16
ジジ・・・と部屋の照明が、かすかな音を立てて灯る。
部屋に着いて私をソファに降ろした彼は、膝の上に毛布をかけくれる。
そして、「少し待っていろ」と囁いてから、どこかへと消えていった。
ぐるぐると渦巻いていたものが少し落ち着いて、気持ちに余裕の出来た私は、初めて入った彼の部屋をぐるりと見回す。
照明もインテリアも、全てが落ち着いた色で纏められていて、彼らしいと思えた。
今までに足を踏み入れたことのある、男の人の1人暮らしの部屋を想像していた私は、意外にもすっきり片付いていて、さらには、ほんのり甘い香りが鼻先を掠めたのに驚いていた。
大人なんだな、なんて、今さらながらに感心してしまう。
外はすっかり夜が深まって、天体盤の月が一番上に昇っていた。
手持ち無沙汰になって胸元のコインに触れると、それは滑らかに存在を主張する。
そのままコインの輪郭をなぞりながら、あの「合格」について、ぼんやりと考えた。
あれが、私を試すためだけに行われた演技だったのなら、きっと私が動かなくても、リオン君を傷つけたりしなかったのだろう。
今思えば、幼い子どものリオン君だって暗闇を怖がって母親を呼ぶこともなかったし、レイラさんもリオン君の名前を呼ぶことはなかった。
事前に聞かされていれば、4歳といえど不安にならないで待てるのか。
いや、あれは王族だから出来たことだったのかも知れないけれど・・・。
きちんと物を考えて取った行動ではなかったけれど、陛下は「良い判断だった」と言っていたし、誰かが私を「合格」だろうと言っていた。
もしも、あの時私が自分の身だけを守っていたとしたら、どうなっていたのだろう。
その時は「不合格」として、見限られたのだろうか・・・。
・・・それなら、あの場にいた人達が優しかったのも、親切にしてくれたのも、私の気を緩めて試すためだったということなの・・・?
団長が陛下の従兄弟だから、親戚筋からの紹介だったから、仕方なく私を雇うフリをしたの?
結局、彼が後見をしても、私では信用出来ないということだったの?
・・・緊張して、私で彼らの力になれるなら、と覚悟を決めて・・・なんだ、私だけだったのか、真剣だったのは・・・。
ふつふつと湧いてくる感情が胸の奥で燻り始めたところで、これが団長を介しての話だったことを思い出した。
そして、深呼吸をして冷静さを取り戻した私は、彼らに何も言わずに退出してきてしまったことを後悔した。
私が指差しても大丈夫だったくらいだし、不敬罪にはならないと思うけれど・・・。
それでも、私のせいで団長まで陛下の心象が悪くなってしまっていたら、と思うと、王宮の中で居づらい思いをさせてしまったら、と思うと申し訳ない。
・・・やっぱり、私には場違いだったのかも知れないな・・・。
もしあちらが私を雇いたいと言ってくれても、これから同じように私が感情を先走らせて団長に迷惑をかけないとも言えない。
・・・明日ジェイドさんに謝って、明日か明後日にでも、孤児院に戻らせてもらおう。
院長は、また孤児院に受け入れてくれるかな・・・。
図書館の、渡り人の資料を見られないのは残念だけど、こればかりは仕方がない。
団長に教えてもらわなければ、存在すら知らなかったものだ。
これからも目にすることがなくたって、生きていけるはず。
膝を抱えてため息をつく。
そのほとんどが、自分への嫌悪だった。
「・・・落ち着いたか」
バリトンの声がして、顔を上げる。
見れば、団長がトレーにお茶のセットを用意してくれていた。
静かに隣に腰掛けると、優しい手つきでお茶を淹れ始める。
このゴツゴツした手が普段は剣を握っているなんて、想像がつかない。
「・・・ありがとう、ございます・・・」
お礼を言って、カップを受け取る。
ひと口含めば、ふんわりと柔らかいフルーツの香りが広がった。
体に広がる優しい熱に、無意識に頬がゆるむ。
「気に入ったか」
その様子を見ていたのか、団長から声がかかった。
「はい、おいしいです」
「そうか」
私が頷いたのに満足したのか、団長もカップに口をつける。
そしてややあってから、口を開いた。
「・・・さっきは、悪いことをしたな」
「え?」
ふいに謝られて、思わず聞き返す。
ほんの少しの間沈黙が訪れて、照明の立てる音が時間を埋める。
彼は、いささか気まずそうに視線を彷徨わせた。
「・・・俺も知っていたんだ、ああいった形で、君を試すと」
「・・・っ」
その言葉が耳に入った瞬間、何かが喉元までせり上がってくる。
同時に、頭の芯がすっと冷えていくのが自分でも分かった。
気をつけて言葉を選ばないと、気が緩んで罵詈雑言が飛び出てしまいそうだ。
私は奥歯を噛み締めてから、口を開く。
「・・・そ、うですか。
大丈夫です、わかってます・・・。
王族の方と関わるってことは、いろいろ疑われることも多いんですよね・・・?」
もう、いいんです・・・。
顔を見ないようにして、そう呟けば、彼が息を飲んだ気配がした。
捻くれた台詞だという自覚はある。
私は、彼が口を開いた気配に押し黙った。
「・・・賛成反対が、ちょうど半々くらいだった。
奴の家族のことだ、決定権は全て奴にある・・・。
幼い息子を預けるには、あそこまでしないと安心出来なかったのだろうが・・・」
やり過ぎだ、と付け加えて、彼は沈黙した。
・・・それなら彼は、反対の側の人間だったのだろうか。
尋ねたいけれど、もし違ったら立ち直れない気がして、頷くことすら出来ない。
すると、彼が私の顔を覗き込んだ。
「・・・怖かっただろう。平和なところから来たなら、なおさらだ・・・。
刃物を持って襲い掛かってくる人間など、見たこともなかったんじゃないか・・・?」
言われて、その時の光景がフラッシュバックする。
演技だったとしても、悪意を刃物と一緒に向けられて平気なわけがなかった。
あの時は必死だったから、恐怖など感じる余裕はなかったけれど・・・。
頭のどこかでは冷静なのに、思い出すと体が小刻みに震えだした。
そして、本当の恐怖を感じたら、声なんて出ないんだな、なんてぼんやり考える。
するとふいに、手に何かが触れた。
驚いて手を引っ込めようとすると、ぐい、と力を込められる。
戸惑いながらも視線を遣ると、彼の大きな手が、私の手を握っていた。
何ですか、と言いかけて、やめる。
深い緑に、何かが宿っているのに気づいたら、声が出なかったのだ。
「・・・思い出して体が震えてしまうほど、怖かったんだな・・・」
心地よい温度の声が、耳に馴染んでいく。
ゴツゴツした手に見えるのに、重ねると温かくて優しいなんて、反則だ。
「よく、頑張ったな。
・・・こんなに華奢な手で」
手を、じっと見つめる深い緑色の瞳。
彼の言葉が自分の中に落ちてきた途端に、私の涙腺が緩んだ。
境界線を越えようとする涙を留めておきたくて、息を止める。
気づけば無意識に、きゅっ、と彼の手を強く握り返していた。
そして、私に向けられている瞳が、柔らかく細められた。
・・・あんまり優しくしないで欲しい。弱音を吐いてもいいと、勘違いしてしまう。
「・・・試したりして、すまなかった。陛下には、明日きっちり報復しておいてやる。
今は・・・そうだな、俺に当たり散らしてくれても構わない」
「・・・怖かった、です」
彼の言葉に揺さぶられた私は、堪えきれずに言ってしまった。
言ってしまったら、もう駄目だった。
涙が次々に零れては、ひざに掛けられた毛布に染み込んでいく。
滑らかで上等で、丈夫な生地は、たった一粒の涙も逃さないとでもいうように、落ちてくる私の涙を受け止めていった。
頑張ったと、認めてくれたことが嬉しい。
荒れ狂った気持ちがあることに、気づいてくれたことも嬉しかった。
彼の、空いている方の手が、そっと目じりをなぞっていく。
指先まで優しいなんて、ずるい。
そんなことを頭の隅で考えていると、ふいに声がかけられた。
「落ち着いたか・・・?」
私は首を縦に振って、さっきまで考えていたことを話した。
「だんちょ・・・、
陛下が、シュウのことを悪く思ってないか、心配で・・・」
「・・・あぁ、そのことか」
しばらく考えて、私を抱きかかえて退出した場面を思い出したらしい。
眉間に寄せたしわが、その時彼が不快な思いをしていたことを伺わせる。
「私、このまま子守の仕事を任されたとしても、きっと、何かあるたびにシュウに
迷惑をかけちゃうと思うから・・・」
考えていたことをそこまで聞いたところで、彼がため息を吐いた。
握っていた手を離して、腕を組んで何かを考えているようだ。
私は、考えていたことは最後まできちんと伝えておこうと、息継ぎをする。
「・・・今回のお話は、なかったことにしてもらおうと思ってます。
このコインも・・・せっかくだけど、お返ししますね・・・。
ごめんなさい、勝手なことばっかり言ってるって、分かってます・・・」
青い色が肌に馴染んできた頃なのにと、残念に感じる自分もいる。
最初は恐れ多いのと、多少強引に着けられて反発する気持ちが強かったけれど、今はこのコインが胸元にある安心感の方が強かった。
何かあっても、1人じゃないと思えるから。
けれど、それに甘えてはいけないのも知っている。私は、もう大人なのだ。
しかし、彼は私の心配をよそに言い切った。
「辞退する必要はない」
あまりに簡潔に、きっぱりと言い切る姿に、頭がくらくらする。
その表情は、少し怖かった。
「そのコインを返してもらう必要もない。
もし、どうしても返したいと言うのなら・・・」
言いながら、彼が動いた。
獣のように、ひた、と私の目を正面から見据えて、にじり寄ってくる。
・・・近い・・・!
半ばパニックになりつつ、私は彼から離れようと後ずさるけれど、何かに引っかかった。
「・・・わっ?!」
そのままバタン、と後ろへ倒れる。
慌てて見れば、彼が服の裾を押さえつけていた。
その手の位置が、どう考えてもおかしい。偶然、と言えるような位置ではないのだ。
「・・・せ、セクハラです!」
とにかく彼に離れてもらおうと、必死に訴える。
「そんな単語は知らん」
けれど、壮絶な色気を纏った彼に、一蹴された。
逃げたい気持ちに反して、目が奪われてしまうのは何故なのか。
そして、いつの間にか両足の間に、彼の片足が入ってきていたのに気づいて、盛大に慌てる。
「やっ、ちょ・・・っ?!」
思うように言葉を紡げなくなった口を、ぱくぱくさせて息をするしかなかった。
そうこうしているうちに、彼の大きな手がわき腹を這い上がってきていた。
そして、顔色ひとつ変えずに、むしろ楽しそうに首筋に唇を寄せてくる。
ぞくぞくと、恐怖とも快感ともいえない感覚に襲われて、私は悲鳴に近い声を上げた。
「ごっごめんなさい!
本当はコイン、持っていたいです!」
ぴた
効果音が聞こえそうなほどに、ぱったりと彼の動きが止まって、安堵のあまりに私は深く息をついた。
助かったと思ったのは、人として間違っていないと思う。
すると、私が胸を撫で下ろしたのが伝わったのか、彼が私の耳元でちっ、と舌打ちした音が聞こえてきた。
些細な音なのに、「ひゃっ」と反応してしまって、慌てて口を押さえる。
我に返ると、目の前には満足げな彼の顔があって、ジト目で睨んでやれば、彼はさらに笑みを深くしたのだった。
「そのコインは、もう君のものだ。
必要なくなった時には外してやるが、俺の手に戻すことは、しなくていい」
私はもう、何も言わない方が無難な気がして、ただただ頷いた。
その様子を見届けて満足したのだろう、ゆっくりと彼の体が離れていき、私の手をとって起こしてくれる。
・・・こういう優しさはあるのに、たまに無茶なことをする人なのか。
呆れ半分で思っているけれど、やはり憎めないし、触れられても嫌な気持ちにはなれない。
そんな自分にこそ、ほとほと呆れてしまう。
「・・・これは、真面目な話だが・・・」
彼がさっきとは違う、真剣な目をする。
私は静かに、その続きを待った。
「子守の話は、好きにしたらいい。
断ったとしても、俺が君の後見をしているのには変わりはない。
いくらでも、好みの仕事を見つけてやれる」
「・・・」
優しさに溢れた台詞に、すぐに頷くことが出来ない私は、疑り深い自覚がある。
すると、彼は眉間にしわを寄せた。
私がなかなか頷かないのが、気に食わないのだろう。
「・・・やだ、そんな出来すぎた話、怖い・・・」
素直に感想を述べて身構えれば、彼はそんな私を鼻で笑った。
「あの、ありがとうございました」
彼に部屋まで送ってもらって、お礼を言う。
同じ建物なのに送っていくと聞かなかった彼は、満足そうに頷いていた。
ドアを開けて、私だけ中に入る。
私の部屋は土足厳禁にしたから、玄関の代わりに新聞紙を敷いていた。
時間を見つけてから、ちょうどいい布を買ってこようと思っていたら、彼から、必要な物を買出しに行くときは連れて行けと言われた。
・・・連れて行け、だなんて犬みたいだな。
「今日は、ゆっくり休め」
決して明るい声ではないけど、彼の声は柔らかい。
王宮での評価は散々なものらしいけれど、他人の評価など当てにならないものだな。
そんなことを思っていた私は、彼の言葉に頷く。
ほんの少しの時間だったけれど、彼が側にいてくれたおかげで、私は自然と笑えるようになっていた。
「はい、ありがとうございました」
「あぁ」
そう言って、彼は身をかがめた。
何をしているのだろう、と思っていたら、額に少し熱くて柔らかい感触が。
そして、彼が目を細めながら私の前髪をゆっくり直すのを見ていて、やっと、額に口付けられたのだと知った。
言葉を紡ぐまでの刹那の間、何かを言いたそうな深い緑の瞳が私を捉える。
「・・・おやすみ」
そして、彼は何事もなかったかのように、立ち去った。
「お、やすみなさ・・・・」
半ば呆然と、その背中に向かって返す。
額を押さえれば、じわ、と熱が伝わった。
その夜は部屋に入って眠るまでに2回、足の小指をぶつけたのは内緒にしておこう。




