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「やだ」
リュケル先生が、仏頂面で言った。
「・・・え?」
子どものような、いや、子どもにしか見えない一言に、思わず聞き返してしまう。
そして、聞き返された先生はというと・・・。
「やだやだやだ!
僕のが要らないんだったら、あいつのコインも捨ててきて!」
・・・分かりやすく喚いた。
「えぇぇ・・・?!」
・・・先生が幼児退行してしまった。
私はそんな彼の様子に呆然としてしまって、身動きが出来なくなっていた。
ジェイドさんに至っては、こめかみを指でぐりぐりと揉んでいる。
「・・・出ましたね、お坊ちゃま・・・」
ああ面倒くさい、という呟きは、本人には聞こえていないだろうけれど・・・。
「うるさいうるさいっ」
とにかく団長のコインを捨ててこい、自分のピアスを身につけろ、と地団駄を踏む大の大人。
・・・これは、面倒くさい・・・。
「ジェイドさん・・・」
関わると碌なことにならないだろう、と悟った私は、沈痛な面持ちで椅子に腰掛けている彼に声をかける。
すると、彼は肩を竦めて言った。
どうやら、彼はこれを見慣れているのか大きく動じている様子はない。
「彼はね、両親がいい年になってから出来た子なんですよ・・・。
しかも、念願の男児で・・・。
・・・まあ、そういうことです」
「・・・なるほど、なんとなく飲み込めました・・・」
そこまで聞いたら、あとは推して知るべしだ。
向こうの世界にも、似たような大人はいるとは思うけれど、幸か不幸か、私は今までに目の当たりにすることはなかった。
・・・初めての出来事に、動揺してしまった。
そして、喚いている先生を眺めていて、思い当たった。
リュケル先生は、恋愛感情から私に固執しているのではない、ということに。
きっと、私が物珍しいから、ただ手元に置いておきたい、ということなのだろう。
独り占めしたいから、他人の手に渡ることが我慢ならない。
そこまで考えて、私は大きなため息を吐いた。
こんな大きな子どもに、私は一時でも振り回されたのか。
一時であっても、男の匂いにドキドキしてしまったのか。
そう思うと、じわじわと怒りがこみ上げてきた。
先生にも、自分にもだ。
少しの間をおいて、怒りを滲ませた私の視線に気づいたのか、先生の目が私に向けられた。
その双眸にあるのは、ジェイドさんが近づいて来た時のような熱でも、団長が泣いた私の瞼を指でなぞった時のような温かさでもない。
一体何だろう、と気が逸れた瞬間に、先生が私の肩をがっしと掴んで揺さぶってきた。
もちろんそんな急な動きに、さっきまで横になっていた私が対応できるはずもない。
がんがん揺さぶられて、脳が揺れているかのような眩暈が襲ってきた。
されるがままの私の耳に、先生の喚く声が響いてくる。
「なんであんな奴のコインは大事に持ってて、僕のは要らないの?!
ミイナのことずっと見てたのは僕なのに!
あいつが蒼の団長だから?!
陛下の従兄弟だから?!
それなら僕だって、」
「リュケル!!」
怒りを含んだ声が耳に飛び込んできたのと同時に、揺さぶりが止まった。
体の揺れは止まったのに、耳鳴りと眩暈が止まらない。
・・・あ、まずい・・・。
真っ直ぐ立っているのが辛いと感じた時には、ジェイドさんに腰を抱かれて支えられていた。
私の中を蹂躙していた何かを追い出すように、私は目頭を押さえてゆるゆると首を振る。
「大丈夫ですか?」
同じ口が怒号を吐いたとは思えないくらい、穏やかな声で問われて、私は頷いた。
「・・・何、ジェイド」
ぎゃんぎゃん吼えていた様子はひと欠片も残さずに、一転して冷たい表情を纏った先生がジェイドさんに向かって短く言った。
私は大きく深呼吸して、やっと視界の安定した目で先生を見る。
その目は、私ではなくジェイドさんを見ていた。
「あなたはもう、喋らない方が懸命ですよ」
柔らかい、ただそれだけの声色でジェイドさんが告げた。
「あなたに付随するものを切り札にしても、この渡り人は手に入らない。
それが分かったから、自分を偽ってでも孤児院に留まっていたのでしょうに」
呆れているのだろうか、ため息でも溜めているのだろうか、今までに見たことのない表情を浮かべたジェイドさんを見上げて、私は内心で首を捻る。
・・・先生に付随するものって、何だろう・・・。
一瞬私の意識が怒りから逸れたところで、腰に回された手が、ぽん、と軽くリズムを刻んだ。
はっと我に返る。
行き過ぎた先生をけん制するには絶好のタイミングなのだと、合図された気がした。
興奮した子どもに、言葉や思いを伝えるには、言葉を発するタイミングが大切。
彼らの興味をひきつけて、聞く体勢が整っている時が一番話しやすい。
まさに今だ。
というか、そこまで子どもと同じように見ないと、先生には何も伝わらないのか。
半ば呆れつつも、私はジェイドさんに感謝して、自分の心に素直に言葉を紡いだ。
「長いこと付き纏っていた割りに、すいぶん打たれ弱いですねぇ・・・」
ジェイドさんが呆れ顔で言った。
そこにはあの、読めない表情はもうなかった。
私は彼の遠慮のない物言いに、最初に感じた疑問を思い出した。
「あの、2人はお知り合いですか・・・?」
2人の顔を交互に見る。
リュケル先生はまだ少し、ぼーっとしているようなので、ジェイドさんに尋ねた。
すると彼は、曖昧に微笑む。
・・・その笑顔、何回か見たことあります。
「そうですね、まあ、白の騎士団が管理している王立病院ですから。
私もリュケルも、今の職場で働きだしてずいぶん経ちますし・・・。
・・・まあ、長い付き合いになりますね」
「へぇ・・・そうなんですか」
長いこと大変ですね、という意味を込めて言えば、彼はやはり曖昧に微笑んだ。
そして、もらった処方箋で薬を受け取って、病院内に待機してくれていた車で王宮に戻ることにしたのだった。
一応、心ここにあらずの先生に一言声をかけたけれど・・・やはり、まともが反応は返ってくることはなかった。
傷つけてしまったと、少し申し訳ない気持ちにもなるけれど、あのまま暴走されても迷惑なだけなので、荒療治だと思うことにしよう。
ほとぼりが冷めた頃にでも、病院に差し入れを持って行って、その時は謝って・・・と考えていると、かさり、と薬の入った袋が音を立てた。
自分が病院のお世話になったことを思い出して、ため息を吐く。
あの時ジェイドさんが通りかかってくれなかったら、私は自力で病院まで来なくてはいけなかったのだ。
それを思うと、さすがに背筋が寒くなる。
本当に助かった。
「ジェイドさん、ありがとうございました」
隣に座る彼は、にこにこ笑顔で振り返った。
車の中は、思ったより体が密着するものらしい。
すぐ近くに体温を感じて、なんだか落ち着かない心地だ。
「いえいえ、もう体は辛くないですか?」
「はい、全然痛みもないし、もう大丈夫です」
どこか浮ついた気持ちをかき消すように、大きく頷いた私に、彼は苦笑しながら手を伸ばす。
そして、そっと私の手をとった。
「先程も言いましたが・・・」
甘い雰囲気の中に、ぴりっとしたものが漂う。
何か、大事なことを忍ばせているような気がして、それが何なのかを探ろうと、彼の空色の瞳をじっと見つめた。
「次に体に不調があったら、すぐに知らせて下さいね。
それが私だと嬉しいですが、なにぶん忙しい身の上なので・・・。
この際、蒼鬼殿でも構いませんから、必ず知らせて下さい」
「・・・私、何か変な病気にでも罹っちゃったんですか?」
あまりに真剣な目をされて、おかしな想像が働いてしまう。
指先が冷えていく感覚に、私は思わずぎゅっと彼の手を握ってしまった。
すると、彼は優しく目を細めて言う。
「そうではなくて、早めに知らせて下さいってことです。
緊急性がなければ、業務の後にゆっくり病院にかかることも出来ますし。
もちろん、車を出すことも可能ですからね」
幼い子どもに言い聞かせるように、ゆっくり話してくれる。
あまり甘やかされると、そのうち気を許してリュケル先生みたいになりそうだ。
そんなことを考えていると、ふいに彼が肩を揺らした。
「しかし・・・リュケルのあんな顔、初めて見ました」
長年手を焼いてきたのだろう、本当に清清しいと言わんばかりの表情で、彼が言う。
「でも、素直な気持ちですから」
そう、本当に思ったことを言っただけだ。
ああいう人には、はっきりキッパリ言った方がいいのだと、私は思っている。
傷つくかも、なんて要らぬ心配をして言葉を選んだり、婉曲した表現なんて生ぬるい。
最終的に自分に都合の良いように、勝手に解釈して、腐れ縁に発展してしまうのが目に見えている。
・・・もちろん、あとでご機嫌伺いに行く必要があるとは思うけれど・・・。
「じゃあ、私もミナに嫌われたら、ああいうことを言われるわけですね」
悪戯っぽい表情で、顔を覗き込まれる。
いろいろ同時に起きたせいで忘れていたけれど、この人も私の名を呼ぶのだった。
鼓動が跳ねてしまうのを止められない私は、言葉を失った。
当然だけれど、団長とは違う声だ。
「お望みなら、ちょっと頑張って嫌いになります」
「・・・そうしたら、私も付き纏いの常習犯になりそうですねぇ」
今のうちに、被害届け用意しておいた方がいいのだろうか。
処方された薬は何をどう間違ったのか、乱暴なくらいに甘ったるかった。




