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子守として働き始めてから、早いもので4日。



私は最初の休暇をもらって、必要なものを買出しに来ていた。

・・・もちろん1人で。

以前団長に、買出しの際には連れて行くようにと言われたけれど、結局声をかけないで来てしまった。


実は見てしまったのだ、子守初日に彼が、黒髪の女性と一緒にお茶を飲んでいるところを。

王宮内で、何かの届出や申請に来た一般の人達を相手に営業している、喫茶室のようなところだったか。

私はたまたまリオン君と手を繋いで、護衛の白騎士何人かと一緒に、厨房へおやつをもらいに行くところだったのだけれど・・・。

・・・すらっとして、目鼻立ちが整っていて、笑顔の綺麗なひとだった・・・。

ひとつに纏めた髪が、艶やかで。

・・・そういうことも、あるだろう。

もしかしたら、団長が私に構う時に色気を滲ませているのも、私の髪が黒いからなのか、なんて変に勘繰ってしまったりする自分は、横に置いておくことにしよう。

今は自分のことに集中する時なのだと、どこかの神様からのお告げなのかも知れない。

そう思ったら、買い物に付き合ってもらおうだなんて、甘えた考えは捨てるべきだと思ったのだ。

実は今日までに、団長から夕食のお誘いや買い物の打診があったけれど、どれも曖昧な理由をつけて断ってしまった。

まだ王都に不慣れな私を気遣ってくれているのは分かっているし、彼が会っていた彼女に対して、私が気まずい思いをするのも間違っているとは思うけれど、なんとなく一緒にいたい気分ではなかったのだ。

そんな私に、彼は顔を合わせるたびに何か言いたそうにしていたけれど・・・。



そういうわけで、今日は1人で朝から買い物に勤しんでいるわけだ。

まずは、手持ちの服での勤務が厳しくなってきたので、新しいものを何着か見繕う。

仕事を始めて2日目で、制服のオーダーをしたけれど、それが出来上がるのはもう少し先になるそうだ。エルゴン式の機械で縫うそうだけれど、型紙を作ったりと、時間はかかるものらしい。

孤児院にいた時は生地から作ることが多かったけれど、王都となると既製品が多く、お裁縫の苦手な私にはとても助かる。

ちなみに、まだ初任給の入らない私の、当面の生活費の出所は院長だ。

孤児院で働いていた時、小遣い程度にお給料をもらっていたのを、ほとんど遣わずにとっておいたのだ。もともとは自立するための資金にするつもりで貯め始めたお金だ。


王都は、王宮を中心に東西南北に広く栄えている街だ。

王宮の周りには、緑地とお堀が巡らされていて、さらにその周りに城壁がある。10年前の戦争の時に得た教訓を活かして、整備されたものだそうだ。

いざという時には、民間人の避難場所としても活用するらしい。

さらに、市場のような露天の多い地域や、ブティックのような少し敷居の高いお店の多い地域、銀行や会社などのある商業地域が点在している。

こうして見ていると、街の雰囲気よりも内容は近代的だ。

私はまだ王都初心者なので路地に入ったりする勇気はなく、初日にバスで通った大通りに沿って歩きながら、気になる店を見つけては買い物をしていた。

・・・これなら一度見たことのある風景だし、どうしようもなく迷子になることはなさそうだ。

道に迷って、巡回中の蒼の騎士団のお世話になるだなんて、団長に黙って街へ来ていることが知られてしまっても困る。

服を買って、持ってきた大きなバッグにしまう。

店を出ようとしたところで、背中に店主の「ありがとうございましたー」という声がかかった私は、視線だけで振り返って、軽く会釈をする。

外に出れば、日差しが強く降り注いでいた。もうすぐ本格的な夏がやって来るのだろう。

日差しと暑さをしのぎつつ、雑貨屋さんで最低限の調理器具やタオルなどを買い込むと、荷物が急にずっしり重くなってしまった。

・・・今日はこれ以上買っても、持って帰れなくなりそうだ。

そう見切りをつけて、とりあえず足を休められそうな場所を探すと、幸いこの辺りは商業地域が近いこともあってか、店の軒先にテラス席を設けたカフェのようなお店がいくつか目に入った。

その中から、手近な店を選んでドアを開ける。

可愛いウェイトレスの案内で席につくと、この世界でもカフェは人気があるのか、お昼を過ぎた時間だというのに女性達やカップル達でにぎわっていた。

いろんなものを選びながらお店めぐりをしたせいか、椅子に腰掛けた途端に、足がくたくたになっていたのに気づく。

そういえば、朝食を食堂で済ませてから何も口にしていなかったから、おなかもペコペコだ。食事メニューの中から夕飯に響かないようなものを選んで注文する。

そして、しばらくして運ばれてきたサンドイッチをほおばった。

この世界の料理は、基本的には素材も調理法も、もといた世界に良く似ている。

もしかしたら、エルゴンを使う技術を発明したように、料理の得意な渡り人の遺産なのかも知れない。

もし100年前のこの世界に渡って来ていたら、世界に順応して生活するだなんて、とてもじゃないけれど出来なかったかも知れないな。

そんなことを思いながら窓の外を眺めていると、通りを歩く人達の姿が目に入った。

アイスクリームのようなものを食べ歩く女の子達や、腕を組んで歩くカップル、仕事中なのか急ぎ足で通り過ぎる男の人。

こうやって街の様子を眺めていると、平和で治安が良いことを実感できる。

10年前の侵略戦争の頃は、治安だなんて言っていられないくらいに荒れたらしい。

私には想像もつかないのが正直なところだ。

それは、この国の多くの人と記憶を共有出来なくて申し訳ない気持ちにもさせるけれど、同時にとてもありがたいことだとも思う。

怖い思いも嫌な思いも、しなくていいなら、したくはない。

戦時下、王都が戦火に巻き込まれることはなくとも、物資は前線に送られてしまうから商店に並ぶ物の値段は上がり、国を守ることが優先されるから働き手もいなくなるしで、王族の住まう王都ですら、略奪行為が横行していたという。

あろうことに、権力財力のある貴族や騎士団の連中が、庶民から物を奪うこともあったそうだ。

・・・そういう連中は、陛下とジェイドさんによって粛清されたそうだけれど・・・。

そして5年前、戦争から立ち直りつつある頃に蒼の団長が交代して、治安が徐々に安定してきたというわけだ。

・・・5年前だから、彼が27歳くらいの時だろうか。

外を眺めながらも思わず、今よりも少し若い団長を想像してしまった。

あの剣を握る、ゴツゴツした大きな手を。

・・・甘いものでも、買っていってあげようかな・・・。

あまり関わりたくないと思っていたというのに、思い出してしまったら、なんだか気になってしまう。

昨日顔を見たけれど、目の下にクマが出来てたから、あまり寝ていないのだろう。

・・・あの彼女と連日一緒にいて、睡眠不足である可能性も否定出来ないけれど・・・。

思いを巡らせているうちに、変な想像までしてしまった自分に、思わずぷるぷると首を振った。

そうこうしていると、すぐ近くに人の気配を感じて、思わず視線を上げる。

目に入ったのは、オリーブ色だった。




「やっほー」

手をひらひらさせて、にこにこするその人は、ノルガ。

蒼の騎士団1等騎士で、団長の部下だ。

「・・・どちら様でしたっけ・・・」

・・・どうして騎士団の制服なんて、紛らわしいものを着ているのだ。

騎士だから当然なのに、そんな理不尽な思いが胸の内に湧き上がって、無意識に彼に対して棘のある声が飛んでしまった。

「ひっでー」

けれど彼はそんな私の態度をさして気にかける様子もなく、さらに断りもなく椅子を引いて、目の前に座る。

彼には孤児院で変に絡まれた記憶しかないけれど、どういうわけか向こうはとても親しげだ。

そんなふうに馴れ馴れしくされると、思い切り冷たくしてやりたくなるけれど、私は一応彼よりも大人であるし、何かあったら団長に迷惑がかかることは目に見えている。

結局私は、抑揚のない静かな声を出すしかなかった。

「・・・なんで君がここにいるの、ノルガくん」

「ひどーい。なんでそんなに冷たいのミイナちゃん」

気をつけているはずなのだけれど、どうやら私の態度は冷たいらしい。

私はため息を吐くと、今度は何を言えばいいのか分からなくなって、俯くしかなかった。

「・・・1人みたいだけど、団長は一緒じゃないの?」

辺りをキョロキョロしながら、彼は無邪気に問う。

私は静かに首を振って、力なく答えた。

「・・・あのね、彼はただの後見人なの」

口から出た言葉が自分に跳ね返ってくる感覚に、少なからず動揺してしまうのを抑えながら、私は「1人で買い物に来ただけ」と付け足した。

彼は何か腑に落ちない様子で、ふーん、と呟いてウェイトレスを呼び止める。

そして、自分用に飲み物を頼むと、改めて私に向き直った。

「・・・じゃあさ、これから俺とデートしようよ」

「はぁ・・・?」

頬杖をついて、覗き込むようにして問われれば、思わず間抜けな声が出てしまう。

「だってミイナちゃん、1人なんでしょ?」

「いやあの、それ以前に君、今勤務中なんじゃないの?」

彼は私の反応に、不思議でならないという表情だけど・・・オリーブ色の制服を着ているということは、勤務中ということだ。

帯刀しているところを見て確信する。

「1等騎士なんでしょ?

 部下が待ってるんじゃないの?」

私の言葉に彼はひとさし指を、ちっちっち、と振った。

古臭いポーズに、私が冷めた目を向けていることを意に介した様子もなく、彼はしたり顔で言った。

「今は遅めのお昼休憩中なんです。

 だから、俺の部下に見つかるまでは自由なんだよね」

・・・休憩から戻らずにサボるつもりなのか。

制服姿の騎士に飲み物を提供して、ウェイトレスが去っていく。

私は彼女の頬が、ほんのり赤くなっていたのを見逃さなかった。

・・・確かに、少し見ただけなら彼は魅力的な青年だとは思う。

けれど、やはり与えられた仕事をきちんとしないなんて、格好悪いと私は思うのだ。

彼の話を聞いて普段の様子を察した私は、彼の部下の皆さんにいたく同情する。

いっそのこと団長に告げ口でもしてやれば、勤務中に部下を困らせることもなくなるのだろうか。

・・・いや、それは大きなお世話か。

そんな彼の天真爛漫さに言葉も出せずに考えていると、彼がさっと手を伸ばした。

「だからほら、食べ終わったんなら行こうよ」

手には私の買った物が入った大きなバッグ。

「えっ?」

間抜けな声が出て、私も慌てて腰を浮かせる。

よく見たら、彼の飲み物は空になっていた。

・・・一体いつの間に。

「・・・ちょっと待って!」




慌てながらも代金を払って店を出ると、彼が少し離れた場所で待っていた。

・・・勢いで彼の飲み物代まで払ってしまったじゃないか。

ため息をついて彼に近づく。

この僅かなやり取りだけで疲れを感じた私は、ともかく荷物を返してもらって部屋に戻ることだけを考えていた。

「で、ミイナちゃんはどこ行きたい?」

小首をかしげて、彼が問う。

「どこにも。

 さ、荷物を、」

「ちなみに、この荷物はデートしてくれたら返してあげるよ」

私が返してと言おうとするのを遮るようにして、彼に言われる。

何を言っているんだ、と睨んで憤りをぶつけるけれど、あまり効果はないらしい。

彼は楽しそうに目をきらきらさせて、小首を傾げている。

・・・もう、ここで押し問答をしていても仕方ない。

「・・・別に行きたいとこなんてないよ・・・」

ゆるゆると首を振って答えた私の頭に、ぽん、と手のひらを乗せて、彼が頷いた。

「じゃあ、いいとこ連れてってあげる」

そう言って、彼が歩き出す。



連れてこられたのは、街の外れだろうか、ある丘の上。

眼下には、王都の街並み。背後には、林。

手近な所に大木が立っていたので、その木陰に2人して座った。

街中では気づかなかった、爽やかな風が吹き抜けていって気持ちがいい。

この国は、北の国境のあたりに山脈があるくらいで、基本的に平地が多い。

だから、というのは都合が良すぎるとは思うけれど、西から吹いてくる風が孤児院から来たように思えて、自然と頬が緩んだ。

「ここ、いいでしょ?」

「・・・うん」

不本意ながらも、私は今この場所にいることを心地良いと感じてしまっていた。

今なら、彼にも少し感謝出来そうだ。

素直に頷いた私に満足したのか、彼は私の荷物を枕に寝転がろうとする。

私はそれを慌てて止めた。

「ちょっと、壊れ物も入ってるからっ」

すると、彼は渋々荷物を横にどける。

そして、少しの間だるそうに頭を垂れた後、「あ」と小さく呟いた。

「えー、じゃあこっちでいい」

彼の何かを思いついた様子を黙って見ていると、よっこらしょ、という掛け声と一緒に、体の割りに小さな頭を私の膝に乗せてきた。

柔らかい赤毛が肌をくすぐって、思わず身をよじると、彼が呻く。

「ちょ・・・っ、やめてよ!」

頭を持ち上げようとするけど、なぜか漬物石のように重かった。

こんなに小さいのに、だ。

「いいじゃん少しくらい。減らないでしょ?」

言って、私の腰を両手で押さえて、膝枕のまま頬を摺り寄せてきた。

この体勢からくる恥ずかしさと、段々と布越しに彼の体温が伝わり始めたのを感じ取って、私は咄嗟に叫んでしまった。

「やめてってば!

 わかったいいから、普通の膝枕ならしてあげるから・・・!」

「・・・やった!」

私が降参した途端に動きをぴたりと止めた彼は、ちょうどいい場所を求めて何度か頭の位置を変えた後、満足そうに1つあくびをして、すぐに寝息をたて始めた。

・・・なんという展開だろうか。

未だかつてしたことのない恥ずかしい展開に、私は大声で叫びたい気持ちになる。

今自分の膝に乗っている物体が男の人の頭だと意識したら、心臓が爆発しそうだ。

・・・これは漬物石。漬物石だ。

それにしても、本当にこれで1等騎士なのか。もしかして、虚偽申告とかして事務官や団長の目を誤魔化したりはしていないだろうか。

疑いながらも、彼の様子をまじまじと観察する。

柔らかい赤毛は木漏れ日に照らされて、その部分が綺麗なオレンジ色にも見える。

まつげも長いし、鼻筋も通っているし・・・観察しながらそんな感想を抱いた私は、思わずその髪に触れて、ゆっくりと梳いた。

指を通るその感触が、するんとして気持ちいい。

まるでペットの頭を撫でているような、癒される感じがする。

・・・今の私が欲しているのは、癒しなのかと少し寂しくもなった。


しばらくそうしていると、丘を吹き抜ける風が強く冷たくなってきた気がした。

彼を起こさないよう注意しながら、音を立てないように荷物の中からバスタオルを取り出すと、そっと彼にかける。

私の膝枕で風邪でも引かれたら大変だ。

それにしても膝枕なんてしていたから、だんだんとこの青年が大型犬に見えてきてしまった。

・・・そうだ、大型犬なのだから、膝を少し貸してあげるくらい、なんてことはないのだ。

そう自分を納得させて、ため息をつく。

・・・そういえば、なんだか私も寒くなってきたような・・・。

風が首元を通るごとに、体温を奪っていくような気がする。

思わず腕をさすれば、膝の上の彼が短く息を吐いて、瞼がひくひくと動いている。

どうやら目を覚ましたらしい。

寝るつもりで膝枕を要求してきたのだろうに、目が覚めてみれば自分に驚いているようだった。

・・・ちょっと可愛い。犬みたいで。

「・・・おはよ」

声をかけたけれど、起き上がった彼はお腹の上に乗せられたタオルに気づいて、私を見た。

「これ、かけてくれたんだ・・・」

私が梳いていた赤毛をくしゃっと手で無造作に梳いて、頭をゆっくり振る。

「・・・あー・・・ほんとに寝ちゃったんだ、俺・・・・・」

半ば呆然と私を見る。

寝てしまったことが、そこまでショックだったのだろうかと、私は内心で首を傾げた。

「寝るつもりで横になったんじゃないの?」

呆れて言うと、彼は若干ムスっとした顔で、そっぽを向いた。

それが可愛くて、私は思わず噴出してしまった。

大型犬でなければ、この子は弟か。

私には兄と、2つ年下の従姉妹しかいないから、それもいいかも知れない。

「笑わないでよ、ほんとに寝ちゃったら騎士失格」

額に手を当てて、俯く彼。

重々しいため息が漏れていくのを聞いた。

彼の心情は理解出来ないけれど、今ならほんの少しだけ、私を振り回してくれた仕返しをするチャンスかも知れない。

私はそう思って、一瞬のうちに考えを巡らせて言葉を紡いだ。

「あ、そうだった。

 一応、勤務中だったんだよね?」

一応、と強調して言えば、彼に軽く睨まれた。

どうやら仕返しはそれなりに成功したようだと、私は肩を竦めて彼に言う。

「・・・大丈夫、誰にも告げ口しないから。

 だから、今日のことは君も誰にも言わないで。黙っててね。

 あと、余計なお世話かも知れないけど、お金をもらってるなら仕事はちゃんとしないと」

そう一言付け足せば、彼がため息をついた。

「・・・こんなはずじゃ、なかったんだけどなぁ・・・」

ほとんど独り言に近いけれど、あまりの落ち込みように私はもう一度声をかける。

「だから、誰にも言わないよ。

 ・・・いいじゃない、ちょっと寝てすっきりしたでしょ?」

けれど、反応がない。

「ちょっと、ノルガ?」

目の前で手を振れば、その瞳が私を捉えた。

半分呆けたように、私の手と顔を交互に見ている。

・・・もしかして、まだ寝ぼけているのだろうか。

そう思った刹那、柔らかくその目が細められた。

「あぁ・・・そっか・・・」

その口から出た声は、耳を疑うほどに優しくて、甘くて。

とても幸せそうに微笑むその表情に、私は目を奪われた。

そして、呼吸すら忘れてしまっていた私の手が、彼に捕まれて引き寄せられる。

・・・あ、という声が唇の隙間を縫って出てきたのを、自分の耳で捉えた瞬間だ。

ぼすん、と音がして、油っぽい、汗のような、独特の匂いが鼻先をくすぐった。

「・・・え・・・?」

小さな呟きが、自分の口から漏れる。

それすらも、目の前のオリーブ色に吸い込まれた気がした。

そして一瞬遅れて、ノルガの腕の中に自分がいるのだと分かった途端、顔に熱が集まってくる。

ここが外で、誰かに見られるかも知れない、という焦燥感が羞恥心を飲み込んでいく。

・・・これは、まずい。

慌てて彼を押し退けようとするけれど、びくともしない。

蒼の1等騎士なのだから当然だろうけれど、そんなことには構わずに、私は拒絶したい気持ちをこめて、腕に力を込める。

「ちょっ、と!」

離して欲しい、と言おうとして顔を上げて、息を飲んだ。

彼の瞳が、真っ直ぐに私を見据えていることに気づいたのだ。

・・・どうして今、そんなふうに私を見るのだろう。

湧き上がった何かに押し出されるようにして、私は強い言葉を吐き出していた。

「からかってるんだったら、もうやめて」

腕に力を込めた私を、彼はいっそう強い力で引き寄せた。

まさに力任せだ。息が苦しい。苦しくて、頭の中がぐるぐるする。

彼の息が額のあたりを通り過ぎていくのを感じて、鼓動が跳ねた。

・・・頭突きでもすれば、彼の目も覚めるだろうか。

そんな現実逃避気味な考えが脳裏をよぎった瞬間に、彼が、ぐいっと体を離す。

「からかってないよ。

 自分でもびっくりしてるんだ」

真摯な目をして私の頬に手を添えた彼は、そう囁いた。

私にだけ聞こえるように紡がれたその言葉が、心を揺さぶる。

自分の中でぐらぐらと揺れる何かに、私は必死にしがみつこうと握った両手に力を入れた。

ほんの少しの沈黙の後、彼がもう一度言葉を紡ごうと息を吸うのが分かる。

・・・聞いちゃいけない。

半ば本能的にそう悟った、その刹那だ。

「・・・ごめん・・・。

 ミイナちゃんのこと、好きになったみたいだ」

予想もしていなかった衝撃に目を見開いた私を見て、彼はふわっと微笑む。

私は見開いた目で、彼がゆっくりと目を閉じるのを見ていた。

・・・目の前にいるこの人は、誰。

そんなことを心の中で呟いているうちに、そっと、彼の唇が重ねられた。








丘を、街を駆け抜けた。



あの後私は、到底受け入れられない衝撃に、思わずノルガを張り倒して逃げてきた。

きっと明日、彼の頬は真っ赤になっているはずだ。

・・・調子に乗ってしまった。

向こうの世界にいても、同じことをしていたかと問われれば、絶対にないと言いきれるのに。

人懐こい彼を、大型犬だの弟だのと言っていた自分が愚かしくて馬鹿馬鹿しい。

走りながら唇をごしごし擦る。痛くて目に涙が滲んだ。

・・・好きだなんて、絶対嘘だ。

きっと目が覚めて、何かを勘違いして血迷ったに違いない。

そうでなければ、どうかしている。

・・・最近感情が爆発しそうなことばかり続く。厄年なのか。

走り疲れて足が痛くなった頃、ようやく寮の玄関にたどり着いた。

バスに乗ろうという考えなど、愚かな私は一切思いつかなかったらしい。

いつの間にか、日が傾いていた。

・・・荷物を忘れてきている。

私は自分にほとほと嫌気が差したまま、今から戻るわけにもいかないし、と仕方なく肩を落として寮の玄関をくぐった。

息切れしていた口から出るのは、ため息しかなかった。

すると、今一番聞きたくない声が響く。

「・・・ミナ」

・・・出来れば今日は、会いたくなかった。

けれど、彼の姿が目に入った途端に、心のどこかで何かが外れる。

一度は引っ込んだ涙が、じわ、と滲んだ。

・・・こんなカオを彼に見られるわけにはいかない。

私は唇を噛みしめて、俯いた。

「はい」

なんとか呼吸を整えてから返事をして、彼の鼻先を見つめる。

どうしても、その強い瞳を正面から見るだけの度胸を掻き集められなかったから。

「・・・荷物を、持っていないようだが」

・・・なぜ彼が荷物のことを知っているのか。

まさか見られていたのかと、小さく息を飲んだ私に、彼がため息混じりに言葉を投げた。

「街の巡回に出ていた部下がな、報告してきた。

 ・・・大きな荷物を持っているようだから、と・・・。

 蒼の連中は特に、俺のコインに目がいってしまうようだ」

聞けば、これから迎えに行こうと思っていたのだという。

・・・行き違いになるという可能性は、考えもしなかったのだろうか。それとも、私を見つけるつもりで、出かけようとしていたのだろうか・・・。

私はそんな彼の言葉に唖然としながらも、そんな風に親切心を向ける相手が、間違っている気がして、なんだか憤りに似た感情を抱いてしまっていた。

・・・素直にありがとう、と言えたらどんなにいいだろう。

少しばかり葛藤していると、彼が、はっとしたように私に詰め寄ってきた。

「・・・盗難に遭ったのか」

心配してくれる彼に首を振って否定すると、訝しげに眉間にしわを寄せる。

そんな彼に向けて、私は長いこと閉じていた口を開いた。

「・・・違うんです、置いてきたんですよ。

 重いから、送ってもらおうと思って・・・」

「・・・そうか」

やや間をおいて、彼が頷く。

納得しているわけではなさそうだ。

あったことをそのまま話せるほど私は馬鹿ではないし、第一、話したところで彼も何と言ったらいいのか困惑するだけだろう。

私は早く1人になろうと、小さく息を吸った。

「・・・ちょっと歩き疲れちゃって・・・。

 もう部屋で休みますね。失礼します」

彼の表情もまともに見ることなく、短く告げて階段を上ろうとした私は、腕を捕まれた。

決して無理強いはしないのに、振り払うのが躊躇われる、優しい力加減に鼓動が跳ねる。

「・・・待ってくれ。

 今日は、夕食を一緒に摂らないか・・・?」

そっと、伺うような言い方に戸惑ってしまって、すぐには声を出すことも出来なかった。

・・・どうして、そんなふうに私に接するのだろう。

「・・・えっと、」

彼がどんな目をしているのか知るのが怖くて、視線を彷徨わせる。

気を悪くさせると分かっているけど、どうしても、出来なかった。

「・・・今日は、ちょっと・・・」

すると、彼の手がすっと離れた。

「・・・ごめんなさい」

彼の言葉を受け取る自信がなかった私は、小さな声で、やっとの思いで言葉を搾り出すと、階段を上がって自分の部屋に向かった。

自分でも分かっていた。

今、彼と一緒に食事でもしようものなら、きっと私の中の何かが崩れ落ちてしまうと・・・。











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