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ワインボトルをテーブルに戻す音が、重くのしかかる。

悪いことなんて、何もしていない自覚があるというのに、なんだか落ち着かない。

団長は早く知りたそうに私をじっと見つめているけれど、何も言わずに口を開くのを、静かに待っていてくれるだろう。

私は落ち着かない鼓動を宥めようと、呼吸を整える。

「・・・ええと、何から話せばいいのか・・・」

ずいぶんと間をあけてから、やっとのことで言葉を吐き出した私に、彼は予想通り、静かに相槌を打ってくれた。

それだけで、私はこんなにも安心出来る。

蒼の団長に戻った目で、じっと私を見つめて先を促した。

「何からでもいい。

 思いついた順番で話してくれれば、こちらで整理する」

ほんの数分前までの、酒豪の蒼鬼はどこへ行ったのだろう。

ボトルの中身は葡萄ジュースでした、という告白でもありそうな、見事な豹変ぶりだった。

私は乾杯のひと舐めで、あっさり降参したというのに。

感心と呆れが入り混じった気持ちで頷いて、私は口を開いた。



「うん、と・・・。

 リオン君の、歴史や国内外の地理を教えてくれる先生が・・・」

なんとなく名前を出しづらくて言いよどむと、彼は、ああ、と頷いた。

「マートンか。

 彼がどうかしたのか」

「その先生が教えてくれた、この世界の古代史が・・・」

「古代史?」

彼に怪訝そうに聞き返されて、表情が硬くなるのが分かる。

頭のおかしい女だと思われたらどうしよう、なんて、こんな時に、しかも今さら、彼からどう思われているのかを気にしてしまう私は、自分から見ても滑稽だと思う。

「はい。

 ・・・この国の教育では教えられない、隠された歴史があるって・・・」

顔色を窺いながら言うと、彼は眉間にしわを寄せながら詳しい話を促した。


マートン先生に教えてもらった通りの内容を伝える。

発達した文明に、魔法という不可思議な力が蔓延していた世界。

それが行過ぎて、一度滅ぶことを決めた世界は、1から歴史を刻みなおし始めて、今に至る。

「・・・紅の連中が、マートンの監視をしているとは聞いていたが」

獣のような唸り声をあげて、彼が腕を組んだ。

その様子から、彼も裏歴史の存在を知らなかったことが伝わってくる。

紅の監視がついているなんて、全く知らなかった私は驚いたのと同時に納得した。

・・・あの人の目、怖かった・・・。

「私が気になったのは、その裏歴史が、私のいた世界と怖いくらいに似ていたことなんです」

そう、私が引っかかっているのはそこなのだ。

けれど、団長もその存在を知らなかったのなら、陛下もきっと知らないだろう・・・。

この疑問をスッキリさせるのは不可能なのだろう、と割り切る必要を感じた私は、諦め半分で続きを口にした。

「絵本なのか、資料なのか分からないんですけど、絵を見せてもらいました。

 私のいた世界に魔法は存在してませんでしたけど、文明の発達具合がそっくりで」

マートン先生の見せてくれた絵本を思い出して、背中を冷たいものが走る。

両腕を擦りながら彼を見ると、彼は彼で何かを思案しているようだった。

「・・・まあ、その裏歴史はいいんですけど・・・。

 先生は、渡り人や、異世界についての研究もしているみたいなんですよね。

 ・・・もしかしたら、私のこと渡り人だって確信してるかも知れません」

乗馬の時間にあった、お庭でのやりとりを思い出す。

狂気じみた情熱の渦巻く瞳が、今も頭のどこかに焼きついて剥がせない。

きっと頼りない表情をしてしまっていたのだろう、団長が心配そうに私の目を覗き込んでいることに気づいた。

「大丈夫か・・・?

 その様子だと、何か嫌な思いをしたんじゃないのか・・・?」

あの試験の夜のように、穏やかで優しい声が私を包む。

もう、本当にいい男だな、なんて感じてしまうのは、不謹慎なのだろうか。

私は微笑を浮かべるように努めて、言葉を紡ぐ。

「大丈夫です。

 ちょっと驚いたのと、先生の真剣な目が怖かっただけで・・・」

私の言葉に彼は何も言わなかった。

沈黙が落ちてくる。

彼は深い緑の目を伏せて、何かを考えていた。

そして、眉間のしわをいっそう深くしてきり出した。

「・・・奴の母親は、渡り人だった」

「・・・え・・・?」

不意打ちの言葉に、思わず間抜けな声が出てしまう。

そんな私を見て、彼はゆっくり首を振った。

「いや・・・だった、らしい。

 人づてに聞いたことだ、信憑性は薄れてしまうが・・・。

 その母親の死があっての研究狂いなのか、奴が渡り人研究に狂う姿を見て、

 誰かが噂を流しただけなのか・・・。

 ・・・今まで興味がなかったから聞き流してきたが・・・」

そこまで言った彼は、ため息をひとつ零して、言葉を切った。

まだ何かが残っているような気がして、私は内心で小首を傾げる。

けれど、彼はその先を話すことはなかった。

「ひとまず、食事を終わらせよう。

 せっかく作ってくれたのに、冷え切ってから食べるのは、な・・・」

食卓の上で、じっと手がつくのを待っていた料理たちが、今さらながら良い匂いを漂わせた。

私は彼の言葉に頷いて、お腹に収まりそうなものに手をつける。

そして彼は、置いておいた2本目のボトルからワインをグラスになみなみと注ぐと、それを一気に飲み干したのだった。





食卓を片付けて、日中に買ってきたデザートを広げる。

疲れた時は甘いもの。

効果のほどは知らないけれど、自分に都合がいいので鵜呑みにしている私は、巡回から戻った団長も、ほっとひと息つけたらいいと思って、買っておいたのだ。

・・・買った時は、まさか自分自身が甘いものを欲するとは思いもしなかったけれど。

彼が淹れてくれたお茶と、焼き菓子を持ってソファに座る。

大きなこのソファに座るのは、何度目だろう。

そんなことを考えている私の隣に腰を下ろした彼は、唐突に、食事中に自ら中断した話の続きを始めた。

「・・・その母親の容姿が、黒髪に黒目だったらしい」

「え・・・?!」

にわかには信じられない思いで彼を仰ぎ見れば、難しい顔で見つめ返される。

「なぜその母親が亡くなったのかは知らないが・・・。

 噂が本当だとすれば、母親と共通点のあるお前に接触してきても、不思議ではないな」

「そ、そうですね・・・」

驚くことばかりで、頭も心も平静を保てそうにない。

世界の認識としては、渡り人の存在自体は珍しくない、と分かっているけれど、今まで私と同じ場所から来た人間に出会ったことがなかった私は、半信半疑だったのだ。

私が必死に心を落ち着けようとしていると、彼がぽろっと呟いた。

「そういえば何年か前にも、図書館を利用していた渡り人に対しての付き纏い行為で、

 監視つきで数ヶ月自宅軟禁にしたんだったな・・・」

言葉が耳に入った瞬間、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた私は、ひっ、と息を飲んだ。

彼は蒼の団長なのだ、本当に付き纏いがあって軟禁していたなら、最初に先生に接触したのは治安を守る蒼の騎士団の仕事だろう。

覚えていて当然だとは思う・・・けれど、どうしてそんな、人を怖がらせるようなことを。

そんな思いを込めて見上げていると、ふいに彼が目を細めた。

余裕が滲み出るその表情に、不覚にも鼓動が速くなる。

・・・そうではなくて、私は今、むやみに脅かすようなことを言わないで欲しいと思って・・・。

「な、なんですか・・・」

ぐるぐると頭の中を何かが駆け巡るのを必死に抑えた私が、かろうじて言葉を搾り出すと、彼はさらに笑みを深くした。

「・・・いや、そこまで怯えられると、もっと苛めたくなる」

魔王降臨。

壮絶な色気が後光になって、私に向かって降り注いでいる幻覚が見える。

平静を取り戻しかけた私に戦慄が走って、声にならない悲鳴が出た。

「・・・だが」

やおら大きな手のひらが頭の上に乗せられて、ぽふ、と音がしたような気すらした。

続いて、深い緑の瞳が私の顔を覗き込む。

手が届くくらいの距離で、そんなことをされたら息が上手く出来なくなってしまうのに。

なんだか、今まで接した中でも、今日の彼は特に気安い感じがする。

・・・やっぱり飲み過ぎなんじゃないのか。

「お前の後見人は」

「・・・蒼鬼さま、です・・・」

「そういうことだ」

満足気に大きく頷いた彼が、ゆっくり手を離す。

完全に自己完結したようだけれど、私は彼が何を言いたかったのか、さっぱり分からないままだ。

内心で首を捻っていると、ふ、と息が漏れる音がして顔を見上げる。

彼が、優しい瞳を私に向けていた。

またしても、その表情に鼓動が速くなる。

ほんの少し舐めただけのワインが、思い切りきいているのだ。そうに違いない。

「こういう時くらい、蒼鬼がお前を守っているのだと自覚したらどうだ」

本当に強いから、そんな気障な台詞が出てくるんだな・・・などと、急に熱を持って赤くなっているだろう頬を押さえて思う。

同時に、王都に連れ出してくれた人が団長で、本当に良かったとも・・・。

お互いそこまで知っている間柄ではないのに、こんなにも盲目的に信頼してしまって、自分は本当にこのままでいいのかと、疑問に感じることもあるけれど。

蒼鬼と恐れられるはずの彼が、目の前で微笑んでいる。

そんな彼を間近で見ていられなくて、私は目を伏せた。

「・・・えっと・・・。

 ・・・その、ありがとございま、」

す、と言おうとして、言葉を失った。

いや、実際には言った瞬間に虚空に消えたのだと思う。



唇に感じる体温に、口付けられたのだと理解して目を瞠る。

目の前で長いまつげが、ふるふると震えていた。

大人の男の人の匂いが、鼻をくすぐって、私は急激に鼓動が速くなるのが分かった。

ふいに彼の唇が離れた瞬間、思い切り息を吸い込めば、酸素が脳にまわってくる。

けれど、それもほんの一瞬のことで、すぐに別の角度から唇が重ねられた。

大きな手がいつの間にか、私の腰を抱いていて、ワインとお茶の混じり合ったような、甘ったるい吐息が漏れる。

どちらの口から漏れたのかすら、もうよく分からない。

濃厚な口付けだって初めてではないのに、翻弄されている自分が可笑しかった。

そして、これじゃいけないと頭のどこかで思うのに、拒絶しようと腕に力を入れようとするけれど、上手く体が動かせない。

いや、動かせないわけじゃ、ない。

もっと本気で、心の底から嫌がれば彼だって止めてくれるはずなのだ。

・・・認めたくないのに、拒絶もしない私は、きっと狡いのだ。

そのうちに、そんなことを考えるだけの余裕もなくなって、私は彼の大きな手が、何度も何度も頬の上を滑り落ちては戻ってくるのを感じながら、目を閉じていた。

眠りに堕ちる手前のような、ふわふわとした感覚でまどろんで彼を受け入れていると、ふいに、腰に感じていた方の大きな手が、にじり寄るようにせり上がってきたのが分かった。

その瞬間、冷や水を頭からかぶったかのように、目が覚めた。

反射的に、追いかけてくる唇を振り切って彼の胸を押す。

「ちょっ・・・や、ぁ・・っ」

やっとの思いで告げると、彼は至極残念そうな面持ちでこちらを見ていた。

・・・今さらだけれど、近い・・・。

「・・・なんだ」

いや本当に、近い。

少し身体をずらして隙間を確保すると、ほぅ、と息をつく。

その間も彼の視線が痛いほど突き刺さっているのを感じて、気まずいってこういうことを言うのか、なんて思ってしまった。

上がってしまった息を整えていると、彼の唇が視界に入ってしまって、その感触を思い出して鼓動が激しく打ち付ける音が耳元で響く。

危うく飲み込まれそうになった自分を叱咤していると、少し間をおいて、沸騰していた頭の粗熱がとれたのか、彼が落ち着いた声で言った。

「・・・もっと、触れたい」

遠慮がちに言った割りに、直球の剛速球で欲求をぶつけられた。

その衝撃のあまり眩暈を感じた私は、目元を手で覆う。

息が、上手く出来ない。

すると、大きな手が肩を抱いた。

「どうした、痛むのか・・・?!」

私の部屋で、薬の袋を見つけたせいだろう。

心配してくれるその声は、何か切羽詰って聞こえた。

私は首をゆっくり振って否定する。

「大丈夫。

 そういうんじゃないです・・・」

「いや、病み上がりなのを忘れていた・・・」

すまない、と小声でそっと付け加える彼。

その囁きですら、私の心臓をぎゅっと掴む。

あなたの欲求に中てられたなんて、とても言えない。

「でも・・・」

深呼吸をして小首を振っていると、囁きよりしっかりした声で、彼の言葉が耳に入った。

「触れたいと思うのは、本当だ」

バリトンの、首筋がぞくぞくするような声で囁かれて、耳が熱くなる。

こんなの、反則だ。

「・・・それは・・・」

・・・私が、特別だということ・・・?

言いかけて、口を噤んだ。

はっきり訊けたらいいのにと思うけれど、望むような答えが返ってこなかったらと思うと、それこそ夢から覚めるようで耐えられないだろう。

それくらいには、彼のことを好きになっていることを、自覚している。

だから、雰囲気やその場の流れに飲まれるようなことは、したくない。

そう思うのは、おかしくないはずだ。




しばらくの沈黙の後、彼は究極に私を甘やかした。

たぶん、私が病み上がりだと気にしすぎた結果なのだろうけれど・・・。

焼き菓子をひとくちサイズに小さく切り分け、お茶も冷めてしまったからと淹れ直し。

少し時間が経つごとに、額に手を当ててみたり。

・・・あまりの甲斐甲斐しさに、自惚れてしまいそうだ。



もう少しだけ夢の中にいたいと、そう願った夜は初めてだった。









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