彼の隣に戻ったら
ここまでお読み下さいまして、ありがとうございます!作者のマリーです。
実は、このお話「彼の隣に戻ったら」は、続編「春を運ぶこかげの花」の第73話あたりのお話です。多分にネタバレ要素が含まれていますので、よろしければ続編をお読みになってからの閲覧をお願いします。
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少々長めのお話ですので、面倒だとは思いますが・・・(苦笑)
続編、いかがでしたでしょうか。楽しんでいただけていましたら、幸いです。
それでは、続きをどうぞ。
あれからずっと、夢の中で会える彼が私の支えだった。
ふと気がつくと、静かな、深い緑色をした双眸が私を見下ろしているのだ。私は懐かしくて、どうしようもない気持ちを抱えて対峙する。
腕の硬さや首筋の匂い、胸の温かさが切ないくらいに本物のような現実味をおびていて、一瞬私はあの世界に戻ることが出来たのだと錯覚してしまう。
だから、目が覚めた瞬間は残酷だ。彼を失ったのだと理解するたびに胸の奥が軋む。朝が来るたびに体が粉々に、自分のものではなくなったような感覚に陥る。
私の記憶にこびり付いている彼の、残像を見ただけなのだと思い知るのだ。
それでも顔を洗って、結い上げた髪には青いコインの髪留めをつけて、ぐっすり眠れた振りをして朝食の席につく。どうしたらいいのか、何をすればいいのか分からない私に出来る、ただ一つのことだった。
もといた世界に戻った私には、大事な、守るべきものが出来ていた。
名前を呼ばれた気がするのは、いつものこと。
耳に心地良く響く低い声が聞こえた気がして、つい動作を止めてしまう私に、家族は「幻聴が聞こえるようになった」と慌てていた。
別の世界で暮らしていた、と告白してしばらくは、まともにとりあって貰えずにいた。けれど、あまりに私が真剣に話をするからなのか、彼らはある日、私の話を信じると言ってくれたのだ。嬉しかったけれど、それが寂しさを埋めてくれることはなかった。
あんなに会いたかった家族なのに、勝手に結婚して申し訳なくて、胸が締め付けられるような思いでいたというのに、私は寂しいままだった。
もちろんそんなことは、おくびにも出せないけれど・・・。
そしてまた今日も、名前を呼ばれた気がして、彼を探す。
眩しさに目が眩んで、彼の顔がよく見えない。そこに居るのは分かるのに、顔の輪郭がぼやけていて、もどかしい。
「・・・ミナ」
また、呼ばれた。
「しゅぅ・・・?」
ろれつが上手く回らない。手探りで触れようと伸ばした手が絡め取られて、じんわり温かい。
「分かるか」
「ん・・・」
せっかく会えたのだから、もっと触れて欲しい。言葉なんか要らない。何かを言われたことは覚えているというのに、思い出そうとした途端に記憶の彼方に消えてしまうから。だからそれまでは、温もりをたくさん分けて欲しい。
どうせ目が覚めたら、冷たい現実が待っているのだ。そして、守るべきもののために精一杯生きなくてはならない。それは私に与えられた喜びであるけれど、同時に責任でもある。頑張らなくてはいけないのだと、自分を叱咤する必要だって、ある。
「あのね・・・」
だから、今だけ。毎晩の夢の中で弱音を吐くことくらいは、許して欲しい。
「私、がんばってるよ」
「え・・・?」
戸惑ったような、呆気に取られたような声が聞こえるけれど、私はぼやけた視界の中に彼の茶色い髪を捉えて微笑む。
「でもやっぱり、会いたいな・・・」
「会ってるだろ」
「・・・違う、本当に、」
「ミナ」
私に優しい、都合の良い夢のはずなのに、彼は私の言葉を遮った。
両手が私の頬をやんわり挟み込む。焦点が合わないけれど、きっと彼は、眉間にしわを寄せて私の目を覗き込んでいるのだろう。
「お前は、戻って来たんだ」
そのひと言に、私の中の何かが弾けた。言葉よりも先に、涙が溢れてくる。
「・・・うそ、つかないで。
どうせ、目が覚めたらいないんでしょ?
分かってるの。もう、会えないんだよ。
期待させないで。
一生懸命我慢してるの、頑張ってるの。
・・・会いたいよ・・・でも、会えないんだもん・・・」
歪んだ唇から零れた言葉も、顔もぐちゃぐちゃだ。
両手で顔を覆ったまま、震える喉で言葉を絞り出した私の額に、大きな手が当てられる。
触れ合った部分から熱が伝わってくることが、胸を締め付けた。今感じている温もりが、目が覚めた瞬間に霧散してしまうことを、私は知っているのだ。
涙が後から後から湧いてきて、喉がひくつく。顔を覆っていると呼吸が苦しくなって、私はそっと手をどけた。
「混乱してるな」
苦笑しているらしい彼の言葉に、私は少しむっとしてしまう。
「シュウは、会いたくないの?」
「決まってるだろ・・・」
唸るように低く呟いて、彼が私の額から手を離した。温もりが離れていく感覚に、どうしようもなく寂しい気持ちになった私は、慌ててその手を追いかけていた。捕まえて、指を絡める。
すると、彼は一瞬息を詰めてから、私の手に口付けを落として呟いた。
「会いたかった。
どうにかなってしまうんじゃないかと、思うくらいに・・・」
「そ、っか・・・」
胸が震えるのを隠して、私は囁く。自分に都合の良い夢なのだとしても、彼の気持ちが嬉しくて仕方ないのだ。その声が耳の奥に残ってくれるように、ただ、祈るしかないのが悲しいけれど。
「・・・なんだ、反応が薄いな」
不満そうに呟く彼に、私は喉の奥で笑う。
ずいぶんと自由度の高い夢だ。これなら目が覚めても、しばらくは記憶に留まってくれるかも知れない。
「ありがと・・・。
まだ、頑張れるかな」
ほんのり灯った何かを握り締めた私は、そっと囁くように言葉を並べた。
視界の真ん中にいる彼の輪郭が、だんだんとくっきり見えるようになってきた。絡めた指が、きゅっと握り締められて、ぼんやりしていた私は我に返る。
「もう頑張る必要はない。
お前は帰って来たんだ。もう、どこにも行かせない」
「まだそんなこと言うの・・・?
もう、怒るよ?」
聞きたくないことを聞かされた私は、声に苛立ちを含ませてぶつけた。最悪だ。このまま目が覚めたら、喧嘩別れのようで悔やんでも悔やみきれない。
そう思うのに、どうしても微笑んで彼の言葉を受け流すことが出来なかった。分かっている。もう、頑張り続けて張り詰めたものが、決壊する寸前なのだ。弱音を吐くことが出来るのが、夢の中だけだったから。
「・・・わかった。
仕方ないな・・・荒療治するしかないか」
そう言って、彼が顔を近づけた。突然目の前に迫ってきた肌色に、驚いて息を飲む。こんなに感情に溢れた彼を見るのは、いつ以来だろうか。
「あらりょうじ・・・?」
呟きながら視線を右へ左へと動かした私は、まだ少しぼやける視界の中、深い緑と黒が並んでいることに気がついた。
何だろう、と咄嗟に手を伸ばそうとすると、彼が低く笑ってその手を取る。
「それはちょっと、痛そうだな」
「痛い?
何が・・・?」
眉をひそめた私に、彼がそっと告げる。
「お前が触れようとしたのは、俺の目だ。
まあ、もうあまり役に立ちそうにないが・・・」
その言葉を聞いた瞬間、私は全身が総毛立つのを感じて勢いよく体を起こした。
「っ、と・・・」
抱きとめられた肩から上が、ぐらりと揺れる。あまりに揺れるから目を強く閉じてやり過ごそうとするけれど、揺れたのは視界だけではなかった。胃の中の物も一緒に揺れて吐き気がする。
彼は言った。現実だと。
「急に動いたら、体に障るだろ・・・全く、ちっとも変わらないな」
こわごわと腕を回す。すると、小言を囁く彼の鼓動がその背中から私の手のひらを伝わって、穏やかに波打つのが分かって、息を飲んだ。
夢の中で、私は呼吸をしていただろうか。
夢の中で、彼の鼓動を聴いたことがあっただろうか・・・。
ため息を吐く気配を感じ取った私は、こわごわ回していた腕に力を入れる。ぎゅっと、背中にしがみついて初めて、自分がそれまで横になっていたことに気がついた。
溜めていた息をゆるゆると吐き出す私の背中を、抱きとめてくれていた腕が飲み込んでいく。夢の中での触れ合いで馴染んだのとは違う、もっと強くて大きな腕だ。
「ほんもの・・・?」
ほのかに灯った希望に勇気をもらって、言葉を紡ぐ。目を開ければ、彼の背の向こうに白い壁とハンガーにかかった彼の上着が見えた。見覚えのある上着だった。
軋みに軋んで壊れそうだった私の胸は、あっという間に修復されたらしい。ざわざわと、その声が聞こえるのを期待して落ち着かない。鼓動が乱れそうになるのを宥めるのも忘れて、私は彼の言葉を待った。
「ああ」
「帰って、きたの・・・?」
短い肯定が呆気なくて、そっと問いかける。
「・・・ああ」
もっと、しっかりした言葉が欲しいのに。
納得して実感出来る何かが欲しい。物足りなさと、もやもやする気持ちを抱えた私は途方に暮れた。どう表現したら伝わるのだろう。言葉が上手く出てこない。
考えが纏まらないまま視線を彷徨わせていると、彼の手が私の頭を撫でた。いつも通りに、生まれ育った世界でも違和感がない程度に結い上げた髪を、彼が手探りで解こうとしているのが分かる。
「白状すると、」
ばさりと解けた髪に鼻先をうずめているのか、聞こえてくる声が少しくぐもっている。聞き取りづらくなった声に、私は耳を澄ませた。
とくん、と背中に当てた私の手を伝って、彼の心臓の音が響いてくる。
「実は俺もまだ、実感がないんだ」
言葉よりも、その声色や吐息に切なさがこみ上げて胸が締め付けられた。彼は強い人だけれど、決してそれだけではないことを、私は知っているから。
「もう少しだけ強く抱きしめても、大丈夫か・・・?」
遠慮がちに尋ねられて、私は小さく頷く。すると、本当に少しだけ腕に力が込められたのが分かって、思わず噴出してしまった。
「・・・なんだ」
返ってきたのは、若干むっとしたような声色だ。それがまた可笑しくて。
「もっと強くても大丈夫なのに」
いろいろなことに気を取られているうちに、私はすっかり目の前の彼の存在を受け入れていた。そして、自分が渡り人として再びこの世界に落ちてきたことも。
強くしても大丈夫だと告げた私に、彼はどういうわけか戸惑っているようだった。それが不思議で、私は内心で小首を傾げる。
「どれくらいの力加減がいいのか、よく分からないんだ。
・・・バードさんにも、アッシュにも聞いたが、教えてもらえなかった」
「バードさん?・・・と、陛下?」
久しぶりに耳にする名前に、ますます頭の中に疑問符が増える。彼は一体、私に何の話をしているのだろうか。
「ああ、彼らには子どもがいるだろ。
経験者に聞けば分かるかと思ったんだが、失笑を買って終わってしまった」
さらりと言い放たれた言葉に、耳を疑った。
「あの、シュウ?」
「ん?」
窺うように尋ねる私に、彼は何でもないかのように返事をする。
「もしかして、知ってるの・・・?」
何を、と問わなかったのは、私が意気地なしだからだ。彼の反応が分からないまま、あちらの世界で、大事なものを守って生きていくことを選んでいたから。
向かい合って、視線を合わせていなくて良かった。真っ直ぐに彼の目を見て、言葉を待つ勇気は持てそうにないのだ。
彼が口を開く気配に、体が強張るのが分かる。そんな私を察したのか、彼はそっと、私の背を撫でながら言葉を紡ぎ始めた。
「ああ・・・。
離れている間、守ってくれていたんだな。
もといた世界とはいえ、お前がひとりで抱えるには重かっただろうに・・・」
耳に心地良い声が、聞いたこともないような何かを噛み締めるような言い方をする彼に、私は目を瞠ってしまう。きっと喜んでくれていると、そんな気になる。
「ありがとう、ミナ。
これからは一緒に、守らせて欲しい」
私の髪を手で梳きながらそう言った彼の声が心地良くて、気づいた時には、ただ頷いていた。もう何も心配ないのだと、心のどこかで安心したのだと思う。
「喜んで、くれてるよね・・・?」
肯定がもらえると確信に近いものを得てから言葉で確認する私は、やはり少し打算的だ。褒められたことではないと思うのに、彼の前で変わらない自分にほっとしてしまう。
「もちろんだ。
ずっと会いたかった。ミナにも、お腹の子にも」
「ん、嬉しい・・・ね、シュウ、ちょっと痩せたんじゃ、な・・・」
言いながらそっと体を離して、その顔を覗きこんだ私は、言葉を失った。
夢の中で静かに私を見下ろしていた緑色の双眸が、欠けているのだ。片方の瞳の色が、黒い。
伸ばした手が震えるのを無視して、私は彼の頬に触れる。見た目よりも柔らかくて温かいはずのその場所は、強張っていて冷たい。触れられるのを、怖がっているようだった。
「色が変わった方の目は、ほとんど見えない」
短く、淡々と告げられた内容に、鼓動が止まるのではないかと思うくらいの衝撃を受ける。それを表情に出してしまったのだろう、彼がそっと目を伏せた。
そして、その瞬間に私は直感したのだ。
「私のせい、なんだね・・・?」
「違う」
間髪入れずに否定する彼の言葉が、痛い。そっと頬に触れていた手を離そうとしたら、彼が私の手を掴んで、もう一度自分の頬に触れさせた。掴んでいる手の部分は熱いのに、触れた頬は冷たい。
「嘘をついても仕方ないから、正直に言うが・・・。
いろいろあったんだ。本当に、いろいろ。
全てが片付いて、お前をこの病院に運び終えたところで、目の異変に気がついた。
何となく原因に心当たりはある。が、誰にも真相は分からない」
「でも、」
「それに、」
反論しようとする私の言葉を、彼が追い討ちをかけるようにして遮った。彼の言葉に阻まれた私は、言おうとしていたことを口の中でゆっくり溶かす。
「覚悟はしていた。
お前を呼び戻すために、腕の1本くらい、代償になっても構わなかった」
「危ないことしてたの・・・?!」
物騒な内容に驚いていると、彼は小さく首を振った。
「そういうわけじゃない。
ただ、前人未踏で前代未聞だったから・・・何が起きるか分からなかったんだ。
だから、何もかもが都合良く転がるなんて、思ってはいなかった。それだけだ」
「シュウ、大事にするって約束したじゃない」
「・・・ああ。すまない」
私だけでなく、自分のことを大事にすること。・・・結婚した当初に約束したことだ。
今や片方だけになってしまった深い緑色の瞳が、ゆらゆらと揺れている。その隣では、漆黒の瞳が同じように、ゆらゆらと・・・。
「でも、腕が1本あれば訓練次第で何とでもなる。
剣も振えるし、お前を守ることも出来る。
生まれてくる子どものことも、抱くことが出来る」
「シュウ・・・」
決して強がっているわけではないのだ。それくらいのことは、表情を見ていれば分かる。本当に、彼は腕が1本あれば何とでもするだろう。
揺れた瞳が私を心配しているのだと分かるから、何も言えなかった。
「それが足だったとしても、同じことだ。
義足があれば、走ることだって出来る。
・・・そう思うと、潰れたのが片目で助かった。
他が残されていれば、今までと同じように生活出来る。問題ない」
「そんな、問題ないわけ、」
「ミナ」
力の篭った声で名前を呼ばれて、私は口を閉じる。
「本当に問題ないんだ。
お前が無事なら、それで十分だ。それだけを望んでいた。
だから、もう何も言うな。悲しませたくて、代償を覚悟したわけじゃない。
・・・お前を呼び戻そうとしたことは、間違いじゃなかったと思いたいんだ」
「そんなこと言われたら、会えて嬉しい気持ちが我慢出来なくなっちゃうよ・・・」
目の前で、光を失った彼の瞳を見たというのに、私の胸は嬉しさに震えそうになっていた。彼が何かを差し出してまで、私を思ってくれていることに、心底嬉しいのだ。そんな自分の薄情で屈折した部分が本当に嫌になる。
申し訳ないのに、悲しいのに嬉しいと思う気持ちをどうしても否定出来なかった。
そんなことを考えて黙りこくった私を、彼はきつく抱きしめた。力加減のことは、もう吹っ切れたのだろうか。思い切り、安心出来るくらいの力を込めてくれた腕に、私はそっと体を預ける。
そんな私が、そこまでしてくれた彼のために出来るはそれほど多くはない。もらった気持ちに恥じないように生きていくことくらいだ。
「・・・おかえり」
そのひと言に、思い出したように涙が零れる。本当に、私の心は正直だ。残酷なくらいに。
「ただいま・・・ありがと、シュウ。ごめんなさい、ごめんね。
ずっと会いたかったよ、会いたくて、死んじゃうかと思った・・・。
愛してるって、もっと言えば良かったって、すごく後悔してた・・・」
私が並べた支離滅裂な言葉の羅列に、彼は苦笑しながら頷く。そして、体を離すと私の目から零れる涙を、そっと指先で拭ってくれる。
すると、深い緑と漆黒を交互に見つめた私に気づいたのだろう、彼は小さく首を振ってから、笑みを刻んだ唇で私に口付けた。
これが、ある日突然キッチンでお玉を持ったまま生まれ育った世界に飛ばされた私が、やはりある日突然こちらの世界に呼び戻された日の、最初の記憶だ。
私は、ある冬の夜にこの世界の自宅のキッチンで、夕食のスープを温めなおしていた。彼は、テーブルに食器を置いていたような気がする。そして、おたまを持って・・・気づいたら、日本の実家の台所に立っていたのだ。瞬間移動だった。
それからは、家族に事情を説明したり薬局で買った検査薬で妊娠が発覚して、病院に駆け込んだり・・・いろいろあった。結局、家族からはそれなりの理解を得て、自分ひとりで生み育てるために資格の勉強を始めて・・・そして、またしても気づいたらこちらの世界に戻ってきていた。
病院のベッドに寝かされていたこと、リュケル先生が診てくれたことを聞かされた後、従姉妹のつばきが渡り人としてやって来ていることを知った。彼女が持っていた携帯の写真がきっかけで、彼は私を呼び戻す決意を固めたらしい。
そして、ホルンという北にある学問の街の教授や、ジェイドさん、ロウファとその番のルルゼという少女も加わって、皆で私を呼び戻してくれたのだという。沢山の人の手を借りて、私1人では払えないような代償を肩代わりしてもらって、何と言えばいいか分からないくらい感謝の気持ちでいっぱいだ。
今日は、何をしようかな。
2日ほど泊り込んでいた従姉妹のつばきは、何が原因かは知らないけれどジェイドさんと喧嘩したらしく、たまに駆け込んでくるのだけれど、昨日の夜、いつも通りにジェイドさんが迎えに来て、彼のお屋敷に連行されて行った。
賑やかだった家の中が、少し静かになったことは寂しいけれど、またそのうち喧嘩して飛び出してくるだろう。不定期開催の恒例行事と化した家出は、私にとっては歓迎することでもあった。もちろん、つばきを妹として可愛がってくれるシュウにとっても。
そのつばきは、実はジェイドさんと結婚していた。込み入った事情が面倒なので割愛するけれど、彼女は今、ジェイドさんの赤ちゃんをお腹に宿している。宿して間もないのだから、喧嘩して飛び出すというのも危ない気もするのだけれど・・・。
つばきは危なっかしいところがあるから、ジェイドさんにはしっかり捕まえていてもらいたいものだ。
恒例行事は楽しいけれど、出来れば普通に我が家に泊まりに来てくれたら、もっと嬉しい。
朝の庭で今日はどうしようかと空を見上げてぼんやり過ごしていたところで、彼の声を背中で聞いた私は、ゆっくりと振り返る。
「また庭に出ていたのか」
初夏の風が、ガーゼの羽織をはためかせた。
「おはよ、今日もいい天気だね」
「ああ・・・気持ちがいいな」
「でしょ?
・・・今日は、あのへんの花を飾ろうかなと思ってたの」
すぐそばにやって来た彼を見上げて、花の揺れる辺りを指差して言う。見下ろす色違いの瞳は、私の指差した方角に視線をちらりとも投げてはくれなかった。
「ちょっとシュウ、聞いてる?」
あの再会の日から、あっという間に月日は流れて、私達は何もなかったかのように夫婦として生活を再開させていた。彼の片方の目の色が変わってしまったことにも、ほとんど何も見えていないことにも、触れないようにしてきた。ただ、私が彼の見えない方の目の側に立つことだけが、些細な変化から日常へと移行しつつある。
「朝ごはんの前にね、摘んでおきたいの。
咲いたばかりの時が一番、綺麗でしょ?」
「ああ、そうだな」
あからさまに適当な相槌を打つ彼が、私にそっと手を伸ばす。
朝っぱらから密着しても、この地域は家同士が大きくて敷地も広いから、隣近所から見られることはまずない。それは、彼にとってはかなりの好条件だ。
「それで、どっちなんだ?」
バリトンの声が、頭上からふわりとかけられる。
「どっちかな」
何が、とは問わない。ここ最近、ずっとこの質問を受けているのだ。
しつこく聞いてくる彼に辟易しているのだけれど、それだけ気にしてくれていると思うと、それはそれで嬉しかったりもする。
「教えてくれないと、名前も考えられないんだが」
困ったような、嬉しそうな彼の声が降ってきて、私は微笑む。
「そう言われても・・・それが分かるのはもう少し先なの。
しかも、ちゃんとお医者さまに診てもらわないと分からないんだよ」
何も言わずに彼の手が、私のお腹にそっと触れる。少し膨らみの目立つようになったそこは、最近状況が分かっているかのように、彼との抱擁を阻むことが多くなった。
大きな手から伝わる温もりに、私の中でまどろむ小さなものが、ぴくりと跳ねる。
「・・・あ・・・!」
私はそれを感じ取って、思わず声を上げた。
「どうした」
彼の声に緊張が走る。
私はそれをゆっくり首を振って否定すると、微笑んで告げる。
「動いたみたい。
シュウの手に、びっくりしたのかな・・・」
彼が、そうか、となんとも形容しがたい声色で呟くと、触れていた手で私のおなかをゆっくり、繰り返し撫でる。
何を思っているのか、彼の鼓動は時折早くなったり遅くなったりして。珍しく動揺しているようだと気づいたら、可笑しくて可愛くて、思わず声を漏らしてしまった。
「・・・笑うな」
「ごめん」
笑いを堪えながら謝ると、彼がむっとした表情のまま花を摘みに行ってしまった。けれど、私は知っている。あれは怒っているのではなくて、照れているとか、恥ずかしいとか、そういう類の感情表現なのだということを。
「ほんとにもう、可愛いなぁ・・・」
その背中を見つめて思わず呟いた刹那、ぽこん、と自分の中で空気の泡のような、何かが音を立てた気がした。一瞬驚いて目を瞠った私だったけれど、すぐに理解する。
「ごめんごめん、」
お腹に手を当てて、大事な赤ちゃんに謝ってみる。反応はなかったけれど、きっと今のはやきもちだ。私がシュウのことを考えていたから。
・・・父子で揉めそう。
近い将来、私の両側に彼と彼にそっくりな男の子が陣取っている光景が脳裏をよぎって、くすくす笑いがこみ上げてくる。
「でもね、ごめん。
ママの特別は、パパにさせてね・・・。
君もいつか、ちゃんと出会えるだろうからさ」
苦笑混じりに囁きかければ、怒っているかのようにお腹の中が反応した。添えた手が、その振動を受け取ってびっくりしてしまう。
・・・これはもう、毎日説得するしかなさそうだ。
ちゃんと私の言った花を何本か摘んだ彼が、こちらに向かって歩いて来る。見ていないと思っていたのに、しっかり私の言いたいことも見ているものも、分かっていてくれるのだ。
私はそんな彼と目が合って微笑む裏側で、彼には内緒の、胎教代わりの説得を誓ったのだった。
それからは、私達の生活を揺るがすようなことは、何も起きなかった。きっとこれからも、起きないのだと信じて暮らしている。
子どもも、無事に生まれて大きくなった。
最初の子は男の子で、次は女の子、最後にもう1人、実は今ちょうどお腹に入っている。
最初はおっかなびっくりだった彼も、今では良いパパだ。強いし、怖いし、でも優しくて甘い。私がほんの少しやきもちを焼く手前まで子ども達を構ったら、ちゃんと帰ってきてくれる、最高のパパだ。
院長・・・お母さまから10の瞳を継いで、年に何度か遠方や北の大国へ行くこともあるけれど、それなりに人当たりをよくしたのか、上手くやっていると思う。
・・・そのたびに買ってくるお土産のセンスは、全く、壊滅的なのだけれど。
ちなみに毎回、気持ちだけはありがたく受け取っている。
そんな私の、最近のささやかな悩みごとは、“この前お土産でもらった、鬼のような形相のお面を家の門に飾るかどうか”だ。
彼の本意は、“子ども達のおもちゃ”だったらしいけれど・・・さすがにそれは。
それから、近々生まれてきてくれるであろう子どもの名前。
3度目の正直で、彼がセンスの良い名前をつけてくれないかな、ということくらいだ。
そうやって、私は今日も温くて平凡で、最高の毎日を過ごしている。
1年の中にお祝いをする日が少しずつ増えていくことに、喜びを感じながら。




