36
ワインボトルをテーブルに戻す音が、重くのしかかる。
悪いことなんて、何もしていない自覚があるというのに、なんだか落ち着かない。
団長は早く知りたそうに私をじっと見つめているけれど、何も言わずに口を開くのを、静かに待っていてくれるだろう。
私は落ち着かない鼓動を宥めようと、呼吸を整える。
「・・・ええと、何から話せばいいのか・・・」
ずいぶんと間をあけてから、やっとのことで言葉を吐き出した私に、彼は予想通り、静かに相槌を打ってくれた。
それだけで、私はこんなにも安心出来る。
蒼の団長に戻った目で、じっと私を見つめて先を促した。
「何からでもいい。
思いついた順番で話してくれれば、こちらで整理する」
ほんの数分前までの、酒豪の蒼鬼はどこへ行ったのだろう。
ボトルの中身は葡萄ジュースでした、という告白でもありそうな、見事な豹変ぶりだった。
私は乾杯のひと舐めで、あっさり降参したというのに。
感心と呆れが入り混じった気持ちで頷いて、私は口を開いた。
「うん、と・・・。
リオン君の、歴史や国内外の地理を教えてくれる先生が・・・」
なんとなく名前を出しづらくて言いよどむと、彼は、ああ、と頷いた。
「マートンか。
彼がどうかしたのか」
「その先生が教えてくれた、この世界の古代史が・・・」
「古代史?」
彼に怪訝そうに聞き返されて、表情が硬くなるのが分かる。
頭のおかしい女だと思われたらどうしよう、なんて、こんな時に、しかも今さら、彼からどう思われているのかを気にしてしまう私は、自分から見ても滑稽だと思う。
「はい。
・・・この国の教育では教えられない、隠された歴史があるって・・・」
顔色を窺いながら言うと、彼は眉間にしわを寄せながら詳しい話を促した。
マートン先生に教えてもらった通りの内容を伝える。
発達した文明に、魔法という不可思議な力が蔓延していた世界。
それが行過ぎて、一度滅ぶことを決めた世界は、1から歴史を刻みなおし始めて、今に至る。
「・・・紅の連中が、マートンの監視をしているとは聞いていたが」
獣のような唸り声をあげて、彼が腕を組んだ。
その様子から、彼も裏歴史の存在を知らなかったことが伝わってくる。
紅の監視がついているなんて、全く知らなかった私は驚いたのと同時に納得した。
・・・あの人の目、怖かった・・・。
「私が気になったのは、その裏歴史が、私のいた世界と怖いくらいに似ていたことなんです」
そう、私が引っかかっているのはそこなのだ。
けれど、団長もその存在を知らなかったのなら、陛下もきっと知らないだろう・・・。
この疑問をスッキリさせるのは不可能なのだろう、と割り切る必要を感じた私は、諦め半分で続きを口にした。
「絵本なのか、資料なのか分からないんですけど、絵を見せてもらいました。
私のいた世界に魔法は存在してませんでしたけど、文明の発達具合がそっくりで」
マートン先生の見せてくれた絵本を思い出して、背中を冷たいものが走る。
両腕を擦りながら彼を見ると、彼は彼で何かを思案しているようだった。
「・・・まあ、その裏歴史はいいんですけど・・・。
先生は、渡り人や、異世界についての研究もしているみたいなんですよね。
・・・もしかしたら、私のこと渡り人だって確信してるかも知れません」
乗馬の時間にあった、お庭でのやりとりを思い出す。
狂気じみた情熱の渦巻く瞳が、今も頭のどこかに焼きついて剥がせない。
きっと頼りない表情をしてしまっていたのだろう、団長が心配そうに私の目を覗き込んでいることに気づいた。
「大丈夫か・・・?
その様子だと、何か嫌な思いをしたんじゃないのか・・・?」
あの試験の夜のように、穏やかで優しい声が私を包む。
もう、本当にいい男だな、なんて感じてしまうのは、不謹慎なのだろうか。
私は微笑を浮かべるように努めて、言葉を紡ぐ。
「大丈夫です。
ちょっと驚いたのと、先生の真剣な目が怖かっただけで・・・」
私の言葉に彼は何も言わなかった。
沈黙が落ちてくる。
彼は深い緑の目を伏せて、何かを考えていた。
そして、眉間のしわをいっそう深くしてきり出した。
「・・・奴の母親は、渡り人だった」
「・・・え・・・?」
不意打ちの言葉に、思わず間抜けな声が出てしまう。
そんな私を見て、彼はゆっくり首を振った。
「いや・・・だった、らしい。
人づてに聞いたことだ、信憑性は薄れてしまうが・・・。
その母親の死があっての研究狂いなのか、奴が渡り人研究に狂う姿を見て、
誰かが噂を流しただけなのか・・・。
・・・今まで興味がなかったから聞き流してきたが・・・」
そこまで言った彼は、ため息をひとつ零して、言葉を切った。
まだ何かが残っているような気がして、私は内心で小首を傾げる。
けれど、彼はその先を話すことはなかった。
「ひとまず、食事を終わらせよう。
せっかく作ってくれたのに、冷え切ってから食べるのは、な・・・」
食卓の上で、じっと手がつくのを待っていた料理たちが、今さらながら良い匂いを漂わせた。
私は彼の言葉に頷いて、お腹に収まりそうなものに手をつける。
そして彼は、置いておいた2本目のボトルからワインをグラスになみなみと注ぐと、それを一気に飲み干したのだった。
食卓を片付けて、日中に買ってきたデザートを広げる。
疲れた時は甘いもの。
効果のほどは知らないけれど、自分に都合がいいので鵜呑みにしている私は、巡回から戻った団長も、ほっとひと息つけたらいいと思って、買っておいたのだ。
・・・買った時は、まさか自分自身が甘いものを欲するとは思いもしなかったけれど。
彼が淹れてくれたお茶と、焼き菓子を持ってソファに座る。
大きなこのソファに座るのは、何度目だろう。
そんなことを考えている私の隣に腰を下ろした彼は、唐突に、食事中に自ら中断した話の続きを始めた。
「・・・その母親の容姿が、黒髪に黒目だったらしい」
「え・・・?!」
にわかには信じられない思いで彼を仰ぎ見れば、難しい顔で見つめ返される。
「なぜその母親が亡くなったのかは知らないが・・・。
噂が本当だとすれば、母親と共通点のあるお前に接触してきても、不思議ではないな」
「そ、そうですね・・・」
驚くことばかりで、頭も心も平静を保てそうにない。
世界の認識としては、渡り人の存在自体は珍しくない、と分かっているけれど、今まで私と同じ場所から来た人間に出会ったことがなかった私は、半信半疑だったのだ。
私が必死に心を落ち着けようとしていると、彼がぽろっと呟いた。
「そういえば何年か前にも、図書館を利用していた渡り人に対しての付き纏い行為で、
監視つきで数ヶ月自宅軟禁にしたんだったな・・・」
言葉が耳に入った瞬間、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた私は、ひっ、と息を飲んだ。
彼は蒼の団長なのだ、本当に付き纏いがあって軟禁していたなら、最初に先生に接触したのは治安を守る蒼の騎士団の仕事だろう。
覚えていて当然だとは思う・・・けれど、どうしてそんな、人を怖がらせるようなことを。
そんな思いを込めて見上げていると、ふいに彼が目を細めた。
余裕が滲み出るその表情に、不覚にも鼓動が速くなる。
・・・そうではなくて、私は今、むやみに脅かすようなことを言わないで欲しいと思って・・・。
「な、なんですか・・・」
ぐるぐると頭の中を何かが駆け巡るのを必死に抑えた私が、かろうじて言葉を搾り出すと、彼はさらに笑みを深くした。
「・・・いや、そこまで怯えられると、もっと苛めたくなる」
魔王降臨。
壮絶な色気が後光になって、私に向かって降り注いでいる幻覚が見える。
平静を取り戻しかけた私に戦慄が走って、声にならない悲鳴が出た。
「・・・だが」
やおら大きな手のひらが頭の上に乗せられて、ぽふ、と音がしたような気すらした。
続いて、深い緑の瞳が私の顔を覗き込む。
手が届くくらいの距離で、そんなことをされたら息が上手く出来なくなってしまうのに。
なんだか、今まで接した中でも、今日の彼は特に気安い感じがする。
・・・やっぱり飲み過ぎなんじゃないのか。
「お前の後見人は」
「・・・蒼鬼さま、です・・・」
「そういうことだ」
満足気に大きく頷いた彼が、ゆっくり手を離す。
完全に自己完結したようだけれど、私は彼が何を言いたかったのか、さっぱり分からないままだ。
内心で首を捻っていると、ふ、と息が漏れる音がして顔を見上げる。
彼が、優しい瞳を私に向けていた。
またしても、その表情に鼓動が速くなる。
ほんの少し舐めただけのワインが、思い切りきいているのだ。そうに違いない。
「こういう時くらい、蒼鬼がお前を守っているのだと自覚したらどうだ」
本当に強いから、そんな気障な台詞が出てくるんだな・・・などと、急に熱を持って赤くなっているだろう頬を押さえて思う。
同時に、王都に連れ出してくれた人が団長で、本当に良かったとも・・・。
お互いそこまで知っている間柄ではないのに、こんなにも盲目的に信頼してしまって、自分は本当にこのままでいいのかと、疑問に感じることもあるけれど。
蒼鬼と恐れられるはずの彼が、目の前で微笑んでいる。
そんな彼を間近で見ていられなくて、私は目を伏せた。
「・・・えっと・・・。
・・・その、ありがとございま、」
す、と言おうとして、言葉を失った。
いや、実際には言った瞬間に虚空に消えたのだと思う。
唇に感じる体温に、口付けられたのだと理解して目を瞠る。
目の前で長いまつげが、ふるふると震えていた。
大人の男の人の匂いが、鼻をくすぐって、私は急激に鼓動が速くなるのが分かった。
ふいに彼の唇が離れた瞬間、思い切り息を吸い込めば、酸素が脳にまわってくる。
けれど、それもほんの一瞬のことで、すぐに別の角度から唇が重ねられた。
大きな手がいつの間にか、私の腰を抱いていて、ワインとお茶の混じり合ったような、甘ったるい吐息が漏れる。
どちらの口から漏れたのかすら、もうよく分からない。
濃厚な口付けだって初めてではないのに、翻弄されている自分が可笑しかった。
そして、これじゃいけないと頭のどこかで思うのに、拒絶しようと腕に力を入れようとするけれど、上手く体が動かせない。
いや、動かせないわけじゃ、ない。
もっと本気で、心の底から嫌がれば彼だって止めてくれるはずなのだ。
・・・認めたくないのに、拒絶もしない私は、きっと狡いのだ。
そのうちに、そんなことを考えるだけの余裕もなくなって、私は彼の大きな手が、何度も何度も頬の上を滑り落ちては戻ってくるのを感じながら、目を閉じていた。
眠りに堕ちる手前のような、ふわふわとした感覚でまどろんで彼を受け入れていると、ふいに、腰に感じていた方の大きな手が、にじり寄るようにせり上がってきたのが分かった。
その瞬間、冷や水を頭からかぶったかのように、目が覚めた。
反射的に、追いかけてくる唇を振り切って彼の胸を押す。
「ちょっ・・・や、ぁ・・っ」
やっとの思いで告げると、彼は至極残念そうな面持ちでこちらを見ていた。
・・・今さらだけれど、近い・・・。
「・・・なんだ」
いや本当に、近い。
少し身体をずらして隙間を確保すると、ほぅ、と息をつく。
その間も彼の視線が痛いほど突き刺さっているのを感じて、気まずいってこういうことを言うのか、なんて思ってしまった。
上がってしまった息を整えていると、彼の唇が視界に入ってしまって、その感触を思い出して鼓動が激しく打ち付ける音が耳元で響く。
危うく飲み込まれそうになった自分を叱咤していると、少し間をおいて、沸騰していた頭の粗熱がとれたのか、彼が落ち着いた声で言った。
「・・・もっと、触れたい」
遠慮がちに言った割りに、直球の剛速球で欲求をぶつけられた。
その衝撃のあまり眩暈を感じた私は、目元を手で覆う。
息が、上手く出来ない。
すると、大きな手が肩を抱いた。
「どうした、痛むのか・・・?!」
私の部屋で、薬の袋を見つけたせいだろう。
心配してくれるその声は、何か切羽詰って聞こえた。
私は首をゆっくり振って否定する。
「大丈夫。
そういうんじゃないです・・・」
「いや、病み上がりなのを忘れていた・・・」
すまない、と小声でそっと付け加える彼。
その囁きですら、私の心臓をぎゅっと掴む。
あなたの欲求に中てられたなんて、とても言えない。
「でも・・・」
深呼吸をして小首を振っていると、囁きよりしっかりした声で、彼の言葉が耳に入った。
「触れたいと思うのは、本当だ」
バリトンの、首筋がぞくぞくするような声で囁かれて、耳が熱くなる。
こんなの、反則だ。
「・・・それは・・・」
・・・私が、特別だということ・・・?
言いかけて、口を噤んだ。
はっきり訊けたらいいのにと思うけれど、望むような答えが返ってこなかったらと思うと、それこそ夢から覚めるようで耐えられないだろう。
それくらいには、彼のことを好きになっていることを、自覚している。
だから、雰囲気やその場の流れに飲まれるようなことは、したくない。
そう思うのは、おかしくないはずだ。
しばらくの沈黙の後、彼は究極に私を甘やかした。
たぶん、私が病み上がりだと気にしすぎた結果なのだろうけれど・・・。
焼き菓子をひとくちサイズに小さく切り分け、お茶も冷めてしまったからと淹れ直し。
少し時間が経つごとに、額に手を当ててみたり。
・・・あまりの甲斐甲斐しさに、自惚れてしまいそうだ。
もう少しだけ夢の中にいたいと、そう願った夜は初めてだった。




