小話 彼の隣に並んだら6
少し疲れを感じる体に、器楽の奏でる旋律が心地良い。
色とりどりのドレスに身を包んだ女性達と、正装した男性達が思い思いの場所で歓談しているのを、私は彼の隣で眺めていた。
結婚式を無事に終えた私達は、休憩を取りながら日暮れを待ち、夜会に出席している。この夜会を主催したのは陛下ということになっているから、私達は招待客として佇んでいるのだけれど・・・。
今回の名目の1つが“従兄弟の結婚を祝うため”なので、陛下は私達を最初に紹介して乾杯をして、賑やかで華やかな夜会が始まって。私はその雰囲気に圧倒されていた。
ダンスをする人達もいるし、昼間の結婚式に参列してくれた白侍女さん達の配るグラスを持って、ご機嫌にお喋りに興じる人達もいる。学生時代、体育の成績も並だった私にとっては、ダンスなんてもってのほかだ。かといって、周りの華やかな人達とお喋りに混じるだけの度胸もない。出来ればホールの白い壁に溶け込んでしまいたいと思うほど。
隣の彼は対人関係以外では器用に何でもこなすから、私と理由は違うのだろうけれど、仲良く一緒にホールの隅っこに佇んでくれている。幸いにも“新婚さんの”という前置きがつく私達に、声をかけにくる連中がいるわけでもなく。
「・・・夜会って、こういう雰囲気のものだったんだねぇ」
私がその顔を見上げて呟くと、彼はそっと息を漏らす。
「ああ」
短く相槌を打って壁に背を預けて腕を組んでいる姿が、早く帰りたい、と訴えているような気がした私は、小さく噴出してしまった。
そんな私を、彼が眉間にしわを寄せて見る。私はそっと首を横に振って、口を開いた。
「ごめん。
・・・シュウ、夜会、苦手でしょ」
小首を傾げれば、彼が迷う様子もなく頷く。
「面倒だ」
「やっぱり・・・。
で、こうやって無表情でぼーっとしてるから、余計に誰も近づいてこないわけか」
想像力を働かせて独りごちた私に、腕を下ろした彼が言う。
「・・・お前がダンスでもしたいと言えば、考えるが」
大きな手が伸びてきて、私の肩にかかる後れ毛を払う。そのままショールで隠した肩を引き寄せた。深い緑色の瞳が、静かに私を見下ろしている。
ホールに流れる演奏や、喧騒がどこか遠くに聞こえる気がした。
「ダンスはいいかな、恥ずかしいし・・・」
流れるように踊る人達の中に飛び込む勇気など微塵もない私は、彼の言葉にぷるぷると首を振る。それを見て鼻を鳴らした彼の腕が、私の体を軽く押した。それに素直に従った私は、彼が足を向ける方へと一緒に足を踏み出す。
「彼女に、酒ではないものを頼む」
彼の短い台詞に、白の侍女さんが笑顔で頷く。
・・・王宮の中では、彼の顔を正面から見据えて会話が出来る人物など限られている・・・はずなのだけれど、彼女は笑顔を浮かべてグラスを渡してくれた。
お礼を口にした私の横で、彼がくすんだ赤い液体の入ったグラスを受け取っている。きっとワインだ。
白侍女さんが「結婚式、良かったですよ~」とウインクして立ち去るのを見送った私は、思わず頬が緩んでしまう。
心がくすぐったい。一緒に楽しいことをすると、打ち解けてもらえるのか。
「少し、外の風に当たるか」
彼の言葉に頷いて、その腕に自分の腕を絡める。そして、彼がゆっくりと一歩踏み出した、その時だ。背後から、声がかかった。
「シュバリエルガ=ゼナワイト」
低音の、硬くて表情が伺えない声。艶やかで、聞き覚えがある。
隣の彼が名を呼ばれて、大きく息を吐いた。沈痛な面持ちを隠そうともせずに。きっと心底面倒だと思っているのだろう。なかなか振り返ろうとしない。
それどころか、一歩を踏み出した。無視する気らしい。
「・・・蒼鬼」
ふたつ名を呼び直した声が続けて何かを囁いて、それを聞き漏らさなかった彼が足を止める。私の耳では聞き取れなかったけれど、見上げた先、その眉間に何本ものしわが出番を待っていましたとばかりに表れた。
視線を感じて辺りを見回すと、淑女と紳士の皆様の視線が、彼とその後ろに佇む人に注がれているのが分かる。その表情は様々で、興味津々といったふうに目を輝かせていたり、顔を顰めていたり。
・・・蒼鬼は意外といい人、という認識がやっと王宮内に定着しつつあったのに。
私は内心でため息をついて、彼の腕をそっと撫でる。すると彼が、私の腰を抱いて振り返った。急に動くから、ドレスの裾がふわりと広がる。
目の前に、彼とよく似た緑の瞳がある。その人は私と目が合って、うっすら微笑む。
周りの空気が若干変わったような気がするけれど、そんなことに気を取られているわけにはいかない。私は気を引き締めて、その人と対峙することにした。
「・・・ひさし、」
彼が何か言う前に、その人が口を開いた。
私はそれを遮るようにして、少し高い声で彼の名を呼ぶ。周りに聞こえているだろうか。
「シュウ?」
「・・・ああ」
その人は一瞬言葉を失って、彼は私を見下ろした。いつもと少し違う声色に、彼は気づいただろうか。
私は、2人の気が一瞬逸れた間を掴んで彼に向かって言葉を紡ぐ。
「お知り合い?」
「・・・ああ」
一瞬だけ呆気に取られた彼が、喉の奥で笑ったのが分かる。深い緑が細められて、眉間のしわが消えていた。
それに勇気付けられた私は目の前で、ぽかん、としているその人に向かって一礼する。顔を上げれば、私の思惑に気づいたのだろう、相手の顔が思い切り顰められていた。
夫になった彼のおかげで、そういう物騒なカオに免疫がある私は、にっこり微笑んで小首を傾げる。周りにさざ波が広がった気配があるけれど、そんなことを気にしている場合ではないのだ。
年に一度の演技力が発動させて、私は言葉を紡ぐ。
「はじめまして。
ミナと申します」
その口から私の名前が飛び出る前に、と挨拶をする。
公衆の面前と言ってもいいくらいの視線の多さだ。根拠はないけれど、大佐とは初対面だと思わせておいた方がいいような気がした。
大佐は、北の大国の軍人だ。その人と面識があるなんて、どこか物騒な印象がある。何かがあって知り合ったとしか思えないだろう。
・・・いや、確かに何かはあったけれど。
ともかく王宮に出入りしている以上、彼と私が窮屈な思いをするのは避けたいのだ。後見を得て、コインを失って、婚約して・・・やっと最近になって針のような視線から解放されつつあるというのに・・・。特に彼は周囲から勘違いされやすいのだ。大国の大佐と睨み合っていただなんて、格好の噂の種だ。
「ミナ、彼は北の大国の・・・」
「軍人ではない」
先手を打った私の演技に便乗してくれた彼の言葉を遮って、その人が言葉をねじ込む。どうやら、呆気に取られて言葉を失ってしまったところから立ち直ったらしい。不敵な笑みを浮かべて、私達を見据える。
「軍人では、なくなった・・・?」
彼が訝しげに問う。
確か、私と院長を誘拐紛いの方法で招待してくれた大使を国へ移送するのに、同行していたのではなかったか・・・。
はじめまして、と言った手前、軽々しく言葉をかけるのも墓穴を掘る気がして、私は内心で小首を傾げながら彼らの会話に耳を傾ける。
「大使だ」
その言葉の意味が瞬時に理解出来なかった私は、少し間を置いて声を漏らした。
「本当に大使なんですか・・・?」
大佐でなく大使になったというその人に、恐る恐る尋ねる。
周囲の視線が好奇に満ちたものになった頃になって、私達は場所を変えた。春とはいえ、まだ夜風は肌寒い。バルコニーに出るための大きな窓は、一箇所を除いて締め切られている。私達の他に、夜風に当たろうと思う人間はいないようだ。
雲のない夜空には、星が瞬いて月が輝いている。
「・・・俺は、嘘はつかん」
ぽつりと呟いた表情が、なんだか傷ついているように見えてしまう。
きっとホールで“はじめまして”と挨拶したことを詰っているのだろう。罪悪感がじわじわとこみ上げてきた私は、咄嗟に言葉を紡いでいた。
「・・・あの、さっきはすみま、シュウ?」
言葉の途中で、彼の腕が後ろから回される。同時に、鼻で笑う気配がして、私は斜め後ろを仰ぎ見た。
「謝る必要はない」
「え?」
ずいぶんと強気な台詞に、私が声をあげる。すると大使を見据えていた彼は、静かに言い放った。
「あの一件は、すでに片付いたことだ。
なかったことにしたいと思うなら、あれでいいだろ」
背中がバリトンの声に合わせて振動しているのを感じた私は、彼の体温で暖をとりながら小首を傾げる。
「なかったこと・・・?」
「ああ」
彼が囁いて、その腕に力を込めた。
「ミナが、なかったことにしたいと思うなら、それでいいんじゃないのか」
言って、視線を大使に投げた気配がする。目の前に佇む新しく赴任してきた大使は、小さく息を吐いて私達から視線を外した。
「・・・従おう」
短く言い捨てるように言葉を吐いた大使が、私を一瞥する。
私はその視線を受け止めながら、無意識に手首を擦っていた。血の滲んでいたその場所は、すっかり綺麗になっている。院長が傷痕が残らないようにと、値の張る薬を用意してくれたおかげだ。
背中に感じる体温を確かめる。そして、何も言わず呼吸も乱れない彼の様子に、好きにしていいのだと汲み取って、口を開く。
「なかったことに、して下さい。
・・・もうあんまり、思い出したくないです」
素直に話した私に、大使が息を吐いてから頷いた。
「なら、今日から、」
「顔見知りだ」
最後まで言わせないあたりがシュウだ。呼吸を乱された大使が、顔を顰めている。
「だから、もう花を送り付けるのは止めろ」
「あ」
連日届く花束に辟易していた私は、結婚式のことで頭がいっぱいになっていて、すっかり忘れてしまっていたことに今さら気づく。
「女性に許しを請う常套手段ではあるが・・・あれでは、な」
彼の言葉に、大使が少し考える素振りを見せる。そして、ひた、と私の目を見据えた。
「・・・迷惑か」
ずいぶんと小さな声を出したものだ。凶悪なカオをしていた人が。
恐れ慄いていた自分が全く思い出せない私は、無意識にしっかり頷いていた。
「迷惑です・・・どちらかというと」
言葉の途中で大使が傷ついたカオをするから、最後がぼやけてしまう。そんな私に、頭上から小さなため息が降ってきた。
「それに、もう婚約者ではなくなったんでな」
そのひと言に、私は思い切り顔を上げる。目が合った彼が、その瞳を柔らかく細めて口角を上げた。甘さが零れる目元に、なんだか背中にむず痒さを覚えてしまう。
「人妻に連日花を贈るなんて、前任のと大差ないんじゃないか」
「・・・ひ、ひとづま・・・」
台詞の意味することよりも、その単語だけがひっかかって反芻した私を、彼はいつも通りに鼻で笑ってくれた。
・・・この暗さで、私の顔が赤くなっていることに気づかれていないことを祈ろう。
「人妻、だろ」
「そ、そうですね」
・・・耳元で囁く必要、あるんだろうか。
「待っててね、着替えたらお茶淹れるから・・・」
夜風に当たっていて疲れが出た、という口実で夜会を抜け出した私達は、ジェイドさんの用意してくれた車に送ってもらって帰宅していた。
朝からずっと気を張っていたからなのか、なんだか意識がふわふわしている。
車で送ってもらえるなら、と着替えないで帰って来た私は、タイマーをセットしたコンロに薬缶をかけてキッチンを出た。彼はソファに腰掛けて、返事もせずに何やら持ち帰った荷物を漁っている。
「何してるの?」
「いや・・・ああ、あった」
近づくと、彼がちょうど何かを見つけて取り出しているところだった。
「あ、婚姻届・・・」
「ああ。
明日、昼頃出かけるか」
「うん」
彼は手にしたそれを額縁から取り出して、テーブルの上に広げる。静かな家の中で、鼓動の音が耳元で響いているような不思議な感覚に陥って、私は彼の隣に腰掛けた。きっと、婚姻届の中の自分が彼に寄り添って鎮座しているからだ。きっと、そうだ。
「お前の字、ガッチガチだな。
・・・このへん、ちょっと震えてないか」
ぺらぺらの紙を指差して、彼が肩を揺らす。
私はそんな彼の肩を軽く叩いて、口を尖らせた。
「シュウだって、ここ、ちょっと斜めになってるじゃない」
「そうか?」
「そうです」
2人でお互いの字を貶しあって、それから噴出す。小さな意地悪の中に、ちゃんと愛情が仕込まれていることなんて、もうとっくに分かっていた。
「・・・楽しかったなぁ」
今日のことを思い出して、そっと言葉を紡ぐ。
離宮の庭では、たくさんの人に届けなければいけなかったから、大きな声を出してばかりだったけれど・・・今は、隣にいる彼にだけ。
顔を見なくても分かる。彼はきっと、私の言葉を拾うために、ちゃんと目を向けてくれている。深い緑色に私を映して、私にだけ分かる微笑みを浮かべて。
テーブルの上、ぺらぺらの紙の中、私達の分身が寄り添っている。それを見たら、自分が無敵になった気分になった。
「・・・いっぱい笑った気がするの。だから、すごーく楽しかった」
大きな手がいつものように肩に回されて、こめかみに口付けが降ってくる。
「良かったな」
こめかみに唇を付けたまま、彼が囁く。その低い声が心地よくて、私はこの大きな手を取った。そうしたらいつの間にか、深緑の蔦でぐるぐる巻きにされていた・・・。
我ながら絶妙な表現だと確信して、私はそっと笑みを漏らす。
「・・・ミナ?」
何を考えているのか知りたそうにしている彼に向き直った私は、手を伸ばした。最近は、表情筋の働きも見違えて良くなってきた頬は、見た目よりも柔らくて温かい。
「あのね、シュウ」
「ん・・・?」
その瞳を覗き込んで、私は言葉を紡ぐ。
「私ね、こっちで家族が出来るなんて思ってなかった」
「ああ」
静かな夜だ。タイマーが作動したのだろう、けたたましく薬缶の蓋がカタカタ鳴る音が止んで、しんと静まり返る。
相槌を打った彼の手が、院長が用意してくれた髪飾りを外して、髪を解いていく。
「孤児院ではいろんな人が優しくて、すごく居心地が良くて・・・。
院長もアンも、途方に暮れてた私を甘やかしてくれて。嬉しかった」
草原の中に建つ孤児院。目が覚めて初めて吸い込んだ空気。少し草の匂いがして、澄んでいて、冷たかった。自分の中にそれが染み渡っていく感覚を、私は忘れないと思う。
ぱさり、とずいぶん伸びた黒い髪が頬を掠める。膝の上で両手をきつく握った。
いつだって、自分の内面を言葉にするには勇気が必要だ。
「でも、誰も私のことを知らなくて。私の知ってる場所、知らなくて」
寂しくても、寂しいと言えなかった。たくさん時間を割いて構ってくれる院長とアンがいるのに、それでも寂しいだなんて、そんなことを言うのは心苦しかった。
「寂しかった」
ぽつりと零すと、頬にかかっていた髪のひと房を、彼の手が耳にかけてくれる。
「でもね、シュウと一緒にいるようになってから、寂しくないの」
言いながら、相槌も打たず静かに聞いていてくれた彼を見上げると、その瞳が波打っていた。ゆらゆらと。それだけで、一生懸命何かを考えてくれているのが分かる。
彼は、目が口以上にものを言うのだ。
「夏の夜会の時・・・」
そっと言葉を紡ぐと、彼の大きな手が私の髪を撫でた。そのまま、つむじに口付けが降ってくるのを、私は穏やかな気持ちで受け止める。
感情が絡まっていたのは、あの夜会の夜までだった。何かを責めたい気持ちや寂しい気持ち、縋りたくないと思う意地、強くいなければという思い込み・・・がんじがらめに絡まってしまったものが、あの日に弾け飛んだ。
「いろいろ吹っ切れたみたい。
・・・今はね、楽しみなことがいっぱいあるんだ」
「・・・そうか」
まだ私のつむじから彼が離れる様子はない。お互いの表情は見えないけれど、何かがどこかで繋がっている気がして、それだけで十分だと思えるから不思議だ。
「・・・家族になってくれて、ありがとう。ずっと、一緒にいてね」
静かな気持ちで囁いた私を、おもむろに動いた彼がその両腕で囲う。そっと、力を込めずにやんわりと包まれて、私は体のどこかに溜めていた息を吐き出した。背中をとんとん、と優しく叩きながら彼が小さく噴出す。
「どういう意味・・・?」
呟きに返事をする代わりに、彼が肩を揺らした。彼の胸板に耳を寄せると、規則正しく時を刻む音が聞こえてくる。
「家族になる前に、何か忘れてないか?」
「ん・・・?」
笑みを潜ませて囁く彼に、私は思わず小首を傾げる。膝の上で握り締めていた両手を彼の背に回して、そっと上を見上げた。
見下ろす瞳が、甘さを滲ませる。
「結婚指輪。
俺達、まだ夫婦にもなってない」
「・・・あ」
咄嗟に体を離して、自分の左手の薬指を見つめる。
・・・そうだ、肝心なものを忘れていた。
「すっかり・・・」
「ああ、俺も忘れていた」
楽しさに浮かれて、大事な行程をすっ飛ばしていた自分たちをひとしきり笑ってから、彼が荷物の中から小さな箱を取り出した。蓋を開けて目に飛び込んできた一対の指輪が、照明の光を受けてキラリと光る。どこか不貞腐れているように見えるのは、ちょっとした罪悪感のせいだろう。
小さい方の指輪を摘んだ彼が、私の手を取る。
「俺の方だ・・・」
低い声が目の前で囁く。甘さの中に硬さを感じて、私は彼の瞳をじっと見つめた。
目の合った彼が、静かに微笑む。
「ありがとう、と言うべきなのは・・・俺の方、だと思う・・・。
出会わなければ、自分を粗末にし続けていただろうな」
その言葉に、孤児院で出会った時に背中にナイフが突き刺さっていたのを思い出す。あれが自ら背中を差し出して受けた傷だと知ったのは、木枯らしの吹く頃だ。
私はその時の痛々しい彼を思い出して、その頬を撫でた。守りたいと、心からそう思ったのはその頃からだろうか・・・。
「大事にしてね」
「もちろんだ。
一生、大切にする。約束する」
咄嗟に呟いた言葉に、彼が間髪入れずに返事をする。
私はそれに首を振って、囁いた。
「・・・うん、嬉しい。
でもね、シュウのこともちゃんと大事にして欲しいよ」
素直な気持ちを言葉にした私を見て、彼が一瞬止めた息を吐きながら微笑む。
「・・・それも約束する」
頷いた彼が、私の指に銀色に光る指輪を嵌めてくれる。指輪の嵌められた手を、目の前にかざして眺めていると、彼が喉を鳴らした。
視線を上げると、そこには苦笑混じりに大きな方の指輪と摘んで待っている彼がいた。
摘んでいる指輪を受け取って、彼の手を取る。大きな左手は、いつも私の手を繋いで歩いてくれるけれど、たまに手癖が悪くて私を困らせる。特に、魔王様スイッチの入った時などには私をとことん翻弄するのだ。
神聖な儀式に必要のない部分まで思い出してしまった私は、鼓動が速くなるのを宥めながら指を摘んで、その指に嵌めこんだ。
「・・・私も、シュウのこと一生大事にします・・・。
・・・でもなんか・・・」
嵌めたばかり銀色の部分を、指先で撫でる。硬いけれど、つるりとした感触に頬が緩む。
「恥ずかしいから、誰も見てなくて良かったかも」
「・・・そうだな」
喉の奥で笑った彼が、指輪を嵌めた手で私の頬に触れる。その深い緑色をした瞳に滲む何かに気を取られていたら、お互いの吐息を感じるくらいの距離まで、彼の唇が近づいてきていた。
「俺も、」
囁きの合間に、吐息が触れる。早く、と思ってしまう私は、たぶん正常だ。
「我慢しなくて済むから助かる」
「・・・しようよがまむぅぅ・・・」
・・・どうせなら言い切るまで待って欲しい。いや、早く、とは思ったけれども。
私が不満そうにしているのが分かったのだろう、彼が閉じた口の中で笑う。
それが癪で、思い切ってその胸板を叩いてみる。すると、叩いた私の手は笑った彼の手に絡め取られてしまった。
「この白いのは、もう着ないんだろ?」
離れた唇が、楽しそうな声色で囁く。
「え?あ・・・うん、これは今日だけのドレスにしたいと思ってるけど」
ウェディングドレスなのだ。そこは譲れない。
すると、彼はさらに楽しそうに目を細めた。至近距離でそうされると、鼓動が跳ねる。
「あ、破いたりしちゃダメだからね?!」
嫌な予感に突き動かされて咄嗟に口走った私を、彼が目を細めたままじっと見つめた。
「あ、あれ・・・?」
楽しそうだった目が急に不機嫌そうになったことに、私は小首を傾げる。雲行きがあやしい。辺りの気温が、急激に冷えていくような気がして首を竦めた私に、彼が口を開く。
「・・・するか。
お前、俺をなんだと思ってる」
地を這うような声に、頭が混乱した私は咄嗟に答えていた。
「・・・野獣?」
時として、人は追い詰められると本音を吐くことがある。
今の私はまさに、そうだった。
「そうか・・・なら、」
言葉の通り獣のようにひた、と見据えて顔を近づけてくる彼を目の当たりにして、やっと私は自分の回答が間違っていたことを思い知る。
戸惑う間に腰を引き寄せられて、がっちり固定された私の首元に、彼の鼻先がにじり寄ってきた。吐息がかかって身を捩りたくなるのに、そうさせてはもらえないようだ。鼻で笑った振動が、触れた唇から首筋に伝わってきて可笑しな声が出てしまう。
「期待に応えよう・・・夫になったことだし、な」
・・・夫を何だと思っているんだ。
そう思うのに、私は彼の背中にしがみつくばかりで、言葉のひとつすら満足に紡げなくなってしまっていた。
夫婦がなんたるかを話し合ったのは翌日の、日が高く昇った頃のことだった。
もちろん、婚姻届を提出しに行く前である。




