14
美味しい食事を堪能して元気が溢れてきた私は、ジェイドさんに感謝しつつ食後のお茶を啜っていた。
ちなみに食後のお茶は、私がご馳走したものだ。
食堂は1階にあって、窓際の席からは王宮の中庭がよく見渡せる。
入ってきた時には気づかなかったけれど、王宮もコの字型の建物なんだろう。中庭の向こうに、石の壁が見えていて、人が行きかう様子が所々に開いている窓越しに見えている。
私達の座った席は窓際ではなかったけれど、ここからでも木々や花が風に揺れる様子が見える。次に利用する時には窓際に座って、庭を見ながら食事をするのも良さそうだ。
そういえば向こうの世界では、休みの日に1人でカフェに行って本を読んだり、仕事をしたりもしていたっけ・・・。
今は、目の前に見た目の麗しい男性が座っているから、それで十分だけれど。
「どうしました・・・?」
そんなことを思いつつ、お茶を啜るジェイドさんを見ていたら、彼がふいに顔を上げた。
今日知り合ったばかりなのだけれど、私なりに観察していて、彼は常に人の動きを感じながら行動しているようだと知った。
・・・補佐官という職業病なのか。
「いいえ、なんでもないです。
・・・ごちそうさまでした。本当にありがとうございました。
このご恩は、初任給が入ったらしっかりお返ししますね」
「ええ、楽しみにしていますよ」
そんなふうに、お昼の穏やかな時間を過ごしていた時だった。
入り口の方が、ざわめいた。
最初は、誰かが食器でも割ったのかと思ったけれど、どうやらそうではないらしい。
女性が小声で何かを話す声が、耳に入ってくる。
ジェイドさんがざわめきの中心を探そうと視線を投げて、苦笑いをしたのが目に入った。
「・・・何かありました?」
表情から察して聞いてみるけれど、彼は軽く手を振る。
「いえ、大したことではないですよ」
そうは言っても気になるので、私は視線を這わせた。
周りの人達の視線を辿っていくと、そこには金髪の背の高い女性がいるのに気づく。
彼女が、一体どうしたんだろう。
そんな疑問を胸に彼を一瞥すると、諦めに似た表情を浮かべて肩を竦めた。
「・・・たまには陛下を真似して、のんびり昼寝でもしたかったんですけどねぇ」
ますます意味が分からず首を捻る私に、彼がいくらか早口になって告げる。
「もうすぐあなたを探しに、蒼鬼殿が来ます」
「え・・・?」
思わぬ人の名前が出て、私は半ば反射的に声を零していた。
彼はもはや、私の反応などには構っていられないようだ。
「彼に、王宮施設の案内を頼んでおきました。
あぁ、そうでした。
・・・夕方から、朝議が中止になった埋め合わせをしてもらうので、それまでは休憩を
取るようにと、伝えておいてもらえますか?」
「え、あ、はい」
唐突にこれからの話をされて、私もその雰囲気に飲まれて慌てて頷いてみる。
・・・ということは、夕方までは団長と一緒にいろ、ということか。
「あなたは、夕方になったらレイラさんの部屋に行ってくださいね。
皇子も元気いっぱいの時間帯でしょうし、顔合わせをしましょう。
レイラさんの調子次第では、また変更になるかも知れませんが・・・」
「はい、それで大丈夫です」
そこまで話して、彼はひとつ頷く。
「蒼鬼殿なら、王宮内のどこにでも出入りできます。
どこでも、連れて行ってもらって結構ですからね。
まだ1人で歩かせるのも心配ですし、夕方になったらレイラさんの部屋に送ってもらって」
最後の方は、腰を浮かせて立ち上がりかけたまま、話をしていた。
よほど急いでいるのだろう。立ったまま残りのお茶を飲み干して、「ではまた後で、レイラさんの部屋で会いましょうね」とカップを持って去っていった。
「お仕事、無理しないで下さいね」と背中に向かって声をかけたら、彼は振り返って、優しく目を細めて片手を上げてくれた。
目の前の彼がいなくなってから、私は段々と少なくなっていく周りの人達のことを眺めて過ごしていた。
紺色の侍女服の女性達は、10代の子達もいれば、もう少し年上の人達も見かける。その中でも、ものすごく無機質な雰囲気の侍女さん達と、女子高生のような雰囲気の侍女さん達がいるようだ。
何が違うんだろうかと思っていたら、手首に巻いているコインの色が違っているのに気づく。
そして、なんとなく周囲を観察していると、ふいに隣のテーブルで交わされる会話が耳に入ってきた。
「えー・・・それ本当ですか?」
「あぁ。西の国境に近い所にイルベって街があるだろ?
あそこを襲った夜盗に、情報を流した奴がいたらしいよ」
「よくそんなこと出来ましたね。蒼鬼が気づかないワケないのに」
蒼鬼、という単語が出てきて、私は全神経を会話に集中させる。
顔を見たいけれど、胸元のコインを見られたら私が何者なのか知られてしまう・・・葛藤しながらも、私は遠くを見ている振りをして、頬杖をついて聞き耳を立てた。
どうやらこの2人組、騎士団の連中らしい。
「・・・な。
まぁバレて現行犯ってことで、今は陛下の処断待ちらしいけど」
「蒼の人たちって、そういうことに敏感ですよね」
「そりゃあ、あれだよ・・・。
・・・ほら、5年前の事件があったから・・・」
「あー、あれですか・・・。
自分はまだ入団したばっかりの頃で、よく分からないんですけど・・・」
「前の団長が夜盗と手を組んで甘い蜜吸ってたのを知って、今の団長が斬り捨てたんだ。
指示したのは、陛下だって話だけどな・・・」
「なんか、出来た話ですねぇ」
「やっぱそう思う?
俺もさ、前の団長、すっごい人望厚かったし、正直信じられないんだよな。
俺その頃、2階の警備担当だったけど、廊下で会うたびに挨拶してくれて」
「えーっ」
「しかも、今の団長はその頃まだ1等騎士になったばっかりだったらしいし・・・」
「あれ、今の団長って確か・・・陛下の従兄弟・・・」
「そうそう、だから余計に出来すぎっていうかさー」
「でも誰もそんな話できないですもんねー」
「だよなぁ、」
・・・なんだ今の話は。
盗み聞きしておいて怒りをぶちまける、というのもおかしいとは思うけど・・・それにしても、どの騎士団の連中かは分からないけれど、騎士団の中でそんなことが囁かれているなんて・・・。
怒りに任せて、今すぐ振り返って顔を覚えたいけれど、そんなことをしたら私の顔も覚えられてしまうと分かっている。
・・・本当はとっても面倒見が良くて、優しい人なのに・・・。
私はその当時のことを何一つ知らないけれど、少なくとも噂をするしかない人達よりは、彼のことを知っていると思うのだ。
普通の感覚を持つ人間なら大概、自分の知らないところで好き勝手に話をされているなんて、きっと、嫌な気持ちになるだろう。
そう思いを馳せると、なんだか物悲しくなってきてしまった。
・・・もしかしたら、有名税みたいなものなのかな。
・・・あれ?・・・今、団長は陛下の従兄弟だと、言っていなかったか。
従兄弟、従兄弟従兄弟・・・ということは、親同士が兄弟姉妹ということで・・・。
そこまで考えて、額を押さえてため息をついた。
そうか、陛下の従兄弟が後見なら、誰にも文句を付けられずに子守の仕事も決まるだろうな。
ああでも、彼も良かれと思って後見になってくれたのだろうから、彼が陛下の従兄弟であることについては、何も訊かずにおこう。
・・・ともあれ、ここで頑張ると自分で決めたのだから・・・。
してやられた感が拭えないまま、私はもう一度、そっと息を吐いた。
そんなことをしているうちに、もう隣の2人組の会話なんて耳に入らなくなって、気がついたら彼らはいなくなっていた。
彼らだけではない。食堂には、もうちらほらとしか人がいなくなっているのに気づいた。
かなり時間が経ったはずなのに、一向に現れない団長が心配になってくる。
・・・もしかして、急用でも入ったのかな。
カウンターの中の人たちは、もう片付けを始めてしまっているし、もしかしたら食堂も営業が終わる時間なのかも知れない。
・・・手元にあるカップも、戻さないと片付かないし・・・。
いろいろ考えた末、とりあえずカップを戻して、食堂が閉まってしまうのかどうか聞いてみることにして立ち上がる。
すると、いつの間にいたのか、背後から声がかかった。
「どこへ行くんだ」
しばらくぶりに耳にするバリトンの声に、ため息をひとつ吐いてから振り返る。
団長が私を見下ろしていた。
顔に「不思議」って書いてありますね、団長。
「そういう時は、遅くなってごめん、くらい言ってください・・・」
腰に手を当てて、格好を崩してため息混じりに言うと、何日かぶりに会う彼は、相変わらず眉間にしわを寄せてしまった。
「・・・遅くなってしまった。すまない」
「素直ですね・・・」
「君が言ったんだろう」
「そうですけど・・・」
手に持ったままのカップを弄ぶ。
なんとなく目を合わせづらくて、俯いた。
「どうした・・・?」
いつかと同じ優しい声に思わず視線を上げると、深い緑の瞳が瞬きもせず、こちらを見ている。
すると今度は、現金にも無意識に口元が綻ぶのを自覚しつつ、答えた。
「・・・なんでもないです。
お仕事、お疲れさまです。
怪我の具合は、もう大丈夫ですか・・・?」
「あぁ、問題ない。
・・・ここじゃゆっくり話せないな」
団長が周りを見渡して言う。
私もつられて見渡すと、食堂にいる人達のほとんどが驚いた顔でこちらを見ていた。
「・・・俺と普通に接している女性が、珍しいんだろう」
肩を竦めてそう言った彼が、歩き出す。
「外で待ってる。
手に持ってる物を返して来い」
「・・・はい」
一言答えて、私は手に持ったままだったカップを戻して、食堂を出た。
壁に寄りかかって腕を組んでいる団長の姿を見つけて、駆け寄る。
「お待たせしました」
「あぁ」
騎士団の制服は、オリーブ色の詰襟らしい。
帯刀しているので、なんだか今までより雰囲気が殺伐としている気がする。
孤児院を去る日にも目にしたけれど、背景が草原から王宮に変わるだけで、これほどにも雰囲気が変わるものかと思ってしまった。
「ジェイドから、どこでも好きな所を案内してやってくれ、と頼まれているが・・・。
どこか見たい場所でもあるか?」
「うーん・・・特に・・・」
小首を傾げた私に、団長がふと気づいた、という風に言う。
「そういえば、荷物はどうした?
今日から寮に入るんだろう?」
「あぁ、それなら送りました。
院長が、重いだろうからって、運送会社に頼んでくれまして・・・」
おかげで、最小限の荷物だけで身軽に移動出来たのだ。
生活用品を一式1人で運ぶなんて、スーツケースもない世界では考えられない。
私の言葉に頷いて、彼は少し間をあけてから言った。
「そうか、なら・・・寮の部屋に運ばれているかも知れないな」
その日の同じ列車で運んでいると思うから、きっとそろそろ届く頃だろう。
頷いた私を見て、団長は腕を組んだまま口を開く。
「先に寮を見に行ってみるか・・・?
ジェイドには、どこに行ってもいいと言われたんだろ?」
「はい!
空き時間で荷物整理が出来たら、後がとってもラクになります」
「そうか。
なら、一緒に片付けるか」
ありがたい提案に勢いよく頷いた私は、団長の歩き出した方へついて行く。
すると歩き出して、すれ違う人達がサッと道を空けていることに気づいた。
確かに、立場的に騎士団団長よりも上をいく人間など数に限りがあるのだろう、とは想像がつくのだけれど・・・隣を歩く私のことまで、奇異の目で見ている人もいる・・・。
もしや私が、王宮にそぐわない身なりでもしているのかと思って不安になった。
「団長、」
歩きながら小声で問いかける。
しかし聞こえなかったのか、彼は前を向いたままだ。
「団長?」
気づいてもらいたくて、制服の裾をつまんで引っ張るけれど、彼は一瞥をくれただけ。
一瞬だけ目が合ったかと思えば、すぐに視線を前に戻してしまった。
・・・無視された・・・?
若干の緊張感を抱きながら横顔を見上げると、少しだけ強張っているような気がする。
心なしか、まなじりも上がっているような・・・。
「あの、団長っ」
もう一度裾を引っ張ってみるけれど、同じだった。
これはやはり、無視されている。
確信した私は、彼の広い歩幅に小走りになりながら考えて、やがて思い至った。
・・・あぁ、呼び方がまずかったのか・・・。
正直、年上の男の人を呼び捨てにするなんて、あまり得意ではないのだけれど・・・。
「・・・シュウ、」
ぴた、と彼が急に立ち止まる。
恥ずかしさもあって練習のつもりで、小声になって呼びかけた私は、まさか聞こえているとは思っていなかった。
「・・・っと・・・」
小走りになっていたから、急に立ち止まった彼よりも、何歩か先に進んでしまったではないか。
慌てて振り返ってみると、そこには大きく目を見開いた団長の姿。
「・・・どうしました?」
機嫌直りました?のつもりで問いかければ、
「いや、」
どうも歯切れの悪い言葉が返ってくる。
それでも、目つきが優しくなっていたから、とりあえずこれ以上小走りでついて行くこともないだろう、と内心で息をついた。
「すまない、速く歩きすぎたな・・・」
そう言って何かから立ち直ったような彼は、私の背に手を添えて歩き出した。
温かなものが背に当たっているのを感じて、なんだかむず痒さを覚えてしまう。
戸惑っている私を、その大きな手がそっと前へと押し出して、私の足が勝手に進んでいく。
・・・そういえばジェイドさんも、こんなふうにして歩いていたけれど、この世界の大人の男性達はこういうものなの・・・?
そう思うものの口にするべきだとは思えない私は、されるがまま歩くしかなかった。
すると、その場に居合わせた人達が、驚愕の表情で固まっていたのに気づく。
「どうして皆、びっくりしてるんです・・・?」
さっきよりも彼との距離が近い。
茶色い髪が目にかかりそうなのを払いたい衝動を抑えつつ、私は問いかけた。
すると、答えがすぐに、短く的確に返ってくる。
「蒼鬼と普通に話しているからだろうな。
・・・俺と対等に話そうという連中は、王宮にはあまりいない」
どうでもいい、他の連中に興味はない、と言外に匂わせる言い方に、私は言葉を失った。
食堂で聞いた、少なくとも善意があるとは思えない連中の言葉がフラッシュバックする。
・・・王宮は、彼に優しくないのだろう。
「・・・それって、シュウが陛下の従兄弟だからですか・・・?」
彼が口を噤み、一瞬背中に回された手に力が入る。
「・・・聞いたのか」
ため息と一緒に、肯定ともとれる言葉を吐く。
「ええと、食堂でたまたま耳にして・・・」
「・・・悪かった。隠しているつもりは・・・」
「分かってます、ひけらかすような人じゃないって・・・」
確かに驚いたけれど、決して憤っているわけじゃない。
「ごめんなさい、悪いことをしたわけじゃないのに謝らせたりして・・・。
そういうつもりじゃ、ないんです・・・」
背中に当てられる熱を感じながらそっと言葉を紡ぐと、見上げた先、深い緑の瞳が少しだけ見開かれたのが見えた。
そして、そんな彼の表情を見ていたら、ふと、孤児院で交わした言葉や、コインを首に結んでくれた時のことが思い出された。
・・・なんだか、胸の奥がじんわりする。
突き詰めていったら、その正体が分かるような気もしたけれど、知りたいと思う気持ちもあったけれど・・・。
私はそんな思いを振り切るように声を弾ませて、彼のことを見上げる。
「荷物、重いものもあるので、よろしくお願いしますね」
そんな私の言葉に、彼はほっとしたような顔をして頷いてくれた。
寮・・・とは言っても、3階建てのアパートのような雰囲気の建物だ。王宮と同じで、外装は石造りになっていて、部屋の中は絨毯が敷いてある。
外壁には蔦が伸びて、なんだか外国の古い建物のようで、恥ずかしながら、少し古くなった乙女心が高鳴ってしまった。
管理人さんが入り口に居て、王宮関係で働く人が緊急の場合にすぐ駆けつけられるように、用意したらしい。
ちなみに、団長も同じ建物の3階に部屋があるらしい。
1階より2階、2階より3階の方が部屋が広くて、仕事の地位も上だという。
私は2階の部屋だそうだ。皇子様の子守なのだから、本来ならば3階に、とのことだけれど、今は3階が満室になっているために、順番待ちなのだそうだ。
・・・個人的には、2階の部屋で十分だ。団長と同じフロアになるというのも、顔を合わせる機会が多くなりそうで、それもどうかと思う。
ひと通り部屋の中を見て回ると、1人で過ごすには十分な大きさのキッチンとバス、トイレも付いているし、生活しやすそうだった。
ちなみに、荷物は団長の予想通り部屋に届いていた。
管理人さんが、親切に荷物を入れておいてくれたらしい。
てっきり寮母さんがいるようなところだと思っていたから、シーツや毛布を用意するのを忘れていた私は、事情を知った団長が自分の部屋で余っているものを貸してくれるというので、ありがたくお借りすることになった。
彼が部屋に戻っている間に、窓を開けて風を入れながら、荷を解いていく。
それほど多くはない服をクローゼットにしまってからバスルームを片付けていたら、ノックの音がして「どうぞ」と返事をする。
すると、ドサっ、と大きな音がした。
寝室に顔を出せば、彼が寝具を一式をベッドに置いてくれた音だったのだと分かる。
「ありがとうございます」
「ああ。これで足りなかったら言うといい」
「はい」
ひとつ返事をして、もう一度バスルームに戻る。
院長から小さなボトルに入ったシャンプーや、洗濯用の洗剤を持たされていたので、それを一通り備え付けの棚に並べていった。
・・・これで、当面は生活は心配なさそうだ。
少しずつ生活感の漂い始めたバスルームを眺めて、ひとまず終了だ、と息をつく。
「・・・何か手伝うことはあるか?」
並べるのに熱中していたのか、いつのまにか団長が背後に立っていたことに気づかなかった。
内心驚いた私は、一瞬息を詰めてから首を振る。
「・・・ううん、もうこれで一通り終わりました。
おかげさまで、新しい生活を始められそうです」
「そうか」
微笑んで言えば、彼も頬を緩めて答えてくれる。
どういうわけか、私はこの人と話すと和んでしまうらしい。
・・・ジェイドさんも、十分に和み要素があるとは思うのだけれど。
「そういえば・・・」
ふと、団長が声を落とした。
少しの間意識を別のところへ向けていた私は、なんとなく違和感を覚えて眉根を寄せた。
「何です・・・?」
・・・何か足りないものでもあったかな。
そう思って考えを巡らせるけれど、何も思いつかない。
ならば、一体何を言うつもりで、彼は眉間にしわを寄せたのだろう。
「・・・ミナ」
急にバスルームに低い声が響いた。
初めて耳にする、彼の怒っているらしい声だった。
無表情でこちらを見つめる団長に、思わず身体が強張る。
「・・・はい・・・っ」
きちんと返事をしたつもりなのに、思うように声が出せなかった。
意識してしまうと、彼があまりに近くにいて呼吸すら思うように出来ないのだ。
すると、彼はそんな私に向かって不敵な笑みを浮かべつつ、すっと手を伸ばす。
その手で何をされるのか、ただ待つしかなかった私に、彼が静かに言う。
「気になってはいたが・・・これはどうしたんだ・・・?」
緊張で張り詰めているはずの私の肌は、彼の熱い指先が触れたのをしっかり感じ取って、わずかに震える。
彼が手を伸ばして、私の胸元に光るコインに触れたのだ。
いや、コインではない。彼が指しているのは、もしかして、黒い石のことなのか。
思い至った私が答えあぐねていると、急に強い力で腰を抱かれて引き寄せられた。
蒼鬼と恐れられるほどの彼の腕の力に、私なんかが敵うわけがない。
あっと息を飲んだ瞬間に、ただでさえ近いと思っていた距離をさらに詰められて、私は頭がどうにかなりそうだった。
「ちょっ・・・」
「・・・これは?」
だんまりは認めないらしい。
とりあえず近すぎる、と腕をつっぱって、彼の胸を押したけれど、彼は顔色ひとつ変えなかった。
拒絶すらさせてもらえないなど、暴挙にもほどがある。こんなに近づいて問い詰める必要、あるんだろうか。
彼は分かっていないのだ。イケメン耐性のない私には、会話能力が著しく低下してしまうこの方法は得策ではないということを。
私がそんなことを考えている間にも、彼は抱き寄せている腕の力を緩めることもなく、ただ私の言葉を待っている。
深い緑の瞳が、早く言え、と催促していた。
「・・・リュケル先生・・・孤児院のお医者様、覚えてますよね?
今朝、同じ列車で王都に来たんです。
その時に、だんちょ・・・シュウのコインだけじゃ心配だと言って、この石を・・・」
大筋で間違ってはいないはずだ。
聞きたくなかったカミングアウトもあったけれど、そのあたりは割愛しよう。
私もすっかり忘れていたくらいだし、この人に言う必要はない。
催促された通り、質問に正直に答えたというのに、黒い石を触っていた彼はどういうわけか、更に不敵な笑みを浮かべた。
「・・・そうか。奴が、な」
完全に勇者を迎え撃つ魔王様の微笑みだ・・・などと思いつつも、沈黙を保つ。
そんなくだらないことでも考えていないと、この距離の近さに頭の中が沸騰してしまいそうで。
そうやって必死に気を逸らしていると、小さく、金属のぶつかる音が耳に響いた。
私はすぐに、彼が黒い石を紐から外したのだと気づく。
「・・・え?」
まさか外すなんて思ってもいなかった私は、間の抜けた声が出てしまった。
思わず彼の顔を仰ぎ見てしまうと、その深い緑色の瞳が、静かに怒っているのに気づく。
・・・しまった。
何に怒っているのかは分からないけれど、私は何かまずいことをしたらしい。
「この石が、必要か?」
低い声で、獣が唸るように尋ねられた。
「いえ、必要は全くないんですけど・・・」
それに対して私が言いよどむと、彼が「けど」の部分を聞いた瞬間に眉を跳ね上げる。
「・・・あの、リュケル先生が思いのほか粘着質で・・・」
咄嗟に、私が欲しくてもらった物ではない、ということを伝えると、彼はいくらか表情を和らげて手の中の黒い石を制服のポケットにしまった。
怒りのオーラが収まった様子に、私は内心で大きく息をつく。
確かに、この人の後見を得ていれば、王宮内で誰かに悪意を向けられる心配は、あまりしなくても大丈夫だろう。
誰も、彼を怒らせたいなどと思わないのではないかと思える。
「・・・心配するな。
奴には俺から伝えておく」
・・・一体何を伝えるつもりですか・・・。
知りたいような、知りたくないような気持ちでその言葉に頷くと、彼は私を満足げに眺めて、やっと腕の力を抜いてくれる。
ただ、未だに抱き寄せられたままなのが気になるけれど、離してはくれないのか。
「・・・あの・・・?」
強引にされれば殴ってでも拒絶したくなるのに、どうして優しくされると強く出ようと思えなくなるのだろう。
ただでさえ、彼は私の身元を保証してくれる後見人なのだ。
まさか、何かを要求されることなどありはしないと思うけれど、ここで心象を悪くするのも自分が得をするとも思えない。
一瞬のうちにいろいろと考えていると、緑の瞳が柔らかく細められた。
・・・怒りの次は、一体何・・・?
探ろうとして、見つめてしまった。
「まだ、何か・・・?」
「いや、何も・・・?」
・・・何の言葉遊びなのか。
そう思いながらもしばらく見つめ合うと、やがて彼の手が離れていった。
やめて欲しいと思うのに、体温が離れたら心なしか物足りなくも感じる自分がいる。
・・・バスルームは、少し冷えるらしい。
そして、そうこうしてるうちに、いつの間にか日が傾いてきた。
約束では、レイラさんの部屋で顔合わせがあるはずだ。
「・・・そろそろ行きましょうか」
窓から見える街を眺めて、団長に説明してもらっていた私は、そっと切り出した。
近すぎず、離れもせずのちょうどいい距離を保っていた彼が頷いて、窓を閉める。
そして、思い出して私は2つ受け取った部屋の鍵の1つを、団長に渡そうと突き出した。
彼が、眉間にしわを寄せる。
きっと説明を求めているのだろう、と察した私は、口を開いた。
「合鍵です」
「・・・いや、それは見れば分かるが・・・」
初めて見る彼の戸惑った姿に、バスルームでの仕返しをしているような気分になって、私は思わず頬を緩めてしまう。
「・・・勘繰らないで下さいね」
「・・・」
・・・図星だったのか。
確かに、合鍵から連想することなんて、あまり多くはないだろうけれど・・・。
沈黙した彼に、どこか冷めた視線を送りたくなるのを堪えて、私はもう一度口を開いた。
「私、王都に知り合いがいないんです。
他に、困った時に助けてくれそうで、合鍵を頼めそうなのって・・・」
言いながら視線を彷徨わせて考える。
思い出したのは、金髪碧眼の彼くらいだった。
「・・・ジェイドさんくらいですかねぇ。
レイラさんは、王宮から出られないし・・・陛下なんて絶対に無理だし・・・。
ああでも、管理人さんでもいい、」
半ば自分への呟きになった言葉の途中で、彼が私の手ごと合鍵を握りこむ。
文字通り、ぱしっ、とだ。
本人は意識していないだろうけれど、咄嗟に出た手というのは、思っているよりも力がこもっているものだと知っておいてもらえないだろうか。
「あの、痛い・・・」
「俺が預かる」
「ありがとうございます、痛いです・・・」
当初の思い通りに預かってもらえるのだから、頷くに決まっているというのに、彼は手に力を込めたまま私の目を見据えた。
「今日会ったばかりの奴に預けていいわけがないだろう」
「分かってます、離して、痛いです」
「・・・リュケルの石といい、君は危なっかしいな・・・」
「すみません、ほんとに痛いんです・・・!」
このやり取りの後、解放された時には手のひらに鍵の痕がしっかり残っていた。
ああいう時は、もう少し強く出るべきなのか。




