいて、ちょっと食べ過ぎかも知れないですけどね」

彼女は、しばらく前から私の出勤時間を少し遅くしてくれた。

以前は朝食の時間に、リオン君のことを気にかけて過ごすことが難しかったのだけれど、体調が落ち着いてきたから、必要がなくなったそうだ。

それに、新居に移ったことで家の中のことも、手がかかるようになるだろうから、という優しさでもある。

これには正直、ありがたい限りだ。

「いいじゃないですか、やっと食べることも楽しめるようになったんだし・・・。

 ・・・えっと、お勉強やお稽古は、今日は特にないって聞いてきたんですけど・・・」

自分の話をしていると分かったのだろう、リオン君が私の足に纏わりついてくる。

今年で5歳になる彼は、大人の話をよく聞いて理解するアンテナを持つようになった。

私はその小さな頭をひと撫でしてレイラさんを見る。

「ええ」

彼女はそう頷いてから、小首を傾げた。

「そうなんです。先生が風邪を引いてしまったんですって・・・」

「・・・お外、行ってもいい?」

下から小さく伺いを立てる声がして、私はもう一度その頭を撫でる。

彼女は困ったように微笑む。

「そうね、今日はいい天気だし・・・」

リオン君が嬉しさに動いた瞬間、私はすかさず口を開いた。

「あの、」

2人が私をじっと見つめているのを感じながら、私は温めていたことを提案することにした。

そのために、今日は荷物を持って来たのだ。


「カキゾメ?」

「しゅーじ?」

陛下の声と、リオン君の声が順番に響く。

私はそれをひとまず無視することにして、途中までシュウに持ってもらっていた紙袋の中から、そっと用意してきた道具を取り出した。

墨汁の入った小瓶と、書道用の筆、それから、半紙。

残念ながら硯と下敷き、それから文鎮は、用意できなかった。

いや、用意できた物も、私が文房具を扱う店で、絵を描いたり特徴を説明したりして、やっとのことで出来上がった特注品だ。

生活費を出させてもらえない私が、2人の旅行資金として貯金している中から、こっそり購入してしまった。

彼にはまだ話していないけれど、なんせ無頓着なのだ。軽く受け流してくれるだろう。ほんの少しだけ、値が張ってしまったけれど。

・・・最近、とても幸せなのになんだか切ない気持ちになることがあるのだ。

きっとマリッジブルーやホームシックといったものが、一気に押し寄せてきたのだと自分では思っている。

それで、そんなふうに感情が荒れると、彼に当たってしまうだろうと思うので、静かに集中出来る趣味を・・・と考えて、閃いたのが書道だったわけだ。

祖母が写経をしていたのを思い出す。

・・・2つ年下の従姉妹は、祖母の筆が漢字の羅列を生み出す様子に「なんじゃこりゃ」と目を点にしていたっけ・・・。

ともかく、私は書道をしようと思い立ったというわけ。

「この紙、すごく薄いのね・・・」

「それは、半紙と言うんです。

 この紙に拘る必要はなかったんですけど、まずはカタチから入ろうかと思って」

チェルニー様が陛下の耳から手を離して、半紙を照明の光にかざす。

私はその様子を見て、そういえば、と思い出した。

「・・・そういえば、その紙を照明の周りに巻いたりすると、光を柔らかく出来ますよ」

「ほぉ、それは面白いな。

 今度街に下りたら、特注で作ってみるか」

片方の耳を真っ赤にして、ローテーブルの上を陛下が覗き込んできた。


「さ、準備が出来ましたよ。

 ・・・誰から書きます?」

墨汁が染みこまないように、古い新聞紙を何枚も重ねた上に半紙を置いて、私は周りに集まった面々を見渡した。

気づいたら、リオン君、レイラさん、陛下、チェルニー様、部屋の中にいた白侍女さん達、いつの間に合流したのかバードさんまでがテーブルの周りに立っていたのだ。

この世界にないものだからか、皆一様に興味津々といった表情をしている。

私はそれが少し可笑しくて頬を緩めながら、固唾を飲んで見守る皆さんに向けて、もう一度口を開いた。

「・・・なら、私が最初に書きますね」

筆をとって、墨汁を入れた小鉢に浸す。

「筆の根元まで浸さないようにして、余分な墨汁は縁でしごき落として・・・」

一応家で試し書きをしてきたから、大丈夫だとは思うけれど、やはりこれだけの人の前で字を書くというのは、少し緊張するものだ。

震えそうになる手に必要以上に力が入らないよう気をつけながら、筆を持ち上げる。

誰かが息を飲む気配に、緊張感が増す。

「同じ所を二度書きすると、半紙が破れてしまうので・・・。

 ・・・書く文字は、何でも構いません。

 座右の銘でも、好きな言葉でも・・・自分の名前でもいいと思います」

言いながら筆を滑らせる。

そして書き上げた、本物の墨汁よりも薄めの、けれど懐かしさを感じる文字の様子に詰めていた息を解放した。

筆をそっと置くと、張り詰めていた空気が緩んで、誰かが息を吐き出した。


「・・・はい、こんな感じですね」

書き終わった半紙の両隅を指で摘んで、新聞紙を敷き詰めておいた、いつも食事をするテーブルの上にそっと置く。

「何を書いたんだ?」

「私の国の言葉で、私の名前を。

 ・・・あっちでは、あんな感じの文字を使ってるんです」

「ああ、ミーナのミに、羊という意味があるという、あれか?」

「はい」

陛下が珍しく真面目な顔をして尋ねるので、私も真面目に答えてみると、彼は何度か頷いて、自分もやってみたい、と言い出した。

「それじゃ、やってみたい方は順番でどうぞ」

どうやら興味を持ってもらえた様子にほっとして、私は頬を緩める。

腕まくりをした陛下が半紙を置いて、筆を持つ。

それを隣で見守っていると、やがて彼は何かを思いついたのか、呼吸を整えて私のしたように何かをしたためた。


「どうだ、余のカキゾメ」

言って胸を張る彼は、どう見ても一国の主ではない。

少なくとも、彼の書いたものを見る限りでは。

「・・・王都征服・・・」

書かれたことをそのまま声に出して、そのどうしようもなさに言葉を失ってしまった。

「・・・どういう意味なのかしら・・・」

満足気に自分の書いたものを眺める彼をよそに、チェルニー様が呆然と呟く。

夫の残念な姿に、こちらも絶句してしまったようだ。

「・・・意味か?

 今年は、王都の店全ての常連客になってやろうと思っているのだ。

 私財を投げ打って景気を保ってやろうという、王らしい発想だろう?」

きっと、自分では名案だという自信があるのだろう。

チェルニー様が沈痛な面持ちで額を押さえていることは、きっと気づいていないと思う。

「・・・ぼくも行きたい!」

「うーん、お前じゃまだ入れない大人の店もたくさんあるからなぁ・・・。

 オーディエなら、なんとかなるかも知れないが・・・」

顎に手を当てている仕草は、どう見ても格好良いのに・・・と何かを呟いている陛下を眺めていると、ふいに聞きなれた声が飛び込んできた。

「・・・何言ってるんですかこのポンコツ陛下!」

声を張り上げて現れたのはジェイドさんだ。

年末の慌しい時には目の下にクマが出来ていたけれど、今日はいくらか回復しているようで、陛下の腕をがしっと掴んで、引き摺って連れて行こうとしている。

「仕事をサボって子連れで王都征服ですか?

 いいご身分ですね。

 今なら私、感情に任せてあなたの執務机の秘密の引き出しに入っている物、全部窓から

 ぶちまけられそうですけれど、止めて欲しいですか?

 仕事してくれたら、考えてあげますよ?」

「えぇっ?!」

ジェイドさんに腕を掴まれた陛下が、情けない声を上げた。

そんなに秘密の引き出しが大事なのか・・・と胸の内で呟いた私は、あることを思いついてジェイドさんを呼び止める。

「ジェイドさんも、書いてみませんか?」


「・・・出来ました」

もともと興味があったのだろう、ふたつ返事で筆をとったジェイドさんは、さらさらと綺麗で整った字を書き上げた。

彼もやはり、自分の書いたものを誇らしげに見つめていた。

「げ、下克上・・・」

・・・陛下もジェイドさんも、言葉のセンスにさほどの差はないらしい。

いや、もしかしたら、いつも笑顔を浮かべているけれど、陛下に対してものすごくストレスを抱えているのではないのか。

・・・国家が転覆されないことを祈っておこう・・・。

彼が私と陛下の作品の横に、自分の書いたものをそっと置く。

私の呟きなど、きっと聞こえていないのだろう、彼は陛下の腕をがしっと掴むと、抵抗しようとする陛下を文字通り引き摺って、どこかへと連れて行った。

レイラさんが「いってらっしゃいませ」と言葉をかけたことが、せめてもの救いだったのかも知れない。

見えなくなった陛下の、何と言っているのか分からない声だけが返ってきた。




そして、次に書き初めに挑戦したのはチェルニー様だった。

「・・・健康、ですか」

「ええ、今年も元気に過ごせますように、と思って」


次に筆をとったのは、レイラさん。

「安産・・・」

「・・・あの痛みがまたやってくるかと思うと・・・」


続いて、リオン君。

「えっと、あの、何て書いたのかな・・・」

「リオン、て書いたの!」

「ああ、名前を書いたのね・・・」


一歩離れて静観していたバードさんにも、声をかけてみた。

「バードさんも、書いてみて下さい」

「いや、私は・・・」

「いいから、ね?」

「・・・じゃあ、今回だけですよ・・・?」

「・・・家庭円満・・・」

「ええ、家庭が一番大事ですから」


どこで聞きつけたのか、ロウファもやって来て。

「・・・世界平和・・・?!」

「え、何、だめ?」

「・・・なんか、嘘っぽい・・・」


陛下を探しにやって来たディディアさんにも、事情を説明して書いてもらった。

「・・・ディール・・・って、誰ですか・・・?」

「飼っている猫の名前です」

「・・・はぁ・・・」


ヴィエッタさんもやって来た。

「・・・恋・・・?!

 恋、してるんですかヴィエッタさん?!」

「いえ、今年は恋をしてみようかと思いまして。

 皆さん楽しそうなので・・・」

「・・・趣味を始めるのとは、わけが違いますよ・・・?」





「・・・こうして見てると、性格が出るんだなぁ・・・」

それぞれが書き残していったものを眺めて、ひとりごちる。

近くでは、リオン君とバードさんが外に出かける支度をしていた。

白の侍女さん達が片づけをしてくれるというので、私は書きあがったものをどうするか考えていたところだ。

色紙を買ってきて、台紙にして貼り付けたものを、どこかに飾ってみるのも良いかも知れない。

冬休みの宿題のようで、なんだか楽しそうだ。

私は思いついたことを頭の中にメモして、近くにいた白侍女さんに、乾いたものを重ねて置いておいて欲しいことを伝える。

そして、外に出るためにコートを着込もうとした、その時だ。

「・・・ミナ?」

唐突にシュウの声がして、私は咄嗟に声の出所を探す。

振り向いて、すぐ側に彼がいたことを知った。

「・・・びっくりした・・・。

 どうしたの?」

レイラさんも「まあ、いらしたんですか」とソファに座ったまま瞬きを繰り返している。

彼はそんな彼女に片手を上げて挨拶した後、私に向き直った。

「ディディアから頼まれた。

 今日はリオンの勉強の教師が休みだから、もし暇そうにしていたら、剣でも乗馬でも、

 とりあえず何かしてやってくれと・・・」

「そうなの?

 ・・・リオン君、どうする?」

シュウの説明に、私はまず本人に確認をすることにした。

庭に出て遊ぶつもりだった彼が嫌がれば、剣も乗馬もあまり意味がないと思うからだ。

すると彼はぱちん、と手を叩いて頷いた。

「エルとお馬さんに乗るー!」

どういうわけか、シュウはリオン君に好かれている。

他の子ども達とは、肝の据わり方が違うようだ。

私は皇子様のご機嫌がいいことを確認して、レイラさんに視線を投げる。

彼女は私の言いたいことが分かったのか、頷いて口を開いた。

「気をつけて、よろしくお願いしますね。

 リオン、言うことをちゃんと聞いてね?」

「はーい!

 ・・・あ!」

ご機嫌なまま手を上げた彼が、はた、と何かを思い出したように固まった。

「エルも、かきぞめしてから行こうよ!」

「かきぞめ?」

足元に纏わり付いて訴える彼に、シュウが眉間にしわを寄せる。

何を言われているのか分からない、という表情なのか。

私はリオン君が「かきぞめして!かきぞめ!」と強請るのを微笑ましく見ながら、シュウに皆にしたのと同じ説明を繰り返すことにした。

片付けかけていた白侍女さんを引き止めて・・・。


大きな、いつもは剣を握って訓練している手が筆をそっと持ち上げる。

そして、呼吸を整えた彼はそっと、けれど迷いなく筆を滑らせた。

書き上げた言葉は・・・。

「・・・笑顔・・・」

意外と、というべきか、やはり、というべきか・・・洗練されてはいないけれど、丁寧で綺麗な字が、半紙の中央に鎮座していた。

「・・・今年は、もう少し笑顔を意識しようと思っている・・・」

「・・・そうなの・・・?!」

複雑な気持ちが、思わず呟いた言葉にこもってしまうのを止められない。

「なんだ、可笑しいか」

「う、ううん、いいと思うよ!

 ・・・リオン君、行こうか!」



「おい」

「え?」

「さっきのは、可笑しかったのか」

「・・・もしかして、書き初めのこと?」

「ああ」

「・・・可笑しくは、ないと思うよ?」

「じゃあ何だ。思うことははっきり言ってくれるか」

「え、あ、いや・・・。

 ・・・シュウも笑顔について考えることがあるんだな・・・と」

「・・・・・・」

「シュウ?」

「今夜じっくり話し合うか。

 それまでは体力を温存しておくんだな。

 ・・・そして、首を洗って待っていろ」


空恐ろしいひと言に、私は震え上がった。

今書き初めをするとしたなら、ぜひ「魔王討伐」と書きたい。




その数日後、皆が書いた書初めはホールに飾られることになった。








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